第105話 第三章「連結器」前編

十月十七日 午前十時二十一分

 大きな物を動かす時、力が足りないより怖いのは、力を入れる場所が一つしかないことだ。

 伏見轟は、保守動力車の床を二回叩いた。

 ごん。

 ごん。

 返ってきた音が、一度目と二度目で違う。

「後ろ、浮いてる」

 運転台の男が振り返った。

「何が」

「右後輪。荷重が薄い」

「保守車はそういう造りだ。前へ工具を積む」

「今日は八人乗ってる」

「七人だ」

「俺を二人で数えろ」

 男は轟の体格を見て、数え直した。

「なら九人だろ」

「そこは細かい」

「命が掛かる時だけ算数を雑にするな」

 保守動力車は、正規の客車より車体が短い。前に運転台、中央に工具棚、後部へ露出した作業床。通常は低速で架線や信号を点検する。今は環状保護便六二一号を追い、時速五十六キロまで上げていた。

 床が、継ぎ目ごとに跳ねる。

 轟は右足を梁の上、左足を車体中央へ置いた。柱間隔を取る時と同じ立ち方だ。左肩は胸の高さより上げない。右手で後部手すり。荷重は腕ではなく腰と踵へ逃がす。

 前方に、六二一号の最後尾が見える。

 十二号車。

 黄色い燕の紋章。

 距離、百六十メートル。

「追いついたら、どう乗る」

 迅が訊いた。

 右手を腹へ当て、指の痺れを押さえている。床の振動が骨の内側へ響くらしい。

「連結」

 轟。

「できる?」

「できる形はある」

「できない形も?」

「今の速度差なら、普通はやらない」

「普通じゃないから」

「普通じゃない事故になる」

 保守技師の浦部宗一が工具棚から顔を出した。五十代。油で白くなった作業帽、右頬に古い煤の染み。左手の薬指が第一関節からない。

「走行中連結は、相手側の自動器が開いていること。速度差が毎秒〇・五メートル以下。中心高さの差が三センチ以内。連結後すぐ制動しない。三つ揃って、ようやく祈る資格がある」

「祈るのは宗教?」

 タマキが訊いた。

「整備士の手順だ」

「番号は」

「ない。事故報告の余白にしか書いてない」

「なら、規程じゃない」

「死んだ奴が書いた規程だ」

 タマキは口を閉じた。

 言葉を止めたのではない。受け取った。

「相手の連結器は」

 轟。

「郵便車なら貨客兼用の旧式。開放状態は後尾灯で分かる。赤二灯なら閉、赤一灯と白一灯なら作業可」

「今は」

 七瀬が撮影機の倍率を上げる。左肩で支えず、胸当てと腰帯へ重さを分ける。

「赤二つ」

「閉じてる」

「開けてもらう」

 凱が運転台の通信機へ手を伸ばす。

「誰に命令する」

 真琴。

「要請だ」

「表現ではなく、受け手が拒めるかです」

「拒める。列車長へ、後部連結器を開放してほしい。理由は同意確認支援」

「運行妨害者を乗せろという要請になります」

「俺たちはまだ妨害していない」

「追跡しています」

「追跡は、接触前だ」

「法は距離で善悪を変えません」

「物理は変える」

 轟が言った。

「今、百三十メートル。あと三分で下り勾配。そこで列車が速くなる。連結できるのは、二分以内」

「聞いたな」

 凱が真琴を見る。

「期限設定の根拠は聞きました」

「なら要請する」

 凱は通信機を取った。

「環状保護便六二一号、こちら第七保守動力車。獅堂凱。後部連結器の作業開放を要請する。目的は車内の同意確認支援。乗車後、運行停止を一方的に命じない。拒否する場合、理由と時刻を記録してほしい」

