第151話 第二章「南区の朝」前編

十二月二十五日、午前六時十四分。

 南環六番共同浴場には、湯より先に椅子が来た。

 竜胆迅は、折り畳み椅子を二脚ずつ持って、脱衣所と集会室を往復した。

 右手でも持てる。

 ただし、朝の冷えで小指と薬指が鈍い。指を掛けるより、椅子の座面を左前腕へ乗せ、右掌は倒れないよう添えるだけにする。

「一度に四脚いけるだろ」

 浴場番の老女が言った。

「いける」

「じゃあ四脚」

「二脚」

「若いのに」

「若いから、明日も使う」

「何を」

「手」

 老女は迅の右手を見た。

「喧嘩に?」

「椅子に」

「椅子は逃げない」

「人より強い」

 古い折り畳み椅子は、開き方を間違えると指を挟む。殴る相手より、説明を聞かない。

 迅は四往復目で、壁際へ二十八脚を並べた。

 凱なら真っ直ぐな列にする。

 迅は半円にした。

 全員が前を向くと、前に立つ者が必要になる。半円なら、誰かが喋っている間もほかの顔が見える。

「演説はどこでやる」

 柏木秋枝が訊いた。

 深い紫の外套。縫い直し屋の看板は百人会議のあと外したが、針入れだけは今も腰へ下げている。母親の薬包を左の内ポケットへ入れ、右手には会議用の平文〈プレイン〉用紙を持っていた。

