第107話 第四章「屋根上の風」前編

十月十七日 午前十時五十九分

 向かい風は、前から来るとは限らない。

 速すぎる時は、自分が風の出発点になる。

 十二号車の床で、竜胆迅は左前腕へ冷却布を巻かれていた。

「打撲。骨の変形なし。指、動かして」

 七瀬が言う。

「医者じゃない」

「応急手当講習三回」

「撮る人」

「撮影機は固定中です」

 壁際の小型三脚が、車内全景と時計を撮っている。七瀬は右手で包帯を引き、左肩を動かさない。迅の右腕は以前の骨折部位が振動で鈍く痛み、左前腕には護送員の棒を受けた青痣が出ていた。

「動く」

 迅は左指を開く。

「痛み」

「二」

「十段階」

「二」

「本当は」

「四」

「最初から」

「二って言ったら、動ける」

「四でも動けます。判断が変わります」

「何が」

「私があなたを殴りたい強さ」

「今、八?」

「九」

「元気だな」

「あなたが」

 十二号車は完全停止していなかった。

 非常制動で時速十七キロまで落ちたあと、下り勾配へ入り、再び二十三キロへ上がっている。浦部技師たちの保守車は後方で停止した。前方の本列車は、曲線制限で時速三十二キロまで減速している。

 距離、百八十メートル。

 増えてはいない。

 減ってもいない。

 郵便車には、車庫内で使う蓄電式の補助走行装置があった。床下の小さなモーター。最高時速二十五キロ。旅客線で使うことは禁止だが、切り離した車両を安全地点へ移すための非常条項がある。

