第106話 第三章「連結器」後編
十二号車の後部扉まで、水平距離は一メートル二十センチ。
間には線路が流れている。
床板を渡す。
保守車の作業板は幅四十センチ、長さ一メートル。足りない二十センチを、浦部が工具棚の蓋で延長する。
「壊していいの」
タマキ。
「俺の棚だ」
「保守局の」
「今だけ俺の判断」
「返す時」
「直して返す」
轟が工具棚を見る。
「凹みも」
「おまえが直せ」
「左肩治ってから」
「期限」
「医者」
「責任者が強いな」
浦部は笑った。
迅が最初に渡る。
腰索を十二号車の後部梯子へ投げる。左手。鉤が一度外れ、二度目に掛かる。
「右手は添えるだけ」
七瀬。
「分かってる」
「今、握りました」
「落ちるより」
「握って痺れが増したら、次に落ちます」
「会話、後」
迅は板へ足を置く。
車体が左右へ振れる。
板の先が十二号車の床縁から二センチ外れた。
「戻れ!」
轟。
「いける」
「床が泣いてる」
迅は一歩戻る。
轟は板を右手で引き、浦部が楔を打つ。左肩を使わないため、轟は膝と胸で板を押さえた。
「今」
迅が渡る。
一歩。
板が沈む。
二歩。
腰索が張る。
三歩目で、十二号車の後部扉が内側から開いた。
護送員が一人、短い棒を構えている。
「戻れ!」
「同意確認」
「乗車許可はない!」
「入口、開けた」
「非常点検だ!」
「じゃあ点検する」
迅は棒を避けず、左前腕へ受けた。
板の上で大きく動けば落ちる。
護送員も押し込めば、自分が落下の源になる。
互いに、殴り切れない。
迅は棒を掴まない。先端へ左掌を添え、押す力を扉枠へ流す。相手の肩が前へ出る。迅はその肩を越えず、足だけを十二号車の床へ滑らせた。
「一人」
七瀬が時刻を記録する。
「十時四十三分九秒」
次はタマキ。
「僕が先」
「凱」
轟。
「タマキは軽い」
タマキ。
「軽い順なら真琴」
「失礼です」
真琴。
「褒めた」
「体重の評価は――」
「行け」
凱がタマキの鉄箱へ補助索を付ける。
「箱、外す?」
「外さない。中に旗芯」
「落ちたら」
「僕も行く」
「箱と一緒に落ちるな」
「凱は鐘と落ちる?」
凱は胸の割れた鐘を見た。
「外す」
「今?」
「重い」
凱は鐘を真琴へ預ける。
「受領記録を」
「今は不要です」
「おまえが言うのか」
「驚かないでください」
タマキが渡る。
低い姿勢。鉄箱を胸へ。左右色違いの靴紐が板の上を進む。
途中で車体が跳ねた。
緑帽が顎紐に救われ、背へ飛ぶ。
タマキの足が板を外れる。
右脚が線路側へ落ちた。
「タマキ!」
迅が索を引く。
右手を使わない。
左だけでは足りない。
十二号車の護送員が、反射的にタマキの鉄箱を掴んだ。
二人で引き上げる。
タマキの膝が床へ当たり、帽子が戻る。
「触るなって言ってない」
タマキは護送員へ言った。
「助けたんだぞ」
「うん。受領」
「礼が軽い」
「重くすると返せない」
護送員は怒るタイミングを失った。
七瀬、真琴、凱が続く。
凱は左膝を深く曲げられず、板上で姿勢が高い。風を受ける面積が増える。迅と護送員が左右から索を張り、彼は一歩ずつ渡った。
「王様を吊るす日が来るとは」
護送員。
「今は王ではない」
「吊られてる方は同じだ」
「違いはある。前は他人を吊った」
護送員の顔から冗談が消えた。
凱は謝罪を続けない。板を渡り切り、次の人へ場所を空ける。
最後に轟。
「浦部」
「何だ」
「把持器、今の音」
