第149話 第一章「八枚の時計」前編

十二月二十四日 午前九時十二分

 八つの時計を同時に撮るには、時計を揃えてはいけない。

 火群七瀬は、中央時計塔の床へ腹這いになって、そう結論した。

 長卓の上には、八地区から借りてきた時計が並んでいる。

 南環の南環六番共同浴場から来た丸時計は、硝子の内側へ湯気の輪が残っていた。北環の北塔配給所の時計は、白い文字盤の十二だけ塗り直されている。西環の魚棚市場の置時計は、鯛の形をした分針を持ち、東環の東環門の時計は、秒針の代わりに赤い円盤が回る。

 零番街〈ノー・アドレス〉の旧客車教室は、近くの共同食堂から借りた厨房用の油まみれの時計を寄越した。学塔区〈チョーク・タワー〉の旧字幕講堂は、授業開始を知らせる青いベル時計。北工区〈ラスト・ベルト〉の赤錆夜勤食堂からは、炉の交代時刻を示す鉄枠の二十四時間時計。王環駅〈クラウン・ゼロ〉周辺の第二待合所から来たのは、構内放送の秒読みへ使う黒縁の時計だった。

 形も高さも違う。

 八台を一列へ置けば、背の低い時計が隠れる。二列にすれば、前列の文字盤が後列の針へ重なる。円にすれば、七瀬の手回し撮影機〈クランク・アイ〉は三台を背中から撮ることになる。

「時計に背中はありません」

 七瀬は言った。

「今できた」

 脚立の上から、紅葉カナタが答えた。

 灰色の天井梁へ銅線を渡しながら、片足だけで器用に身体を捻っている。金色の短髪へ埃が乗り、右足首には薄い黒い支持帯。先月の舞台で捻った箇所は日常歩行なら問題ない。だが脚立の横桟に爪先をかけ続けると、靱帯の奥が熱を持つらしい。

「舞台では、客に見えない面を背中と呼ぶ。時計だって同じだよ」

「記録では、見えない面を未記録と呼びます」

「冷たい言い方だ」

「温度の話はしていません」

「そういうところが温かくない」

「配線を落としますよ」

「それは具体的に怖い」

 カナタは梁へ銅線を括り、左右で色の違う布札を下げた。八地区からの音声線を識別するための札だ。

 彼はもう紅牙座〈レッド・ファング〉の舞台へ戻っていない。

 正確には、戻れと言われるたび、台本を読んでから断っている。十二脚の椅子しかない小さな稽古場で、役者が途中で止められる演目を作り始めた。今朝ここへ来たのも空白の旗〈ブランク〉の一員としてではない。臨時放送所の設営費、足首の治療費、使う時間。三つを書いた薄い見積書を、一文字巴へ先に渡していた。

「三番線、少し短い」

 床へ座った巴が手を動かす。

 先天性の高度難聴を持つ彼女は、透明な喉当ての下で小さく息を出しながら、片手で手話、もう片方で黒板へ言葉を書いた。冷えた右人差し指は曲げ切ると腱が引っかかる。今日は指先を出した白い手袋の内側へ、薄い温熱布を巻いていた。

 黒板には八行。

《あなたの地区で、領土を持たない住民が判断へ参加することを認めますか。》

《認める場合、その地区が後から撤回できることを認めますか。》

 同じ問いが、地区ごとの言葉へ置き換えられている。

 南環では《旗を持たない隣人を、同じ湯の番へ入れるか》。北環では《所属名簿にない避難者へ、同じ確認権を渡すか》。西環では《店札のない者へ、勘定前の口を開かせるか》。意味は近い。しかし、同じではない。