「安全地点は後ろだ」

 護送員の沢代誠が言った。

 さっきタマキを引き上げた男だ。今は右手首へ湿布を巻いている。鉄箱の重さを片手で受けたため、腱を痛めた。

「前は本列車」

 タマキ。

「追うのは安全移動じゃない」

「証言者は前」

「俺の職務は、侵入者を切り離して車両を退避させることだ」

「切り離された自分も?」

「想定外だ」

「予定にないと、道具だけじゃなく人も置いてく」

「おまえを助けた」

「うん。だから沢代誠を置いていかない」

「何の話だ」

「前へ行く話」

 沢代は困った顔をした。

 助けた相手から仲間扱いされるのは、敵に殴られるより断りづらい。

 轟が車両端の機械箱を開く。右掌の裂傷は洗浄して布を巻いた。左肩には冷却帯。頭上へ腕を上げないため、床へ片膝をつき、右手だけで蓄電器の接点を見る。

「補助走行、使える」

「前へ?」

 凱。

「本来は後ろ。極性を逆にすれば前。速度二十五。向こうは曲線で三十二。追いつかない」

「次の減速は」

 タマキが移送券を出す。

「この縦筋。保守扱いなら、点検区間で二十まで落とす」

「推測だ」

 真琴。

「今、前の列車の車輪音が変わった」

 轟は床へ右耳を当てた。

「継ぎ目が短い。保守橋へ入った。あそこは荷重検査で二十二」

「距離」

 七瀬が窓から測る。

「百六十五。減少」

「追いつける」

 迅は立つ。

「誰が連結器を開ける」

 轟。

「俺」

「向こうの後部は閉。十一号車の後面へ渡る必要がある」

「屋根」

「風、強い」

「床より出口がある」

「右手」

 七瀬。

「腰索」

「左前腕」

「四」

「さっき二」

「訂正した」

「誇らしそうに言わないで」

 七瀬は冷却布の端を締める。

「屋根へ上がるなら、映像は撮れません」

「撮らなくていい」

「あなたが決めない」

「撮る?」

「私は車内に残ります。左肩で梯子を上がれない。固定機をあなたの胸へ付けると、落下時に肋骨を折る」

「じゃあ撮らない」

「記録がないことを、記録します」

「言い方が面倒」

「行動が面倒です」

 迅は後部梯子を見上げる。

 出口は天井に一つ。

 入る時、蝶番を数えた。

 三つ。

 錆は中央だけ。

「迅」

 凱が呼ぶ。

「折部を倒すな」

「会ったら考える」

「考える時間を残せ」

「おまえに言われたくない」

「だから言う」

 凱は膝装具へ手を置いた。

「速い決断は、後から正しい理由を集める。俺もやった」

「今は何を集める」

「車両ごとの返事だ」

「まだ返事、ない」

「だから、おまえの拳で一つにするな」

 迅は胸ポケットの封筒へ触れた。

 開けていない手紙。

 宛先が自分でも、中身を受け取る時刻は決められる。

「分かった」

「本当に」

「前へ行く」

「答えになっていない」

「タマキみたいだな」

「不本意だ」

 タマキが聞いている。

「何で」

「今は行け」

 午前十一時六分

 屋根の風は、音を一つにした。

 車輪。

 金属。

 架線柱。

 遠い汽笛。

 全部が、耳を押す低い塊になる。

 迅は十二号車の天井へ腹ばいで出た。

 腰索を屋根上の保守環へ掛ける。左手で確認。右手は添えるだけ。冷えた金属へ触れた瞬間、小指から肘へ痺れが走った。

 離す。

 風が紺の学ランを膨らませる。

 前方百二十メートルに、十一号車の後面。

 十二号車の補助モーターが唸り、距離を縮めている。

 百十。

 百。

 線路が右へ曲がる。

 迅の身体には、二種類の風が当たる。車両が作る正面風。曲線で横から入る谷風。足の位置を一歩変えるたび、重心の源が動く。

 普段なら、相手の拳、肩、床の圧を読む。

 何が暴力を生み、どこから離れればいいかを数える。

 屋根の上では、源が一つではない。

 列車。

 風。

 曲線。

 自分の速度。

 退いた一歩が、何から離れた一歩なのか分からない。

 迅は踵で屋根を擦った。

 滑り止めの粗い塗装。

 靴底は食う。

 使える。

 十一号車との距離、七十メートル。

 その屋根に人影が上がった。

 二人。