 雑音。

 車輪音。

 返答は、折部翼の声だった。

『宛名、確認。獅堂凱。要請、受領』

「回答は」

『拒否』

「理由」

『走行中連結は危険。乗客の保護と定時運行を優先』

「同意未了の三名がいる」

『一文字巴が確認中』

「巴へ直接連絡を」

『車内通信は作業中。接続待ち三分』

「二分で下り勾配だ」

『だから追跡を中止して』

「それは要請か」

『警告』

「命令権者」

『この列車の運行責任者、折部翼』

「記録した」

 凱は通信機を置かなかった。

「後部連結器を開けないなら、保守車側から非常把持器を使う」

『それは車体へ損傷を出す』

「損傷させない方法を探す」

『探してる間に勾配へ入る。迷うなら離れて』

「折部」

『何』

「おまえは、危険だから拒否したのか。追いつかれたくないから拒否したのか」

 雑音の向こうで、義足の金属音が一度した。

『両方』

「正直だな」

『速いから』

 通信が切れる。

 午前十時二十七分

 距離、九十メートル。

 浦部技師は、保守車後部の非常把持器を引き出した。

 太い鋼の鉤が二本、伸縮する腕の先へ付いている。脱線車両を低速で引くための物で、走行列車へ噛ませる道具ではない。

「これを連結器へ掛ける」

 轟が言った。

「掛けた瞬間、速度差が全部ここへ来る」

 浦部が床梁を叩く。

「最大許容、六トン。今の差なら一瞬で八。鉤が持っても床が剥がれる」

「俺が受ける」

「人間の許容荷重を聞いてない」

「床と俺へ分ける」

「おまえの肩は」

「右で持つ」

「右で八トンを持つな」

「一瞬」

「一瞬で壊れるのが機械だ。人間も同じ」

 轟は鉤の根元を見た。

 回転軸。

 床へ四本のボルト。

 左右の梁へ荷重を逃がす三角板。

 古い。錆。だが、溶接線は生きている。

「速度差を先に消す」

「運転士がやってる」

 運転台の男が叫ぶ。

「こっちは五十八。向こう五十九・二。差、一・二!」

「〇・五まで」

 浦部。

「下りへ入れば向こうが六十二。こっちはこの車体じゃ六十が限界!」

「あと何秒」

「勾配標まで百十秒!」

 タマキが後部床へ出た。

「鉤じゃなくて、連結器を開ければいい」

「向こうが開けない」

「こっちの先を、向こうの穴に合わせる」

「言葉が雑だ」

 真琴が顔をしかめる。

「機械は分かる」

 タマキは浦部の工具箱を覗く。

「この連結器、古い?」

「保守車のは四十年前のねじ式。相手は自動。規格が違う」

「変換器は」

「車庫にある」

「ここには」

「ない」

「何で」

「今日は追跡する予定じゃなかった」

「予定にないと、道具がない」

「だから予定を作るんだ」

 タマキは非常把持器の鉤を見た。

「これ、先が二本」

「見れば分かる」

「一本外して、もう一本を横に寝かせる。自動器の下顎じゃなく、救援環へ通す」

 浦部の目が変わる。

「救援環は引張専用だ。押せない」

「押さない。追いつくだけ」

「連結後、列車が減速したらこっちが押す」

「その前に人が渡る」

「何人」

「七人」

「俺を二人で数えろ」

 轟。

「八人」

「重さで十人だ」

「時間」

「全員二十秒では無理」

「じゃあ保守車ごと繋ぐ」

「押し荷重が来たら切る」

「切る人は」

「こっちに残る」

 全員が浦部を見る。

「俺の車だ」

「一人で?」

 七瀬。

「運転士もいる」

「二人が戻れない」

「元から乗る予定はない」

 浦部は肩をすくめた。

「俺たちの仕事は、線路を次へ渡すことだ。列車へ乗って英雄になる契約はしてない」

「契約を確認します」

 真琴が鞄へ手を入れる。

「今やるな」

 全員が言った。

「確認は必要です」

「口で」

 浦部。

「保守車を走行列車へ救援環で仮連結する。規程外。俺と運転士は残り、押し荷重が出る前に切る。乗り移る者の安全は各自。車体損傷は、後で全員で揉める。異議」

「責任を全員へ薄めないでください」