「やらない」

「何しに来た」

「椅子」

「椅子は投票しない」

「それは助かる」

 秋枝は笑わない。

「空白の旗が何を求めてるか、あんたの口で聞きたい」

「紙にある」

「紙はあんたじゃない」

「俺の意見で、この場所の票を動かす気はない」

「黙ってたら動かないと思う?」

 迅は椅子の脚を開いたまま止めた。

「どう動く」

「有名人が後ろへ座って黙ってたら、反対するなって意味にも見える。自信がないから責任を取りたくないようにも見える」

「便利だな、黙ると二つ言える」

「喋っても二つ言う」

「もっと便利」

 秋枝は平文用紙を一枚、迅の胸へ押しつけた。

《あなた自身は、参加枠を必要だと思うか》

 下に、答え方が並ぶ。

《はい》

《いいえ》

《まだ決めない》

《質問がある》

《答えない》

「これ、俺の投票じゃない」

「質問」

「あとで答える」

「いつ」

「この場所の説明が終わってから」

「今、先延ばしを選んだ」

「記録しろ」

 秋枝は本当に時刻を書いた。

《六時二十二分。竜胆迅、回答を説明後へ保留》

 迅は少し腹が立った。

 腹が立つのは、たいてい正しく記録された時だ。

 六番浴場は、黒雨〈セブン・ブラック〉前には銭湯だった。

 洪水後、浴槽の一つを貯水槽へ変え、もう一つは共同浴場として残した。男湯と女湯の壁は途中で抜かれ、片側が洗濯場、片側が集会室になっている。

 天井は高い。

 高い天井は、冬に会議をする人間へ敵意がある。

 暖めた空気を全部上へ持っていき、椅子に座る人間の足首だけを冷やす。

 午前七時、湯路の循環が止まった。

 最初に気づいたのは、会議の準備をしていた者ではない。

 浴槽へ手を入れた三歳の女児だった。

「つめたい」

 その一言で、大人が十人動いた。

 迅は動かなかった。

 動く前に、床へ耳を近づけた。

 赤錆大工場〈ハート・ファーネス〉で、轟が何度もやっていた。管の中で水が動いていれば、床の方が先に知る。

 音がない。

 壁の温水管へ掌を当てる。

 入口側だけ温かく、集会室の下へ入るところで冷えている。

「詰まり?」

 秋枝。

「決めるな」

「じゃあ何」

「温度がここで落ちてる」

「同じでは」

「詰まりは原因。温度は今あること」

「七瀬みたいな言い方」

「嫌なこと言うな」

 浴場番の老女が、迅の肩越しに管を叩いた。

「二番弁」

「どこ」

「床下」

「開ける」

「開けるな」

「どっちだ」

「二番弁が閉じてる。でも先に一番を絞らないと、熱いのが来る」

「順番」

「一番を半分。三番の逃がしを開ける。二番を少し。音を聞く」

「やる」

「やるのは私」

 老女は迅を押し退けた。

 小柄だが、押し方に迷いがない。

「この管、何年見てる」

「三十七年」

「俺、今日が初めて」

「なら黙って灯り持て」

「了解」

 迅は床板を外し、灯りを差し込んだ。

 床下は狭い。湯気と埃。古い管が三本、後から足した細い管が二本。どれも同じ茶色へ錆びている。

 老女は腹這いになり、長い弁棒を差し込んだ。

「一番、半分」

 秋枝が壁の圧力計を見る。

「六から四」

「三番」

「音」

 遠くで、水が管の内側を擦る。

 迅は右耳を床へ近づけた。

 冷たい床に触れた瞬間、右眉の古傷が引いた。

「来る」

「何秒」

「分からない」

「役に立たないね」

「でも来る」

 次の瞬間、二番弁の根元から茶色い湯が噴いた。

 迅は灯りを捨て、左手で老女の襟を掴んだ。

 引く。

 右手で床板を立て、湯を受ける。

 熱い。

 右掌に痛みが走る。骨ではない。皮膚と神経が、冷えから急に熱へ変わったことへ怒っている。

「閉める!」

 秋枝が一番弁を絞る。

 老女は引かれながら怒鳴った。

「全部閉めるな! 三番が戻る!」

「どれくらい!」

「四分の一!」

 迅は床板を盾にしたまま、足で弁棒を送る。

 老女が掴み、二番を戻す。

 噴き出しが細くなる。

 蒸気が迅の顔を包んだ。

 耳が水で覆われた錯覚が、一瞬だけ来る。

 呼吸が止まる。

 目の前は湯気で白い。

 洪水の濁水ではない。

 床下だ。

 浴場だ。

 秋枝が右から言う。

「迅」

 名前だけが、白い中で近い。

 迅は息を吐いた。

「三番、開けろ」

「開いてる」

「もう少し」

「老女が止めた」

「名前で呼べ」

「知らない」

 老女が床下から言った。

「浅海スエ。今は弁を見ろ」

「浅海、三番」

「半分」

 秋枝が回す。

 湯の圧が逃げた。

 床板の向こうで、茶色い水が排水溝へ流れる。

 事故は、始まる時より止まる時の方が手順を要る。

 修理に二時間かかった。

 原因は、二番弁の軸へ巻かれた布だった。

 古い漏れを止めるため、誰かが夏に布を巻いた。冬になり、布が水を吸って凍り、弁を半閉鎖で固めた。

「妨害?」

 八旗連絡役が訊いた。

 浅海スエは鼻で笑った。

「夏の善意」

「誰が巻いたか」

「分からない」

「記録を」

「漏れた日に、いた人」

「責任者は」

「漏れ」

 真琴がいれば、頭痛を起こす答えだ。

 迅は布を捨てず、透明な袋へ入れた。

《二番弁仮補修布。巻いた者不明。漏水停止には効果。冬季閉塞の原因》

 良かったことと、悪かったことを同じ袋へ入れる。