 紙燕の護送員。灰色の短衣、安全索、短棒。迅を落とすためではなく、後面へ近づけないために配置される。

 さらに前、十号車の屋根へ黄土色の外套。

 折部翼。

 折り畳み自転車を肩へ担いでいる。義足の底が屋根へ金属音を刻む。右、金属。右、金属。走らない。風へ身体を斜めにし、列車の揺れと歩調を合わせている。

「追いついたね!」

 声が風に裂ける。

「まだ!」

 迅が返す。

「細かい!」

「距離、六十!」

「タマキみたい!」

「不本意!」

 後ろの天窓からタマキが叫んだ。

 聞こえたらしい。

 翼は笑い、自転車の荷台から小さな円筒を外した。

 宛名札が付いている。

《十一号車後部 沢代誠》

「沢代は十二号車!」

 迅。

「今はね!」

 翼が円筒を投げる。

 風に煽られ、右へ流れる。

 普通なら線路へ落ちる軌道。

 円筒の表面に、黒い痕が細く走った。

 誓痕〈ヴァウ・スカー〉

 誤配なし〈ライト・アドレス〉

 落下しかけた円筒が、見えない斜面を転がるように向きを変える。十一号車の屋根を跳ね、後端を越え、十二号車の天窓へ向かう。

 迅の脇を通る。

 手を出さない。

 宛先は沢代だ。

 円筒は天窓の縁へ当たり、車内へ落ちた。

 能力が列車を動かしたのではない。

 荷物が正しい受取人へ届くため、衝突と落下の偏りを少し変えた。

 少しで十分だ。

 時速二十五キロの屋根では、一センチの偏りが命を選ぶ。

「何を送った!」

「開放鍵!」

「連結器?」

「沢代の車両退避鍵! 返送するなら使える!」

「前へ返す!」

「受取拒否は本人に聞いて!」

 翼は前へ移る。

 迅を待たない。

 護送員二人が、十一号車後面へ安全索を張った。

 距離、四十メートル。

 十二号車は保守橋へ入る。本列車は橋を抜け、速度を上げようとしている。

 追いつける時間は、四十秒。

「索を渡せ!」

 迅が叫ぶ。

 護送員の一人が答える。

「乗車許可はない!」

「連結しないと、この車両が後ろへ残る!」

「退避できる!」

「沢代がいる!」

「彼は手順を知ってる!」

「タマキも!」

「侵入者だ!」

「名前、知ってる?」

「環玉樹!」

「知ってるなら落とすな!」

 会話で許可は出ない。

 距離、二十八メートル。

 迅は屋根の保守環から腰索を外した。

 七瀬なら怒る。

 外さなければ、十二号車から先へ行けない。

 護送員が投げ鉤を構える。迅へ当てるのではない。屋根前方の環へ掛け、横に索を張る。低い障害。飛び越せば風に浮く。潜れば速度を失う。

 勝つための武器ではない。

 遅らせるための道具。

 迅は走らない。

 屋根の縁へ三歩。

 索の高さ、膝下。

 相手の短棒は、迅が跳ぶ瞬間を狙う。

 一歩目。

 風が右。

 二歩目。

 車体が左へ揺れる。

 三歩目。

 迅は跳ばず、屋根へ左掌をついた。身体を横へ倒し、索の下を滑る。

 学ランの背が粗い塗装へ擦れ、布が裂ける。

 短棒が頭上を通る。

 迅は護送員の足首を取らない。

 取れば相手が落ちる。

 腰へ肩を当て、屋根中央へ押し戻すだけ。

「戦え!」

「時間ない!」

「だから止める!」

 もう一人が前へ出る。

 短棒を横に振る。

 迅は左前腕で受けない。痣へ同じ衝撃を入れれば握力が落ちる。身体を半歩下げ、棒先を学ランの裾へ引っ掛けさせる。

 布が裂ける。

 相手の力は空へ抜ける。

 迅は一歩、二歩と退く。

 数えない。

 同じ源から離れているか分からない。

 風が相手の背から押し、車体が足下で曲がる。暴力の源〈ソース〉を一人へ決められない。

 三歩目で、護送員が勝ったと思う。

 前へ踏み込む。

 その足が、さっき張った安全索へ触れた。

 索が脛へ絡む。

 男の身体が屋根の左へ倒れた。

 迅は反射で腕を伸ばす。

 右手。

 掴んだ瞬間、痺れが指を開かせる。

「くそ」

 左手へ持ち替える。

 護送員の安全帯を掴む。体重が肩へ入る。迅の腹が屋根の縁まで滑る。

 下に線路。

 枕木が灰色の帯になる。

「放せ!」

 男が叫ぶ。

「落ちる!」