 真琴。

「なら書け。設計判断は浦部宗一。運転は岩瀬。把持器の荷重受けは伏見轟。経路案は環玉樹。追跡決定は――」

 凱が言う。

「俺が提案し、全員が乗ると決めた。俺の一筆へ全部を入れるな」

「移動責任は各自」

 七瀬。

「記録条件は私。公開は別」

「俺は前へ行く」

 迅。

「役割名になっていません」

「最初に渡る」

「落ちたら」

「索」

「右手で握れません」

「腰へ巻く」

 轟は話を切った。

「タマキ。鉤の寸法」

 タマキが鉄箱から折り尺を出す。

「救援環の内径、見える?」

 七瀬が倍率を上げる。

「外径およそ十四センチ。内径八から九。揺れあり」

「鉤先、十一。入らない」

「横にする」

「厚み七。入る」

「回ったら抜ける」

「抜け止め」

「何を」

 タマキは左右色違いの靴紐を見る。

「これは駄目。道で使う」

「その判断、今要るか」

 迅。

「要る。帰る時に色が変わる」

 鉄箱の内側から、古い配達袋の革帯を出す。厚い。幅二センチ。

「これを鉤の根へ通す」

「革が切れる」

「切れる前に回転を止める」

「何秒」

「分からない」

「分からない物へ命を掛けるな」

 浦部が言う。

 タマキは鉤、革帯、救援環、前方の列車を順に見る。

「分からない。でも、鉤一本より、回らない時間が増える」

「増える、だけか」

「ゼロより」

 浦部は歯を食いしばり、頷いた。

「やる」

 早瀬は、轟に連結器を触らせなかった。

 代わりに、保守動力車の床へ砂袋を三つ置いた。

 二十キロ。

 三十五キロ。

 五十キロ。

「乗客の代わりか」

「違う」

「じゃあ何だ」

「あなたの間違い」

 早瀬は五十キロの袋を、車体前端の滑り板へ立てる。

「力で連結器を押さえれば、速度差は消えない。車体へ返る。人は転ぶ。棚は開く。点滴は抜ける。あなたが耐えた分だけ、後ろの誰かが受ける」

「じゃあ、何もしねえ?」

「速度差を逃がす」

 床へ白墨で三本の線を引く。

 一番前は連結器。

 二本目は轟の足。

 三本目は腰。

「腕で受けるな。右手は位置を教えるだけ。肩は固定しない。膝と股関節で下がる。壁へ預ける。あなたが壁になるな。車体を壁に使え」

「俺が壁じゃねえなら、何だ」

「蝶番」

 轟は嫌そうな顔をした。

「小せえ」

「大きい蝶番もある」

「慰めが雑だな」

 早瀬は砂袋を押す。

 轟が反射で左腕を上げる。

 肩へ鋭い痛み。

 腕が止まる。

「今、手術前の身体で受けた」

「分かってる」

「分かるのが遅い」

「折部みてえな言い方すんな」

「速さの話ではない。身体の更新が遅い」

 轟は左腕を胸へ寄せ、右掌を砂袋へ当てる。

 早瀬がもう一度押す。

 今度は足を一歩引く。

 腰が後ろの柱へ触れる。

 衝撃が身体を通り、車体へ逃げる。

 砂袋は倒れない。

「それ」

「力、入れてねえぞ」

「入れない技術も、力」

「言い方が気に入らねえ」

「連結器は好みを聞かない」

 タマキが床へしゃがみ、袋の移動距離を鉛筆で測った。

「一回目、十八センチ。二回目、四」

「おまえ、俺が失敗した線を残すな」

「消したら、一回でできたことになる」

「格好悪いだろ」

「格好で連結する?」

「しねえ」

「じゃあ残す」

 迅が脇で腰索の鉤を左手へ持ち替えている。

 右の指先が、動力車の振動に合わせてわずかに震える。

 轟は見る。

「おまえも練習しろ」

「何を」

「掴まない練習」

「得意」

「さっき手摺を右で掴んで、顔しかめた」

「見てた?」

「でかいから視界が広い」

「関係ない」

 早瀬が細いロープを一本、迅へ渡す。

「走行中、鉤を掛けるのは左。右は確認。握り込まない。痛みが出たら申告」

「申告すると止める?」

「作業を変える」

「前へ行けない」

「壊れた手で前へ行くと、帰りに一人増える」

「帰れる」

「あなたが決めるな」

 迅は黙る。

 轟は砂袋をもう一度受ける。