 七瀬は撮影機の脚を一寸ずらした。

「三番線を延ばすと、五番の時計へ被ります」

「五番を奥へ」

 巴。

「奥へ置くと文字が読めません」

「字幕を付ける」

「字幕は撮影後です」

「生で出す」

「誰が」

 巴は、右手で自分の胸を指した。

 カナタが脚立の上から笑う。

「巴は八人必要だね」

「あなたは一人で八人を演じる」

「できるよ」

「だから駄目」

 返答は速かった。

 カナタの笑みが、一拍だけ薄くなる。

「分かりやすくするには、順番が要る」

 彼は言った。

「南から始めて、北へ行って、西で問題が起きて、東で解決する。客は道を失わない」

「南が最初の理由は」

「最初に映すから」

「それが優先順位になる」

「順番のない放送は、雑音だ」

「順番のある放送は、物語」

「物語は犯罪?」

「同意の前では、武器」

 巴の指が止まった。

 右人差し指の付け根が痛むと、彼女は無意識に手袋の句点を親指で擦る。

 カナタは脚立から降りた。

 着地で右足を庇い、左へ重心を逃がす。七瀬はレンズ越しにそれを見たが、何も言わなかった。カナタは怪我を見られることより、怪我の説明を舞台裏の筋書きにされることを嫌う。

「じゃあ、八地区を同時に出す?」

「聞き取れない」

「一つずつ出す?」

「順番ができる」

「順番を毎回変える?」

 巴は考えた。

「誰が決める」

「くじ」

「一番を引いた地区が主役になる」

「主役って言わなければいい」

「言わなくても画面が言う」

「画面に口がある?」

「あなたより多い」

 七瀬は顔を上げた。

「私を巻き込まないでください」

「記録係はいつも巻き込まれてるよ」

「巻き込まれた時刻を残せます」

「それ、強いな」

 巴が黒板へ一行加えた。

《順番は固定しない。順番を変えた理由も放送する。》

「それで試す」

 カナタが読み、肩をすくめた。

「役者の仕事が、理由の読み上げになった」

「役者ではなく中継担当」

「もっと地味だ」

「料金は同じ」

「急に好きになった」

 七瀬は撮影機のファインダーへ戻った。

 八台の時計。

 秒針は揃っていない。

 南環六番共同浴場が中央時計より四秒遅い。北塔配給所は二秒進む。魚棚市場は九秒遅れ、東環門は六秒進む。零番街の油時計は長針が震えており、毎分一秒ずつ余計に進む。旧字幕講堂はほぼ中央と同じだが、十二時になるとベル機構が針を半秒止める。赤錆夜勤食堂は十一秒進み、王環第二待合所は三秒遅い。

 同時に撮れば、ずれの証拠になる。

 同時に合わせてから撮れば、同時だった証拠になる。

 七瀬は後者を選びかけていた。

 撮影前に八台を中央時計へ合わせる。その作業も撮る。各地区が同じ時刻を持った状態で持ち帰れば、判断の開始と終了を比較できる。

 正しさは、基準が一つの方が撮りやすい。

 八台の持ち主は、時計を合わせる前に、時計の悪口を言った。

 七瀬が求めたのは管理履歴だった。

《いつ巻いたか。どこを直したか。どれだけずれるか。誰が触れたか。》

 返ってきたのは、もっと生活に近い答えだった。

 南環の柏木秋枝は、丸時計の硝子を袖で拭いた。

「この時計は、風呂が沸く前だけ遅れる」

「温度で油が変わりますか」

「人が見るからだよ」

「見ても針は変わりません」

「湯を待ってる時は、一分が長い」

「体感ではなく機械の履歴を」

「機械だって、人に見られて仕事する」

 北環の薬局員は、北塔配給所の時計の十二を指した。

「十二だけ塗り直したのは、夜間配薬が零時だから。停電してもそこだけ見える」

「蓄光塗料ですか」

「貝殻粉。古い方法」

「一日で光が弱くなる」

「毎朝塗る人がいる」

「誰が」

「その日、最初に薬局を開けた人」

 西市場の鯛時計は、分針の尾が一分ごとに揺れる。馬瀬鈴は「魚がまだ生きてるようで嫌だ」と言いながら、尾のねじを毎週締めていた。

 東環の赤い円盤は、秒を読むためではない。遠くから回っているか、止まったかだけを見る。貨物作業員には数字より、止まっていないことの方が重要だった。

 零番街の油時計は、厨房の揚げ油が冷えると二秒進む。

「遅れるんじゃなく?」

 七瀬が訊く。

 配膳係は、時計の裏を見せた。

「油が固まって振り子の戻りを弾く。うちの時計は寒いと急ぐ」

「調整しないのですか」

「朝粥の時間は、この時計で体が覚えてる。直すと全員遅刻する」

 学塔区の青いベル時計は、授業の終わりを告げる時だけ三秒長く鳴る。北工区の二十四時間時計は、夜勤と日勤の交代を取り違えた事故の後に導入された。王環第二待合所の黒時計は、構内照明が映り込まないよう反射を殺してある。