「おまえが!」

「知ってる!」

 もう一人の護送員が迅の腰を掴む。

 二人で引く。

 落ちた男の安全索は、屋根環から外れている。投げ鉤が障害を作るため別の環へ移され、本人の救命線が短くなっていた。

 迅は左手一本で安全帯を引き上げる。

 右手は男の上着へ添えるだけ。

 護送員の膝が屋根へ戻る。

 三人が伏せたまま、息を吐く。

「倒せた」

 迅が言う。

「何を」

「時間」

「おまえのせいだ!」

「索、貸せ」

「ふざけるな」

「今、助けた」

「それとこれは」

「別。だから貸すか決めろ」

 男は迅の顔を見る。

 右眉の傷。濡れた黒髪の一房だけ灰色。黄褐色の目。助けたことを料金にするつもりはない。だが、時間はない。

「戻せ」

 男は自分の安全索を外し、迅へ投げた。

「前の環へ掛けたら、十一号車へ残せ。俺たちが回収する」

「受領」

「配達員みたいに言うな」

「不本意」

 タマキの声が後ろから飛ぶ。

 護送員は、倒されたあとも前を塞いだ。

 倒れているからではない。

 迅が安全索を戻すまで、動けないからだ。

「先へ行け!」

 男が伏せたまま叫ぶ。

「索」

「自分で掛ける!」

「鉤が曲がってる」

「知ってる!」

「予備」

「腰の右!」

 迅は男の右腰へ手を伸ばす。

 右手が先に出る。

 癖だ。

 指へ痺れが走り、留め具を掴めない。

 左へ替える。

 三秒。

 たった三秒で、十一号車との距離は一メートル増えた。

 勝つためなら、男を無視して前へ行ける。

 帰るためには、屋根へ落下者を残せない。

 迅は予備鉤を環へ掛け、二度引く。

「確認」

「見れば分かる!」

「俺の右手は、見ても外す」

 男が黙る。

 自分で左手を伸ばし、鉤を引いた。

「確認」

「受領」

「配達員みたいに言うな」

「不本意」

 距離、十三メートル。

 もう一人の護送員が短棒を横へ置く。

「行かせない」

「さっき行けって」

「あいつは、助けられたから言ってる。俺は命令を受けてる」

「何の」

「前進を遅らせる」

「落とすな?」

「落とすな」

「殴るな?」

「必要な範囲」

「便利」

「規程だ」

 男は短棒を迅の胸へ突く。

 速くない。

 避ければよい。

 避けた方向へ、屋根の継ぎ目がある。

 靴底が一瞬浮く。

 迅は下がる。

 一歩。

 赤い糸の最初の結び目が、かすかに熱を持つ。

 違う。

 今の源は、男の棒か。

 列車の揺れか。

 継ぎ目か。

 確定できない。

 熱はすぐ消える。

「数えた?」

 男が訊く。

「知らない」

「折部さんが言ってた。おまえは七歩下がる」

「歩数だけ知っても使えない」

「七回下がったら殴る」

「じゃあ、六で止める?」

「そうする」

「俺が八まで下がったら」

 男の目が動く。

 迅は前へ出る。

 短棒の根元へ肩を寄せる。

 殴らない。

 男の両手を棒ごと上へ押し、身体の横を抜ける。

 男は追う。

 迅が一歩、二歩と退く。

「数えるな!」

 相手が自分で叫ぶ。

「おまえが数えてる」

「四!」

「今、二」

「嘘だ!」

「歩数は本当。源が違う」

「何が違う!」

「おまえが分からないなら、俺も使えない」

 男は苛立ち、棒を大きく振る。

 迅は頭を下げる。

 棒が安全索へ当たる。

 索が跳ね、男自身の足へ絡む。

 迅は掴まない。

 男は今度、自分で屋根へ伏せた。

「倒してない」

「うるさい!」

「前、通る」

「拒否!」

 男は伏せた姿勢のまま、迅の足首を取る。

 迅も倒れる。

 屋根へ頬を打つ。

 視界が白くなる。

 風が学ランの背へ入り、身体を横へ押す。

 二人は、どちらも相手を落とせない。

 落とした時点で、運行責任も同意確認も関係なくなる。

 生きて着く、という一番単純な条件だけが失われる。

 迅は相手の手首を返さず、指を一本ずつ足首から外す。

「遅いな」

「おまえの仕事」

「成功」

「こっちも」

「何が」

「落としてない」

 男は笑いそうになり、やめた。

「名前」

 迅が訊く。

「今?」