 蝶番。

 壁でなく。

 受け止めるのではなく、速度差が通る道を作る。

 三度目は二センチ。

 四度目は、砂袋の口が開いた。

 砂が床へこぼれる。

「壊した!」

 タマキ。

「俺じゃねえ」

「縫い目」

 早瀬は破れを指で見る。

「古い」

「じゃあ、連結器も古い」

 タマキが言う。

「同じ所が破れる?」

「物は同じ場所で壊れ続けるとは限らない。直した場所の隣が弱くなる」

「人も?」

 轟の左肩を見る。

「人へ物の説明をそのまま使うな」

 早瀬は答えた。

「でも、直したことを忘れるな」

 轟は床の砂を右手で集める。

 肩を庇う身体は、弱くなった身体ではない。

 使い方をまだ覚えていない身体だ。

 列車との距離が、通信器で読み上げられる。

 五十八メートル。

 練習は終わり。

 失敗の線だけが、床へ残った。

 革帯は、使う前に一度切った。

 タマキが両端を工具棚の把手へ結び、轟が右手だけで引く。

 二十キロ。

 三十。

 四十。

 縫い目が白くなる。

「ここ」

 タマキは一番外側の糸へ爪を当てた。

「切れる」

「なら使えない」

 真琴。

「全部は切れない」

「一部が切れる物を安全具と呼べません」

「安全具じゃない。回るまでの時間」

「何秒」

「今測る」

 浦部が懐中時計を出す。

 轟がもう一度、荷重を掛ける。

 一秒。

 二。

 三。

 最初の縫い目が飛ぶ。

 五秒で二本目。

 七秒で革の端が裂けた。

「七秒」

 タマキは言う。

「十分?」

「鉤を横へ向けるには、二秒から三秒」

 浦部。

「ただし、実車の振動と風で倍。七秒は余裕じゃない。使える上限だ」

「切れたら」

「鉤が回る。抜ける」

「誰が見る」

「俺」

 タマキが即答する。

「鉤と革だけを見る。人が落ちても?」

 七瀬。

 タマキの口が止まる。

「俺も見る」

 沢代ではない。まだ誰も向こうへ渡っていない。

 迅が言った。

「タマキは革。俺は人」

「迅が落ちたら」

「七瀬」

「私は記録担当です」

「撮るだけ?」

「落下索の解除もします。ただし、あなたの無謀を救助義務へ変えたとは記録します」

「長い」

「落下より短い」

 真琴は小さな紙へ役割を書く。

《革帯監視 環玉樹》

《渡橋先行 竜胆迅》

《落下索・記録 火群七瀬》

《荷重受け 伏見轟》

《機械判断 浦部宗一》

《運転 岩瀬》

「私と凱さんは」

「渡る人」

 タマキ。

「役割が雑です」

「生きて向こうへ行く」

 凱が言う。

「十分だ」

 真琴は不満そうに、《乗移者/自己判断》と書き足した。

 革帯の切れた端は捨てない。

 タマキは鉄箱へ入れる。

「失敗した物まで持つのか」

 轟。

「成功した時、何秒借りたか忘れる」

 列車との距離が四十二メートルへ縮む。

 借りられる時間は、七秒より短かった。

 午前十時三十四分

 距離、四十二メートル。

 勾配まで四十六秒。

 鉤の一本を外すのに、予定より十一秒かかった。

 古い割りピンが錆びて抜けない。

 轟が右手の鉄線で捻る。左肩を上げないため、腰を深く落とす。車体が揺れ、膝が床へ当たった。

「肩」

 七瀬。

「使ってない」

「顔が使っています」

「顔は契約外」

「それ、南環市場でも聞きました」

「便利な文だ」

「使うあなたが困っています」

 迅が鉄線を取ろうとする。

「右手で掴むな」

「左で」

「おまえは索」

「まだ巻いてない」

「巻け」

 迅は不満そうに腰索を締める。結び目は左手で作るため、少し歪む。

 七瀬が確認する。

「引張方向が逆」

「外れない」

「外れるかではなく、落下時に肋骨へ入ります」

「詳しいな」

「あなたが三度間違えたので」

 結び直す。

 凱は運転台の側へ立ち、速度計を読む。

「六二一号、六十・一。こちら五十九・四。差〇・七」

「あと〇・二!」

 浦部。