「全部、標準品じゃない」

 カナタが言った。

「標準品だった物を、使った人が変えた」

 七瀬は時計の裏側を撮った。

 傷。

 塗り直し。

 油染み。

 交換されたねじ。

 持ち主の名前でなく、作業日が書かれた札。

「同じ時刻へ直したら、これも消える?」

 カナタ。

「消えません。機構の癖は残ります」

「じゃあ、七日後にまたずれる」

「だから毎日補正します」

「補正する人が主役になる」

「また、その話ですか」

「どの時計が遅れたかじゃなく、誰が毎朝触れるか。舞台なら、そこに役がある」

 巴が黒板へ書いた。

《触れた人を記録。》

 七瀬はうなずきかけ、止めた。

「全員の手を撮ると、作業が遅れます」

《名前だけ?》

「名前が出せない人もいます」

《役割と時刻。本人が範囲を選ぶ。》

「記録が増えます」

《仕事。》

 巴は短く書いた。

 七瀬は不満だった。

 正しいからではない。

 自分の仕事を、別の人に簡単に言われたからだ。

「記録する側の負担も書きます」

《書く。》

「肩の痛みも?」

 カナタが訊いた。

「機材状態へ書きます」

「肩は機材?」

「撮影条件です」

「人間を設備みたいに」

 巴が笑った。

 七瀬は笑わなかった。

 しかし記録表へ、新しい欄を作った。

《時刻へ触れた者。補正理由。確認した者。記録者の制限。》

 八台の時計は、まだ揃っていない。

 その時点で、既に八種類の履歴を持っていた。

 そこへ、磨かれた靴音が入ってきた。

 階段を上がる足音は六人分だった。歩幅と間隔が揃い、最後の一人だけ左足の接地がわずかに浅い。

 七瀬はカメラを回したまま、入口を見る。

 灰色の外套。

 透明な盾。

 胸に成人治安隊〈グレイ・ライン〉第三隊の細い銀章。

 先頭の男は、扉を通る前に全員の靴を見た。

 紐が解けていないか。雪が付いていないか。片方だけ歩幅が乱れていないか。顔より先に足を確認する視線だった。

「榛名柊吾。第三隊長」

 男は名乗った。

 三十四歳。黒髪には早い白髪が混じり、右頬へ古い群衆事故の傷が走る。灰色の外套は寸分違わず留められていたが、左耳の後ろだけ皮膚が赤い。寒い日に耳鳴りが強くなる者の押さえ方だった。

「機材に触れるな。通路を空けろ」

 八語以内。

 対象、理由、期限のうち、今は期限がない。

 部下たちは長卓から一歩離れて止まった。

 榛名は八台の時計を順に見た。文字盤ではなく、底面の封印札と巻き鍵を見る。

「未同期か」

「基準撮影前です」

 七瀬はクランクを止めない。

「中央時計との差を先に撮っています」

「差は消す」

「消す前も残します」

「必要ない」

「誰が決めました」

「現行規則だ」

 榛名は革の手帳を開いた。

 角を机の縁へぴたりと合わせる。

「八旗協議の同日判断は、中央時計を唯一の正時とする。十二月三十一日、十四時から地区ごとの最終説明。十四時三十分に初回判断を開始。十五時零分零秒、全会場を閉じる。一秒の差も無効だ」