「落ちたら、呼ぶ」

「笠井透」

「竜胆迅」

「知ってる」

「じゃあ不公平」

「戦いに公平を求めるな」

「安全索は公平」

「誰にでも同じ長さじゃない」

「体格が違う」

「じゃあ公平じゃない」

「面倒だな、おまえ」

「タマキよりまし」

 後ろから「不本意!」と飛んでくる。

 笠井がとうとう笑った。

 笑うと腹の力が抜ける。

 迅はその一瞬に足を外し、前へ進む。

 勝ったのではない。

 相手が人間へ戻った一秒を借りただけだ。

 十一号車との距離は、十六メートル。

 遠くなっている。

 前へ進んだのに、目的地は離れた。

 迅は借りた安全索の重さを左手へ集める。

 相手を倒すほど、回収する物が増える。

 速さを奪う敵は、強い拳より厄介だった。

 前方で、折部翼が右手を高く上げた。

 黄土色の袖が二度、横へ振られる。

「伏せろ!」

 笠井が叫んだ。

 意味を訊く時間はない。

 迅は屋根へ腹をつける。

 次の瞬間、低い信号桁が頭上を通った。

 黒い鉄骨。

 屋根との隙間、六十センチ。

 立っていれば首を持っていかれる。

 桁が風を切り、三人の背へ圧を落とす。

 迅の裂けた学ランが鉄骨へ吸われる。

 布が一瞬、首を締めた。

 笠井が後ろから裾を踏む。

 布がさらに裂ける。

 身体は屋根へ残る。

「助けた?」

「制服を壊した!」

「助けた?」

「受取拒否!」

 桁を抜ける。

 全員が起き上がる。

 距離、十四メートル。

 信号桁の振動で、十一号車後端の点検蓋が半分開いた。

 中から、革の郵袋が一つ跳ねる。

 屋根へ落ち、風に押され、左の縁へ滑る。

 宛名札が見えた。

《南環駅 救護所》

 もう通過した場所だ。

「置け!」

 笠井。

「戻せない荷物だ!」

「中身!」

「医療記録!」

 迅は走る方向を変えた。

 前ではない。

 左へ。

 郵袋の紐が屋根の鋲へ一度引っ掛かる。

 次の揺れで外れる。

 迅は左手を伸ばす。

 届かない。

 右手なら十センチ近い。

 使う。

 指先が紐へ触れる。

 痺れで握れない。

 袋が縁を越える。

 笠井が短棒を滑らせる。

 棒先の鉤が郵袋の肩紐を拾う。

 だが、笠井の身体も風へ引かれた。

 迅が彼の安全帯を左手で掴む。

 もう一人の護送員が、迅の腰索を掴む。

 三人が一本の荷物へ繋がる。

「放せ!」

 笠井。

「記録、落ちる!」

「おまえが落ちる!」

「順番!」

「人が先!」

 迅は答えず、左膝を屋根の排水溝へ押し込む。

 護送員が迅の腰索を後ろの環へ一巻きする。

 自分だけでは持たない。

 人を支える時、支えた者の後ろにも誰かが要る。

 笠井が短棒を引く。

 郵袋が屋根へ戻る。

 迅は右手を紐から離す。

 遅れて、右腕の内側へ熱が走った。

「記録に、命を掛けた?」

 迅が訊く。

「記録にじゃない。受取人にだ」

「王環、もう後ろ」

「なら返送する。落としたら返送先もなくなる」

「配達員だな」

「紙燕だ」

「違い」

「料金と制服」

「制服、破れてない」

「おまえが破れすぎなんだ」

 笠井は郵袋を点検蓋の内側へ戻し、留め金へ安全索の余りを通す。

「これで前へ使う索が短くなった」

 迅。

「おまえが荷物へ曲がった」

「置けって言った」

「聞かなかった」

「じゃあ自分の遅れだ」

「記録する?」

「七瀬に言え」

「撮ってない」

「なら、おまえが覚えろ」

 迅は前を見る。

 翼は十号車の屋根から、こちらを待たずに進んでいる。

 ただし、信号桁を知らせた。

 敵を落としたくないからではない。

 落下事故で列車を止めたくないからかもしれない。

 理由は一つでなくてよい。

 助かった事実は、理由の所有物ではない。

「笠井」

「何だ」

「前へ行く」

「止める」

「さっき行けって言った」

「郵袋の時だ」

「言葉は使用済み?」

「タマキみたいなことを言うな」

 笠井は短棒を水平に出す。

 迅は棒へ触れない。

 自分の安全索を、さっき郵袋へ使った索の下へ通す。

 二本が交差する。

