第104話 第二章「発車前の失踪」後編
一般入口は、予定どおり閉まった。
予定どおり閉まる扉は、遅れた人間にとって最も残酷な壁になる。
七瀬は閉鎖時刻を撮る。
生配信の接続画面には、視聴待機が二百八十三。
駅で揉めていると聞きつけた者が増えている。
開始すれば、折部側の警備位置、空白の旗の人数、追跡手段、証言者の車両が推測される。
「配信しない」
七瀬は言った。
乾物屋が叫ぶ。
「隠すのか!」
「固定記録します。公開は、乗客の位置が安全でなくなる情報を除いた後」
「今、見せなきゃ列車を止められない!」
「見ている人へ、止める権限はありません」
「世論がある!」
「線路へ人が入れば事故になります」
「じゃあ何のために撮る!」
七瀬は答える前に、第三ホームを撮った。
十二両編成。
窓の一部へ内側から布が掛けられている。
先頭近くに黄土色の外套。
最後尾十二号車は郵便と資材。側面へ大きな燕の印。
「後で、誰が何をしたかを、速い方だけに決めさせないためです」
乾物屋は納得しない。
納得しなくても、七瀬は接続を切った。
視聴待機の数字が消える。
「記録開始。十時六分二十一秒。南環駅第三ホーム。生配信なし。理由、保護対象者と追跡側の位置秘匿」
「追跡側」
真琴が言う。
「私たちは追うと決めましたか」
「保守動力車がある」
轟が戻ってきた。
「第七保守線。点検主任が一台出せる。列車へ追いつくかは運転士次第。走行中連結は規程外」
「命令権は」
真琴。
「主任にある。乗るかは俺たち。連結は、運転士が拒める」
「目的」
凱が全員を見る。
旗を広げていない。
それでも、誰かが言葉にしなければ、追跡はただの興奮になる。
タマキが先に答えた。
「乗ってる人へ、途中で選べる場所があるか伝える」
「列車を止める?」
「まだ決めない」
「折部を拘束する?」
「目的じゃない」
「同意確認」
七瀬。
「記録と、巴の支援。乗客が継続を望むなら、その選択も撮る」
「運行への介入」
真琴。
「必要性と権限を確認してから。無権限の停止は、こちらも責任を負う」
「身体安全」
轟。
「連結、車両、乗客。壊して止めない」
「俺は」
迅が線路を見る。
「前へ行く」
「目的になっていません」
七瀬。
「巴まで。そこから決める」
凱が頷く。
「期限は、列車が管轄境界へ達する前。責任者を一人にしない。運行判断は運転士、同意確認は巴、法務は真琴、構造は轟、経路はタマキ、記録は七瀬。現場移動は迅と俺」
「凱は膝」
迅。
「知っている」
「走れない」
「おまえは手」
「知ってる」
「なら、互いに数えるな」
「数えないと壊れる」
轟が言った。
「迅、右手の振動痛。握力、今どのくらい」
「瓶の蓋」
「開くか」
「固いのは無理」
「凱、左膝。階段」
「一往復なら。反復は不可」
「七瀬、左肩」
「三脚固定。屋根上撮影はしない」
「俺、左肩。頭上保持は三十秒まで」
「私、喘息」
真琴が自分で言った。
「煤煙車内では吸入器を使用します。予備眼鏡二つ」
「僕」
タマキ。
「空腹」
全員が見る。
「朝食べた」
「塩パン半分」
七瀬。
「見てたの」
「撮っていません」
「じゃあ何で」
「あなたは食べた物を、紙の枚数で隠します」
轟が工具帯から固いパンを出した。
「食え」
「連結で吐く」
「半分」
「料金」
「あとで働け」
「受領」
十時九分。
発車鐘が二回。
保守線の鉄扉が開く。
低い動力車が、油の匂いと白い蒸気を吐いて待っていた。
保守動力車へ乗る前に、七瀬は撮影用のフィルム缶を三つに分けた。
一つ目へ《駅》。
二つ目へ《追跡》。
三つ目へ《乗客許可後》。
タマキが覗く。
「三つ目、空」
「まだ許可がありません」
「撮らない?」
「位置、顔、医療情報は撮らない。必要になれば、本人へ訊く」
「許可を訊く時間、ある?」
「なければ撮りません」
「後で証拠がないって言われる」
「言われます」
「じゃあ損」
「誰の」
タマキは答えない。
記録する側の損。
撮られる側の損。
同じ一枚のフィルムに、両方は写らない。
七瀬は《乗客許可後》の缶を鞄の奥へ入れた。
空であることを、忘れない場所へ。