 人間は、片方だけにしたがる。

 袋の方が少し賢い。

 暖房はすぐに戻らなかった。

 管へ一気に熱を通せば、古い継ぎ目が割れる。浅海は、温度を十五分ごとに上げると言った。

 会議の試験開始は午前十時。

 集会室の床はまだ冷たい。

「中止にする?」

 秋枝。

「決めるのは俺じゃない」

「それ、便利な逃げ方」

「中止するなら、誰が困る」

「今日しか休みがない人。透析の帰りに寄る人。年末で店を閉められない人」

「続けるなら」

「子ども。足が悪い人。寒い」

「暖める」

「どうやって」

 迅は浴槽を見る。

 全部を同じ温度にする必要はない。

 赤錆の停止計画で、湯を全地区へ均等に配る案が出たことがある。均等は、必要量の違いを消した。

「椅子の下へ湯桶。熱いのは入口じゃなく、座り続ける人。動けるやつは立つ。書記卓は手が動く温度。出入口は冷えたままにする」

「出入口も暖めなよ」

「外と温度差が大きいと、床が濡れる。滑る」

 浅海が言う。

「正しい。誰に教わった」

「工場」

「誰」

「止めた工員」

「名前」

「多い」

「じゃあ、工員たち」

「俺が考えたことにすると楽?」

「有名人だから」

「やめろ」

「演説しないなら、せめて手柄くらい持ちな」

「重い」

 迅は湯桶を運んだ。

 一つずつ。

 右手の皮膚は赤いが、水疱はない。浅海が冷水へ浸け、油を塗った。軽い熱傷。包帯は要らない。

 常識的な傷は、常識的に治る。

 物語だけが、傷を永遠に残したがる。

 十二月二十五日、午後四時二分。

 湯が戻ると、会議へ来られない人が見えた。

 浴場の入口へ、夕方の利用者が続く。

 夜勤前の清掃員。市場を閉められない菓子屋。母親の身体を洗う男。二人の幼児を交互に脱がせる女。透析帰りで、椅子へ座る前に湯の温度を確かめる老人。

「この人たち、三十一日に来る?」

 迅が訊く。

 秋枝は受付台の名簿を見る。

「半分は来ない」

「理由」

「仕事、介護、病院、帰省、来たくない」

「最後も書くのか」

「来たくない人を、都合が悪い人にまとめない」

 平文用紙は会議室だけに置かれていた。

 会議へ来る人が書く前提だ。

 迅は用紙を十枚、脱衣所へ運んだ。

 浅海が止める。

「裸の人に投票させる気?」

「服を着てから」

「湯上がりに難しい紙を読む?」

「難しい?」

「長い」

「短くする」

「巴みたいなことできる?」

「できない」

「じゃあ呼ぶ?」

「中央の仕事がある」

 迅は用紙を見た。

《領土または旗籍を持たない住民が――》

 最初の一行で、湯冷めする。

 彼は裏返し、赤鉛筆で四つだけ書いた。

《話す人を選べる?》

《何を頼む?》

《いつまで?》

《やめる時は?》

 真琴が見れば、定義が足りないと言う。

 巴が見れば、誰の言葉か確認する。

 迅は浅海へ渡した。

「これで足りる?」

「私には」

「ほかの人には」

「知らない」

「訊く」

 浅海は、湯上がりの老人へ紙を見せた。

「分かる?」

「何の話」

「八旗の会議」

「話す人って、議員?」

「固定じゃない」

「じゃあ、町内会の当番?」

「近い」

「当番なら、断れる?」

 迅は四行目を指した。

「やめる時は?」

「頼んだ方がやめるのか、頼まれた方がやめるのか」

 足りなかった。

 迅は二つに分ける。

《頼んだ人が、やめてと言える?》

《頼まれた人が、やめたいと言える?》

 老人は頷いた。

「それなら分かる」

「答えは」

「今日は書かない」

「理由」

「湯に入りに来た」

 秋枝が紙へ記録する。

《回答拒否。理由、入浴目的》

「そこまで書く?」

 老人。

「消す?」

「面白いから残せ」

 次の女は、紙を受け取らなかった。

「夫が書く」

「あなたの分も?」

「家のことは一緒」

「意見が違ったら」

「違わない」

「確認する?」

「今、子どもが裸」

 幼児が脱衣籠を頭へかぶっている。

 迅は紙より先に、籠を取った。

「今日は訊かない」

「三十一日も来ない」

「じゃあ、いつ」

「明日の洗濯中なら」

 秋枝が時刻を書く。

《二十六日、十一時から十二時。洗濯場。夫同席不要》

 女が睨む。

「不要って、追い出すの」

「同席しなくても答えられる、に直す」

 秋枝は書き直した。

 紙一枚を置けば、参加できるわけではない。

 話す時刻、子どもの服、店番、家族の目、椅子の高さ。

 制度は大きな扉に見える。

 実際には、靴の中へ入った小石の方が、人を歩かせない。

 迅は、浴場の壁へ時間帯を三つ書いた。

《朝――市場が開く前》

《昼――洗濯しながら》

《夜――仕事の後》

「会議、三回やる?」

 浅海。

「説明を三回」

「同じに?」

「たぶん違う」

「誰が記録する」

「一回目、秋枝。二回目、浅海。三回目、来た人から二人」

「迅は」

「椅子」

「逃げた」

「仕事を分けた」

 秋枝が言う。

「迅が全部説明したら、迅の言葉が南環の言葉になる。椅子でいい」

「椅子は投票しない」

「今朝あんたが言った」

「覚えるな」

「記録した」

 迅は壁の三つの時間を見る。

 同じ説明を、同じ一秒に聞く必要はない。