「右の根元が半分浮いた」
「何秒」
「二十。長くて三十」
「俺が渡ると荷重が抜ける」
「抜けた瞬間、車高が上がって鉤が回る」
「先に切る?」
「乗り移れない」
「じゃあ」
「おまえが最後に板へ乗る。体重が十二号車へ移った瞬間、俺が鉤を切る。保守車は減速。板は落ちる」
「戻れない」
「元から戻す契約はない」
轟は右掌の血を作業布で巻く。
左肩へ鈍い痛み。手術部位ではなく、周囲の筋肉が庇って痙攣している。
「俺の力、最初に使いすぎた」
「知ってる」
「止めたな」
「止まらなかった」
「次は止めろ」
「料金」
「工具棚を直す」
「高いぞ」
「受領」
轟が板へ乗る。
一歩。
鉤が鳴る。
二歩。
床梁のボルトが一本飛ぶ。
三歩。
轟の体重が十二号車側へ移る。
「切れ!」
浦部が解除柄を引く。
革帯が千切れ、鉤が救援環から外れる。
保守車が後方へ沈むように離れた。
板が線路へ落ちる。
轟は十二号車の床へ右肩から転がる。左肩を守り、腰で衝撃を受ける。
背後の開いた空間を、保守車が小さくなっていく。
浦部が作業床から片手を上げた。
轟も右手を上げる。
左は上げない。
「連結、完了?」
タマキが訊いた。
「仮連結、終了」
真琴が訂正する。
「乗車、完了」
七瀬。
「作業記録は」
「鉤、革帯、工具棚、床梁ボルト一本。負傷、轟右掌裂傷、左肩痛増悪。タマキ右膝打撲。迅左前腕打撲」
「護送員」
タマキが彼を指す。
「名前」
「紙燕連盟、沢代誠」
「タマキを引いた」
「職務外だ」
「書く」
「好きにしろ」
七瀬は沢代の顔を撮らない。
「公開範囲は後で確認します」
「撮ってないのに」
「行為と氏名」
「助けたことを宣伝する気はない」
「では非公開希望として記録します」
「面倒だな」
「褒めていますか」
「拒否」
十二号車の前方で、金属音がした。
沢代の顔が変わる。
「伏せろ!」
車両間連結部から、黄色い火花が走った。
圧縮空気が抜ける鋭い音。
十一号車との間隔が、ゆっくり開く。
「切り離し!」
轟は床へ耳を当てた。
牽引音が前から消えていく。
十二号車の車輪だけが、惰性で線路を叩く。
前の十一両は加速する。
「折部が?」
凱。
沢代は連結部へ走る。
「後部車は郵便・資材。追跡者侵入時、切離し手順がある!」
「人が乗ってる!」
七瀬。
「だから非常制動が入る!」
十二号車のブレーキが作動した。
轟たちの身体が前へ投げ出される。
真琴の予備眼鏡が鞄から飛び、壁へ当たる。
「二つ目!」
「今、数える場所ですか!」
凱が座席の柱を掴む。左膝が伸びたまま床へ滑る。迅が白い外套の襟を左手で引き、壁への衝突を避ける。
タマキの鉄箱が床を走る。
沢代が足で止める。
轟は右手で床梁を掴み、左肩を胸へ固定する。重量が前へ移り、十二号車の後輪が一瞬軽くなる。
車輪が悲鳴を上げた。
窓の外で、十一号車が遠ざかる。
十メートル。
二十。
三十。
六二一号の本体は、曲線の先へ入る。
黄土色の外套が最後部デッキに一瞬見えた。
折部翼は振り返らない。
定められた手順を、定められた速さで実行しただけだ。
十二号車は、保守車とも本列車とも切れた。
中には、迅たち七人、護送員一人、郵袋、工具、空の担架。
証言者はいない。
「追いついた?」
タマキが床へ座ったまま訊く。
轟は遠ざかる列車の振動を耳で追った。
「違う」
前方の音が、小さくなる。
「切り離される所へ、届いた」