 カナタが細い銅線を指で弾いた。

「一秒遅れたら、その地区の人間は消える?」

「記録が無効になる」

「記録が消えれば、人間もよく消えるよ」

「演出は不要だ」

「職業差別だな」

「用途の話だ」

 榛名の声は低く、怒鳴らない。

 正確だから、反論は感情へ逃げられない。

 巴が黒板を回した。

《一秒を公平と呼ぶ理由は。》

 榛名は彼女の手話を見ず、文字を読む。

「後出しを防ぐ」

《情報到達が違う。》

「だから同時に閉じる」

《雪で遅れた地区は。》

「同じ条件を満たせない」

《それを公平と呼ぶ?》

「強い地区だけが他地区の結果を見てから変える方が不公平だ」

 時計塔の中が静かになった。

 榛名の言い分は、きれいだった。

 中央会場で全員が一斉に手を上げるより、八地区へ分かれた方が地方の事情は守られる。だが結果の到着が早い地区と遅い地区があれば、遅い側は先に出た数字を見て判断を変えられる。人数の多い地区が、最後まで待って全体を支配することもできる。

 同じ一秒で閉じれば、それを防げる。

「賛成ではありません」

 七瀬は言った。

「でも、懸念は記録します」

「懸念ではない。条件だ」

「条件を決めた経路も記録します」

「好きにしろ」

 榛名は八台の時計へ視線を戻した。

「十時に校正する。各地区へ封印して返す。校正後は、第三隊の許可なく開けるな」

「撮影します」

「許可する」

「許可は求めていません」

「なら言う必要もない」

 七瀬と榛名は、三秒ほど互いを見た。

 その三秒を、共同食堂の時計だけは四秒として進んだ。

 午前十時三分

 会議は時計塔の下、王環駅旧待合室で続いた。

 八地区の代表は、暖房の弱い長卓を囲んでいた。八旗の旗芯〈コア・ピン〉は机へ置かれず、入口の保管箱に預けられている。ここで話すのは旗の権威ではなく、地区の委任だという建前だった。

 建前は、役に立つ。

 守る者がいれば。

 空白の旗に用意された椅子は、卓の外へ半歩ずれていた。

 白い布が背へ掛けられている。名札はない。

 領土を持たない住民、旗へ入らない住民、働く場所と眠る場所が違う住民。その参加方法を議題にしているのに、彼ら自身へ中央の一票を渡す案ではない。各地区の判断へ、所属なしで入れる窓を作る。そのための同日判断だった。

