第152話 第二章「南区の朝」後編
七瀬なら、灯りが点く前の暗い十三秒も撮る。
タマキなら、誰から誰へ何のための信号か訊く。
迅は、黒板へ書いた。
《南環会場、同期信号受信。会場時計十時零分。中央送信時刻は未確認。説明未了のため開始しない》
「未了って」
浅海。
「まだ終わってない」
「それを書けばいい」
迅は消した。
《説明が終わっていないため、始めない》
浅海が頷く。
「そっち」
平文は、短い文ではない。
誰が読めないかを、文の側が隠さないことだ。
同期信号が遅れた理由は、すぐには分からなかった。
有線盤の封は切れていない。赤灯の球も生きている。
乾物屋の屋上へ上がった配管工が、中央の鏡板は十時に光ったと言う。だが、霜で足を滑らせ、光を見た時刻を自分の腕時計で確認していなかった。
「見たのに、証拠にならない?」
「見たことは証言になる」
迅。
「十時だったことは?」
「腕時計を見てないなら、分からない」
「じゃあ俺、役に立たない」
「屋根から落ちなかった」
「それは仕事じゃない」
「落ちないのも仕事だ」
迅は屋根へ上がらない。
右手は使える。足も動く。だが、霜の屋根へ人を増やせば、信号確認より救助の仕事が増える。
代わりに、乾物屋の二階窓へ小さな鏡を置いた。中央の光が来れば、階下の白壁へ反射する。
「角度、違う」
浅海。
「見える?」
「天井」
「直す」
「迅、鏡の仕事下手」
「初めて」
「有名人なのに」
「関係ない」
三度直して、ようやく白壁へ丸い光が落ちた。
誰か一人が屋根へ立ち続けなくても、会場全体で見える。
完全ではない。雲が厚ければ消える。鏡が曇ればずれる。
それでも、失敗する場所が見える仕組みは、一人の記憶より直しやすい。
午前十時八分。
灰色の外套を着た治安隊員が二人、浴場へ入った。
若い男と、髪を短くした女。
盾はない。手袋と短い警棒だけ。
「試験開始、十時。未開始を確認」
女隊員が言った。
「理由、説明未了」
秋枝が答える。
「時刻条件、不適合」
「まだ試験」
「本番運用を模擬する」
「じゃあ、本番みたいに説明を終える」
「終了時刻、十時三十分。残り二十二分」
「質問を省けって?」
「命令しない。結果を記録する」
命令しない言葉は、ときどき命令より逃げ場がない。
男隊員が、会議卓の時刻札へ手を伸ばした。
「札を回収する」
迅が間へ入る。
「まだ使う」
「不適合記録のため」
「複写を取れ」
「原本が必要」
「本番じゃない」
「模擬原票は原本扱い」
「誰が決めた」
「時刻管理責任者」
「名前」
「榛名柊吾」
男の手が札へ近づく。
迅は掴まない。
半歩、後ろへ退く。
隊員の肩が先に動いた。
右手で札、左手で迅を押す。
一歩。
胸の赤い七結びが熱を持つ。
迅はさらに退く。
二歩。
隊員が机へ身体を入れる。
秋枝が紙を押さえる。
女隊員が言った。
「接触を止める。対象、時刻札」
男は止まらない。
三歩。
迅の右腕へ、細い赤い線が走る。
七退一還〈セブン・リターン〉の蓄積。
四歩目を取れば、力は増える。
だが、暴力の源〈ソース〉は男ではない。
榛名の指示か。
現行規則か。
時間切れへの恐怖か。
秋枝たちが、遅れを無効にされたくない気持ちか。
源を決められない。
迅は四歩目を退かなかった。
代わりに、男の手首の外側へ左掌を添える。
押し返さず、円へ流す。
男の指が時刻札を外れ、机の端へ置かれた湯桶へ当たった。
桶が倒れる。
熱い湯。
迅は右足で桶の縁を踏み、倒れる方向を変えた。
湯は人ではなく、空いた床へ広がる。
赤い線が消えた。
「床、滑る!」
浅海の声で、全員が椅子から足を上げた。
女隊員はすぐ雑巾を取った。
男隊員は、自分の手を見ている。
「殴らないのか」
「今、桶の方が危ない」