 ただし、先に聞いた者が後の者へ答えを押しつけない方法が要る。

 迅は紙の下へ書き足した。

《前の回の人数と結論は、次の説明が終わるまで言わない》

 浅海が読む。

「噂で聞く」

「聞いたら、聞いたと書く」

「忘れたら」

「忘れたと書く」

「何でも書くね」

「書かないで正確なふりするよりいい」

 秋枝が迅を見る。

「それ、演説で言えば」

「椅子を運ぶ」

「逃げた」

 迅は答えず、濡れた椅子の脚を拭いた。

 午後七時四十四分。

 三回目の説明が終わる頃、迅は椅子を二十六脚運び、答えを一つも集計していなかった。

「何人、賛成?」

 夜勤帰りの男が訊く。

「まだ数えない」

「昼の人は知ってるだろ」

「昼の人へ、夜の人数を言わないよう頼んだ」

「守ると思う?」

「思わない」

「じゃあ意味ない」

「聞いた人は、聞いたと書く」

「正直に?」

「嘘もある」

「ますます意味ない」

 迅は最後の椅子の脚を拭いた。

「意味がないことと、完全じゃないことは違う」

「名言?」

「床が濡れてる」

「関係ないだろ」

「椅子は完全に拭けない。でも座れる」

 男は濡れた座面を指で確かめた。

「少し冷たい」

「書く?」

「何を」

「冷たい」

「制度の記録へ?」

「椅子の修理票へ」

 男は笑い、紙を受け取った。

 その横で、母親を洗っていた男が平文用紙へ書いている。

《私は昼に妹から「賛成が多い」と聞いた》

《それで、自分も賛成でいいと思った》

《でも、母を毎日洗う人を、地区代表が決めるのは嫌だ》

 同じ紙に、賛成と嫌悪が並ぶ。

 迅は覗き込まない。

「これ、矛盾?」

 男が自分から見せた。

「別の話」

「議題は一つだろ」

「紙が一枚なだけ」

「どう数える」

「分ける」

「誰が」

「今は、秋枝たち」

「任せていい?」

「期限を書かせる」

 秋枝が受付から言う。

「三十一日まで。あと、私を替えたい人は明日の昼に言って」

「自分で言うのか」

「言わないと、ずっと受付だから」

 浅海が湯桶を鳴らした。

「ずっとやればいい。得意だろ」

「得意な人に全部やらせると、倒れた時に誰もできない」

「小麦みたいなこと言うね」

「食堂で怒られた」

 迅は、秋枝が用紙の束を抱えたまま夕食を取っていないことに気づいた。

 塩むすびを一つ、受付へ置く。

「料金」

「椅子二脚分」

「勝手に相殺するな」

「食え」

「命令?」

「提案」

「選択肢は」

「今食う。あとで食う。返す」

「四つ目」

「何」

「半分あんたに戻す」

 秋枝はむすびを割った。

 迅は外周から食べる癖を使えず、三角形の尖った方を受け取る。

 制度の話は、その夜も決まらなかった。

 ただ、説明役は翌日から二人増えた。

 椅子修理票には《少し冷たい》と書かれ、浴場の炉端へ干された。

 十二月二十六日、午前九時五十七分。

 試験開始の三分前、中央からの同期信号が消えた。

 南環六番浴場には、三種類の合図が届く予定だった。

 有線の赤灯。

 王環時計塔から見える鏡板の光。

 環状線の保守鐘。

 有線の赤灯は点かない。

 浴場の高窓から鏡板は見えない。隣の乾物屋の屋上へ上がれば見えるが、屋根には昨夜の霜が残る。

 保守鐘は、九時五十八分に一度鳴った。

 本来は十時ちょうどの三打だ。

「今のが開始?」

 椅子の誰かが言った。

「一打は回線確認」

「誰が決めた」

「説明書」

「読んでない」

「壁にある」

「見えない」

 会議室がざわつく。

 秋枝は平文用紙を机へ広げた。

「中央時刻まで二分。質問を省けば追いつく」

「何を省く」

 迅。

「参加する人の期限。あとで決められる」

「撤回の方法は」

「あと」

「何を任せるかは」

「要点だけ」

「誰が要点を決める」

「今から全部やったら、開始が遅れる」

「もう遅れてる」

「だから追いつく」

 迅は壁の時計を見た。

 南環の木時計。

 中央より遅れている。

 これを中央へ合わせれば、時計の上では間に合う。

 裏のねじを回すだけだ。

 浅海が言う。

「回す?」

「回さない」

「無効になる」

「まだ試験だ」

「本番でも切れたら」

「遅れた理由を残す」

「規則は一秒」

「理由を書いたら、規則が変わる?」

 秋枝。

「変わらない」

「じゃあ何のため」

「誰が無効にしたか、あとで分かる」

「勝つためじゃない」

「負け方を隠さないため」

「それで参加枠はできる?」

「できないかもしれない」

 迅は答えた。

 室内が静かになる。

 有名人の演説を求めた人々へ、できないかもしれないと言う。

 期待へ応えるには向いていない。

「じゃあ、あんた何のためにいる」

 若い配管工が言った。

「遅れた時、殴って通すためか」

「殴らない」

「王を殴った」

「王だったからじゃない」

「何だったから」

「退けない理由を、他人へ押しつけてたから」

「今、榛名は一秒を押しつけてる」

「榛名を殴っても、時計は合わない」

「便利だな。殴らない理由も作れる」

 迅は反論しない。

 この地区の人間は、迅のために納得する義務がない。

 午前十時零分十三秒。

 有線の赤灯が点いた。

 十三秒遅い。

 真琴なら、中央側の送信時刻と受信時刻を分ける。