 それでも中央は、空席を一つ作ると安心する。

 椅子があれば、誰かが代表した気になるからだ。

「巴が座ればよい」

 学塔区の代表が言った。

「通訳者で、どの旗にも属さない。条件に合う」

 巴は首を横へ振った。

「まだ訊かれていない」

 発声は小さいが、子音が明瞭だった。

「誰に」

「座らせたい人にではなく、座られる人に」

 西市場の代表が笑った。

「全員に訊くまで、椅子を空けるのか」

「そう」

「会議は終わるぞ」

「終わる会議に、終わらない代表を置かない」

 カナタが壁際で拍手しそうになり、両手を離した。

「今の、台詞に使っていい?」

「駄目」

「理由は」

「あなたが言うと、私が賢く見える」

「嫌なの?」

「続きまで正しいと思われる」

 七瀬は空席を十秒撮った。

 誰も座っていない証拠。

 誰も代表していない証拠。

 しかし、空席だけを撮れば、そこに座りたかった者がいなかったようにも見える。

 画角はいつも、説明より先に結論を作る。

 七瀬はレンズを少し引き、椅子の背後に並ぶ立見の住民まで入れた。

 迅が、その一番後ろにいた。

 色褪せた紺の学ラン。右手首の赤い七結び。灰色の一房が暖房の風に揺れている。彼は会議の中心でなく、非常口の蝶番を見ていた。

「八会場の担当を決める」

 榛名が言った。

「警備は第三隊。各地区一班」

「警備の指示系統は地区責任者へ置く」

 凱が返した。

 白い外套の裾は膝下で切られ、左膝の黒い装具が隠れていない。先月返した王衣装より、今の方が人々は彼へ道を空けた。

「第三隊は中央規則に従う」

 榛名。

「地区の避難判断を中央規則で上書きするな」

「避難と採決を混ぜるな」

「雪は議題を読まない」

「だから時刻を揃える」

「時刻は雪を除けない」

 二人とも統一された隊列の美しさを知っている。

 決定が一つなら、動ける人数は増える。迷いが消え、救助路が空き、食料は早く届く。

 ただし、間違った一つも同じ速さで届く。

「南環は迅」

 七瀬が名簿を読んだ。

「北環は凱。西環は真琴。東環は轟。タマキは原票経路。巴は中央文面確認。カナタは臨時放送。私は時計塔と全記録」

「なぜ、おまえが割り振る」

 迅が訊いた。

「全員がもう決めたからです。私は読んでいます」

「俺は決めてない」

「南環から指名状が三枚来ています」

「有名人を置きたいだけだ」

「断りますか」

 迅は壁の避難図を見る。

 南環の南環六番共同浴場には出口が二つ。裏口は冬季閉鎖。実質一つ。

「椅子を運ぶ」

「演説は」

「しない」

「そう記録します」

「演説しないところまで演説にするな」

 七瀬は名簿の余白へ、書かなかった。

 凱が北環の地図を取る。

「北塔配給所は階段が七十六段ある」

「数えたんですか」

 タマキ。

「建てた時から知っている」

「左膝で七十六段」

「上るのは一度だ」

「下りるのも一度」

「二度だな」

「王様、算数が戻った」

「王ではない」

「算数は戻った」

 轟が東環の図面を広げる。右手で紙を押さえ、左肘は身体から離さない。

「東環門。扉、四・二トン」

「壊すなよ」

 迅。

「壊せる」

「質問じゃない」

「答えでもない。重量」

 真琴は西市場の投票番号表を、眼鏡へ触れるほど近づけた。白い手袋の右だけ、署名用に指先が開いている。

「市場は番号を売買します」

「票を?」

 カナタ。

「整理券を。魚を。借金を。場所を。番号へ値段を付けるのが得意です」

「投票番号も売る?」

「売れない物ほど、高く売れます」

「市場の名言?」

「注意書きです」

 巴が中央席を見た。

 空の椅子。

「私は座らない」

「言われなくても分かった」

 カナタが配線表を折る。

「僕も舞台へ立たない。声は出すけど」

「舞台はない」

「中央は、どこでも舞台になる」

 七瀬はその言葉を記録した。

 同意のためではない。

 あとで、彼が自分の仕事を忘れた時に返すためだ。

 午後一時二十一分

 校正前の確認で、最初の時計が止まった。

 正確には、止められた。

 南環の丸時計を持ってきた柏木秋枝が、第三隊の技師の手首を掴んだのだ。

「裏蓋を開ける前に、書いて」

「何を」

「今、四秒遅れてること」

「校正すれば消える」

「だから書く」

「誤差だ」

「南区では、その誤差で湯を止める時刻を決めてる」

 技師は榛名を見る。

 榛名は短く言った。

「現状を記録。次に校正」

 秋枝は手を放した。

 七瀬は撮影機を回す。

 八台の時計には、時刻以外にも地区の使い方が染みついている。

 魚棚市場の置時計は、競り開始の鐘と連動するため、秒針が十二を越える直前だけ鯛の尾が震える。学塔区の青いベル時計は、一限と二限の間に三十秒の無音がある。共同食堂の時計は、昼鍋の火を落とす時刻へ、誰かが赤鉛筆で小さな線を引いていた。

「消していい印は、誰が決める」

 七瀬が訊く。

「時刻以外へは触れない」

 技師。

「裏蓋の中に印がある場合」

「開けてから確認する」

「確認前に触れる」

「開けなければ見えない」

「開ける手を撮ります」

「撮影機を近づけすぎるな。磁気が」

「手回し式です」

「知っている」

「なら、今の警告理由を訂正してください」

 技師は口を結んだ。

 榛名が言う。

「不用意な一般警告。撤回」

「隊長が訂正するんですか」

「発言者がしろ」

 技師は七瀬を見る。

「磁気影響の警告を撤回します。距離は作業空間のため一腕分」

「一腕は誰の」

 タマキが訊いた。

 技師が止まる。

「成人一人分」

「凱とぼくで違う」

「七十センチ」

「最初から数字で言えばいいのに」

「人は数字より腕を持っている」

「時計は腕を持ってない」

 カナタが笑った。

「朝の話が戻った」

 確認作業は、予定より一時間四十分遅れた。

 各地区の時計について、傷、汚れ、裏蓋の封、巻き鍵の位置、現在の遅れ、日差、使われ方を書いたからだ。