「俺が札を取った」
「取ってない」
「取ろうとした」
「次は複写を頼め」
迅は時刻札を秋枝へ返した。
女隊員が男へ言う。
「対象、床。拭く。理由、転倒防止」
「了解」
八語以内だった。
榛名の隊員だ。
規則の形は、人の口へ残る。
午前十時三十七分。
説明は終わらなかった。
四つの問いのうち、三つ目まで。
参加者をどう選ぶか。
何を任せるか。
いつまで任せるか。
撤回をどうするかは、質問だけで十七個出た。
病気で会場へ来られない人は。
字が書けない人は。
住所がない人は。
同じ人が二地区で働いている場合は。
家族が勝手に委任を出したら。
撤回したことを、代表が隠したら。
死んだ人の委任はいつ消える。
迅には答えられないものが多い。
真琴なら法的な案を出す。巴なら問いを分ける。
今、二人はいない。
だから、分からないと書く。
「本番も時間が足りない」
秋枝が言った。
「増やす」
「榛名が認める?」
「認めないかもしれない」
「また、それ」
「嘘より短い」
秋枝は、朝の紙を出した。
《あなた自身は、参加枠を必要だと思うか》
「説明、終わってない」
「今の時点」
迅は椅子へ座った。
壁を背にせず、半円の端。
出口は一つしか見えない。もう一つは浴場の暖簾の向こうだ。
落ち着かない。
「必要だと思う」
秋枝が鉛筆を動かす。
「理由」
「俺たちは、今まで仕事ごとに役を決めた。薬を運ぶ時、会議を守る時、工場を止める時。八旗の外にいるやつも、その仕事をしてる。働かせて、決める時だけ外へ置くのはおかしい」
「空白の旗へ票が欲しい?」
「固定の一票はいらない」
「どうして」
「座ったやつが、空白じゃなくなる」
「じゃあ誰が話す」
「案件ごとに、任されたやつ」
「迅が任されたら」
「期限を書く」
「王にならない?」
「ならない保証はない」
「怖くない?」
「怖い」
迅は答えた。
名前を使って命令するより、その方が難しい。
「でも、俺が怖いから席を作らないなら、今座ってるやつだけが得する」
秋枝は書く。
《竜胆迅個人。参加枠に賛成。固定席には反対。案件別、期限と撤回を必要とする。理由――働く者を決定時だけ外へ置かないため。本人は権限集中を恐れている》
「最後、いる?」
「いる」
「恥ずかしい」
「有名人だから」
「それ、何でも使うな」
「便利」
秋枝は紙を裏返し、会場の人々へ見せた。
「これは迅の答え。南環の答えじゃない」
迅は頷く。
「俺の名を、賛成の理由にするな」
「反対の理由には?」
浅海。
「好きにしろ」
「じゃあ、迅が気に入らないから反対」
「理由として記録できる」
「制度の話じゃない」
「人が決めるんだから、人の話も入る」
秋枝が言った。
「ただし、迅が気に入らないだけで、撤回できない代表を作っていいかは別」
浅海は鼻を鳴らす。
「面倒だね」
「会議だから」
迅は、濡れた床へ立てかけた時刻札を見る。
《開始、十時十三秒遅延》
正確には、開始していない。
説明に三十七分足りなかった。
足りない時間を、なかったことにはしない。
浴場の木時計は、中央より遅れたまま進む。
秋枝は朝から使った平文用紙を、湯気の届かない棚へ一枚ずつ干した。
濡れた紙は、乾けば元へ戻る。
ただし、皺は残る。
「三十一日までに、全部きれいになる?」
迅が訊く。
「紙?」
「手順」
「ならない」
「即答」
「きれいになるまで待ったら、決める人が死ぬ」
「縁起悪いな」
「年末は忙しい」
秋枝は紙の角へ、今日の遅れを書き足した。
十三秒。説明三十七分不足。湯路修理二時間。回答を断った人四人。後日の説明を選んだ人九人。
数字は揃っていない。
だが、揃っていない理由には名前があった。
床下の温水管が、今度は途切れず低く鳴っていた。