保守動力車の運転台では、早瀬栞が計器を三度叩いていた。
短い黒髪。
左眉へ油の跡。
灰色の作業服の袖を肘まで上げ、右手だけで制動弁を動かす。
「乗る人数」
「七」
轟が答える。
「荷物」
「工具帯二、撮影機一、書類鞄一、鉄箱一、旗なし」
「人も重さで」
タマキ。
「必要」
「嫌」
「列車は年齢で軽くならない」
「僕、三十九」
「キロ?」
「歳」
「降ろす」
「十四」
「正直は速い」
「折部みたい」
「私は保守員」
「速い人、多い」
早瀬は名簿へおおよその体重を書かせる。
迅は左手で数字を書く。
右手の震えを隠さない。
凱は膝装具の重量まで足す。
七瀬は撮影機と三脚を別にする。
真琴だけが自分の体重欄で一秒止まった。
「法的必要性は」
「制動距離」
「公開範囲」
「運転台と事故記録」
「事故がなければ」
「破棄」
「時期」
「今日の運行終了後、異常なし確認から二十四時間」
「署名」
早瀬は迷わず自分の名を書く。
真琴も数字を書く。
必要な個人情報は、必要と言うだけでは足りない。
誰が、いつまで持つかを書いて初めて、重さになる。
「追いついた後」
早瀬が訊く。
「連結するのか、並走するのか、信号所へ先回りするのか」
「連結」
迅が即答する。
「決めるな」
轟。
「前へ行くには」
「車両と速度を見てから」
「遅い」
「壊れた連結器で速く死ぬか」
「嫌」
「なら見る」
早瀬は点検表を配る。
車輪温度。
制動圧。
連結器高さ。
後部標識。
追いつくことは、ただ速度を上げることではない。
追いついた瞬間に何を壊さないかを、先に決めることだ。
七瀬は運転台の後ろへ三脚を固定する。
窓の中央ではなく、左端。
進行方向を全部映せば、保守線の入口が分かる。
画角を狭める。
「追跡なのに、道を撮らない?」
凱。
「道を公開しない記録です」
「後で、どこを通ったか分からない」
「早瀬さんの運行記録と照合します。映像一つへ全部を持たせません」
「信用する?」
「照合します」
「真琴みたい」
「不本意です」
真琴が聞いている。
「なぜ、全員が私を不本意の基準にする」
「便利だから」
迅。
「使う側が困ると言っていたのは誰だ」
「俺」
「困れ」
発車鐘が最後の一回を鳴らす。
早瀬が扉を閉める前に言う。
「今なら降りられる」
誰も降りない。
彼女は確認を一度で終えない。
「乗る理由を、一人ずつ」
タマキ。
「行き先を訊く」
七瀬。
「本人の選択と記録範囲を確認する」
真琴。
「同意と運行権限」
轟。
「車両を壊さない」
迅。
「巴まで行く」
凱。
「一つへ決めない」
早瀬は最後に自分を指す。
「戻れる車両にする」
扉が閉まる。
それぞれの目的は、まだ同じ列車へ乗っていなかった。
午前十時十二分
環状保護便六二一号が動き出した。
七瀬たちは保守動力車へ飛び乗る。
第三ホームの端から、乾物屋たちが何か叫んでいる。音は機関音に消える。七瀬はカメラをホームへ向けない。
乗客の窓を撮る。
八号車。
紫の毛糸を首へ巻いた女がいた。
柏木秋枝かもしれない。
顔の半分が窓枠へ隠れている。
女は右手を上げた。
掌を外へ向け、二度振る。
助けを求める合図にも見える。
見送る人へ別れを告げる動作にも見える。
七瀬は倍率を上げない。
画角の外にある事情を、指の動きへ押し込めない。
「撮れた?」
迅が訊く。
「撮れました」
「何て言ってる」
「分かりません」
「口」
「窓の反射で読めない」
「手」
「意味は確定できません」
「助けて、じゃない?」
タマキ。
「そう見える」
「違うかもしれない?」
「はい」
「じゃあ追わない?」
「追います」
「何で」
「分からないことを、助けていない証拠にはしないから」
保守動力車が加速する。
車輪が継ぎ目を打つたび、迅の右手がわずかに強張った。七瀬の左肩へ撮影機の重さが返る。凱の膝装具が床へ一度鳴る。轟は右手で手すりを取り、左腕を胸の高さへ固定する。真琴は書類を濡らさないよう胸へ抱え、タマキは食べかけのパンを口へ押し込んだ。
前方で、十二両の列車が曲線へ入る。
最後の窓から、手がもう一度振られた。
今度は誰の手かも分からない。
七瀬は、分からないまま撮り続けた。