第150話 第一章「八枚の時計」後編

 榛名は遅れを止めなかった。

 代わりに、すべての欄へ終了予定時刻を書かせた。

「厳しいのか、親切なのか分からない」

 カナタが言う。

 巴が黒板へ書く。

《厳しさは性格ではなく、負担の置き場所》

「それも使っていい?」

《不可》

「今日、名言が高い」

 午後三時十二分。

 赤錆夜勤食堂の二十四時間時計を運ぶ途中、箱の底が抜けた。

 落下まで、七瀬には長く見えた。

 箱の角が机を離れる。

 時計の重量で底板が弓なりになる。

 封印糸が切れる。

 赤い二十四時間表示が、床へ向く。

 迅が右手を出しかけ、痺れた指を閉じられない。

 左手へ替えるより先に、タマキが自分の鉄箱を滑らせた。

 時計は鉄箱の蓋へ当たり、斜めに跳ねる。

 轟が足を差し込む。

 靴の甲で落下角を変え、床へ直接当てない。

 凱が白い布を広げる。

 時計は布の中へ落ちた。

 誰も一人では受け止めていない。

 秒針は動いている。

 だが封印糸は切れた。

「事故扱いで再封印」

 技師が言う。

「誰の事故」

 真琴が訊く。

「箱の劣化」

「箱に責任能力はありません」

「搬送担当」

「担当は誰」

 全員が互いを見る。

 箱を持っていたのは郵便庫の職員。

 底板を確認したのは第三隊。

 経路を空けたのはカナタ。

 鉄箱を滑らせたのはタマキ。

 足で受けたのは轟。

 布を広げたのは凱。

 七瀬は撮影しただけ。

 迅は触れていない。

「責任者を一人にする?」

 タマキが訊く。

「記録を分けます」

 真琴は答えた。

「事前点検、搬送、落下、受止め、再封印」

「長い」

「事故が一つに見えるだけです」

 七瀬は時計へ寄る。

 赤い表示は、落下前より一秒進んでいた。

 当然だ。

 落ちている間も時間は進む。

 彼女は切れた封印糸を、捨てずに透明袋へ入れた。

「新品へ替えるのに?」

 郵便庫の職員が訊く。

「切れた事実は新品になりません」

 再封印の札には、六人の名と一台の箱の劣化が並んだ。

 榛名は最後に、自分の名も書いた。

「なぜ」

 七瀬が訊く。

「点検手順の責任者」

「事故を起こしていない」

「起こさない手順を作れなかった」

「それを全部の責任者が言えますか」

「言わせる」

「命令で?」

「記録で」

 榛名は署名を終えた。

 七瀬は、彼が正しい場面も撮った。

 正しい場面を撮らなければ、後で間違いを示す映像まで信用されない。

 あるいは、正しい場面があるからこそ、間違いは見えにくくなる。

 どちらかは、まだ決めなかった。

 午後四時五十七分

 時計塔の八台は、中央時計へ合わせられた。

 第三隊の技師が裏蓋を開け、秒針を止め、中央の振り子が零を打つ瞬間に動かした。七瀬は最初から最後まで撮影した。未編集記録〈ワン・テイク〉として、針に触れた手、封印を貼った手、各時計を箱へ入れた手まで一続きに残した。

 榛名自身は時計へ触れなかった。

 彼は一歩離れ、手帳へ秒数を書いていた。

 八台すべてが、同じ時刻を示す。

 同じ音を刻む。

 それでも七瀬には、同じには見えなかった。

 零番街の油時計は、油で秒針が重い。魚棚市場の鯛は一秒ごとに尾を揺らす。北塔配給所の十二は、修理した白だけが新しい。王環第二待合所の黒縁時計は、光が当たる角度で数字が消える。

「揃いました」

 技師が言った。

「今は」

 七瀬は訂正した。

 榛名の手帳の角が、机の縁から一分ほどずれていた。

 彼はそれを直す。

「七日後も揃える」

「誰が」

「規則が」

「規則に指はありません」

「人が従う」

「人の指を撮ります」

「撮れ」

 榛名は命令の形で許した。

 七瀬は返事をしなかった。

 時計は一台ずつ箱へ収まり、担当者へ渡された。

 迅は南環の丸時計を左手で持った。右の小指が冷えで痺れ、箱の紐を結び直すのに時間がかかった。誰にも手を借りず、二度ほど結び目を解いた。

 凱は北塔配給所の箱を部下へ渡そうとして、止めた。

「俺が持つ」

「階段があります」

「だから、上で渡す」

「持つ意味が違うだろ」

 迅が言う。

 凱は箱を見た。

「そうだな」

 北環の薬局員へ渡す。

「あなたが持って上がれ。俺は階段の役割を割り振る」

 薬局員は戸惑い、それから受け取った。

 轟は東環門の時計箱へ、重量と持ち手の耐荷重を書き足した。真琴は封印番号を三度確認した。タマキは運搬札の切欠きを指でなぞり、八箱の経路を記憶した。巴は空席の名札を裏返した。カナタは放送順を記した紙を破り、八枚へ分けた。

 全員が塔を出た後、七瀬はもう一度、旧待合室へ戻った。

 中央席には誰もいない。

 白い布だけが背へ掛かっている。

 時計塔の上では、箱へ入らなかった中央時計が秒を刻む。

 南へ運ばれる時計。

 北へ上る時計。

 西の魚臭い卓へ置かれる時計。

 東の貨物門で煤を浴びる時計。

 零番街の湯気へ戻る時計。

 学塔の講義机へ据えられる時計。

 北工区で炉床の振動を受ける時計。

 王環第二待合所の長椅子脇へ据えられる時計。

 同じ時刻へ直された八本の秒針は、別々の道で、もう別々に進み始めていた。