「岩瀬、二段上げろ!」

「モーター焼くぞ!」

「帰ったら俺が直す!」

「直すのは俺だ!」

「じゃあ丁寧に焼け!」

 運転士がレバーを押す。

 保守車の床が低く唸る。

 距離、三十メートル。

 風が後部床へ逆流し、タマキの緑帽を持ち上げた。彼は片手で押さえ、もう片手で革帯を鉤へ巻く。

「帽子、取れ」

 迅。

「火傷が」

「見られる」

「違う。風が皮膚に痛い」

 迅は何も言わず、自分の学ランの内側から細い布を出し、帽子の上から顎へ結んだ。

「それ、靴磨き布」

「洗った」

「いつ」

「前に」

「日付」

「今いる?」

「いる」

「九月」

「何日」

「覚えてない」

「汚い」

「返せ」

「使う」

 距離、十八メートル。

 十二号車の後尾灯は赤二つ。

 連結器は閉じている。

 その下の救援環だけが揺れていた。

「高さ差!」

 浦部。

 七瀬が撮る。

「こちらが二・一センチ低い!」

「荷重を後ろへ!」

 轟が叫ぶ。

「全員、作業床!」

「人数を増やすと床荷重が――」

 真琴。

「今は高さ! 棚から離れろ!」

 全員が後部へ移る。

 凱は左膝を曲げきれず、手すりへ体重を預ける。七瀬は三脚を床へ寝かせる。真琴は書類鞄を抱え、吸入器の位置を確かめる。タマキは鉤の横。迅は腰索。轟は把持器の根元。

 床が沈み、高さ差が縮む。

「〇・八!」

 七瀬。

「速度差!」

「〇・四!」

「今!」

 浦部が把持器を解放する。

 一本の鉤が前へ伸びた。

 風に揺れる。

 救援環の右を通る。

「外した!」

 タマキ。

「戻すな!」

 轟は右腕だけで把持器の横棒を押す。鉤が左へ振れる。車体同士が近づき、視界が黄色い十二号車の壁で埋まる。

 金属が擦る。

 鉤先が救援環へ入った。

「入った!」

「まだ掛かってない!」

 浦部。

 鉤が環の中で回る。

 タマキの革帯が張る。

 ぶつん、と一本目の縫い目が切れた。

「五秒!」

「分からないって言った!」

「今、分かった!」

 鉤が横を向き、環へ噛む。

 次の瞬間、速度差が消えた。

 いや、消えようとした。

 保守車が前へ引かれ、床が轟の足下から逃げる。

 八トンではない。

 数値にすれば、もっと小さい。

 人間の身体へ入れば、十分すぎる。

 轟は把持器の横棒を両腕で抱えそうになり、左肩に鋭い熱が走った。

 使うな。

 頭上へ上げるな。

 腕で受けるな。

 彼は左手を離した。

 右手だけで横棒を押さえ、背を工具棚へ当てる。右足を床梁、左足を中央梁。腰を落とす。衝撃を肩から背中へ、背中から棚、棚から車体へ逃がす。

 工具棚の扉が凹んだ。

 轟の息が肺から全部出る。

「轟!」

 迅。

「触るな!」

 誰かが助けに入れば、荷重の流れが変わる。

 柱が一本で持っている時、横から支える手は柱を折ることがある。

「岩瀬、出力落とせ!」

 浦部。

「落としたら引きちぎられる!」

「〇・一だけ!」

「そんな細かい車じゃない!」

「なら祈れ!」

「手順だったな!」

 運転士がレバーを戻す。

 車体が一度、激しく前へしゃくる。

 真琴の眼鏡が飛んだ。

 七瀬が右手で掴む。

「触らないでください!」

「落ちます!」

「落とすよりはいいです!」

「今、怒る場所?」

 タマキ。

「眼鏡は視力です!」

「僕の帽子も皮膚!」

「比較していません!」

 鉤が軋む。

 革帯の二本目が裂ける。

 轟の右掌から血が出た。

 鉄線が食い込んでいる。

 それでも、床の音が変わる。

 ごん、ではない。

 ごおお、と二つの車体が同じ周期で震える。

「合った」

 轟は息を戻した。

「速度、合った」

 浦部が計器を見る。

「差、〇・〇二」

「祈り、終わり?」

 タマキ。

「ここからが作業だ」

 午前十時四十一分

 仮連結は、連結ではない。

 鉤一本と革帯二本で、二つの車体が同じ速度を借りているだけだ。