「何を」

「共用」

「絡むぞ」

「おまえの索を上。俺を下。風で振られても、どっちかが屋根中央へ引く」

「敵と同じ索へ命を預けろ?」

「もう預けた」

 郵袋を引いた時、三人は同じ線で繋がった。

 笠井は一秒迷う。

 その一秒を迅は抜けない。

 待つ。

 笠井が短棒を下ろした。

「前の環まで。そこで切る」

「受領」

「配達員みたいに――」

「紙燕?」

「不本意だ」

 迅は交差した二本の索を滑るように前へ出る。

 一歩。

 笠井が後ろから引き、横風を殺す。

 二歩。

 迅が前の環へ掛け替え、笠井の帰路を残す。

 三歩。

 もう一人の護送員が棒を振るが、索を切らない。

 全員が落ちれば、誰の仕事も残らない。

 距離、十二。

 十。

 九。

 迅は前の車両へ届いていない。

 だが、後ろへ戻れる線を残したまま、九メートルまで来た。

 速さだけなら、もっと前へ行けた。

 帰り道を含めた距離は、いつも少し長い。

 午前十一時二十二分

 距離、九メートル。

 車両同士は近い。

 届かない距離だ。

 迅は借りた安全索の鉤を振る。

 右手は使わない。左で一周。風が鉤を右へ流す。十一号車後部の屋根環から五十センチ外れる。

「もう一度!」

 十二号車内の轟が叫ぶ。

「本体、加速!」

 距離、十一メートル。

 離れ始める。

 迅は鉤を戻す。

 風向きが変わる。

 谷を抜け、正面風が強くなる。

 二度目。

 鉤は環の手前へ落ち、屋根を滑る。

 護送員が短棒で止めようとする。

 棒先が鉤へ触れる。

 弾くのではない。

 環の方へ押す。

 鉤が一回転し、噛んだ。

「なぜ」

 迅。

「沢代を置かないんだろ!」

「タマキも!」

「そいつは知らん!」

「名前、知ってる?」

「環玉樹!」

「知ってる!」

「うるさい!」

 迅は索を張る。

 十二号車の先端から、十一号車後部へ斜めの一本線。

 沢代が車内で補助走行を最大へ上げる。

 距離、八メートル。

 迅は索へ短い滑車を掛ける。郵便車の救命具。片手で扱えるよう、開閉式になっている。

「行くぞ!」

 誰へ言ったのか分からない。

 自分か。

 前の車両か。

 後ろの者か。

 迅は屋根を蹴った。

 身体が宙へ出る。

 索が腰を引く。

 足下に線路。

 右手は滑車へ添えるだけ。左手で全体重を支える。前腕の痣が熱い。肩が抜けそうになる。

 風が身体を回す。

 正面を保てない。

 迅は右膝を索へ掛け、回転を止める。

 一メートル。

 二。

 三。

 十一号車の後面が近づく。

 護送員が待っている。

 棒を構えていない。

 迅の腰索を掴み、屋根へ引く。

 迅は転がり、背中を打つ。

「借りた索」

 息を切らして言う。

「今それか」

「戻す」

「先に連結器!」

 迅は後端の点検梯子を下りる。

 左手。

 右足。

 左足。

 右手は添える。

 自動連結器の開放柄へ到達する。封印線が巻かれている。切離し後の再連結は、運行責任者の許可が必要。

 迅は封印を見た。

 破れば、列車の安全手順へ介入する。

 破らなければ、十二号車は置かれる。

「沢代!」

 後方へ叫ぶ。

 距離、六メートル。

 十二号車の後部天窓から沢代が顔を出す。

「鍵、届いた!」

「開放権限は!」

「退避車両責任者!」

「誰!」

「今は俺!」

「再連結を選ぶか!」

 沢代は一瞬、前方を見る。

 折部の命令は切離し。

 自分の車両には、証言者がいない。

 侵入者を退避させるのが手順。

 だが、タマキを助けた手は、その少年を線路の途中へ残すことを拒んでいる。

「選ぶ!」

「鍵!」

 沢代が円筒から開放鍵を出し、投げる。

 宛名はない。

 能力の助けもない。

 風に流され、迅の右へ逸れる。

 迅は右手を伸ばしそうになる。

 止める。

 左足で梯子を蹴り、身体を横へ振る。左手で鍵を掴む。

 肩が軋む。

 鍵を差す。

 封印線を切らず、解除金具を回す。沢代の権限鍵なら封印番号を残したまま開く。

「開いた!」

 連結器の顎が下がる。

 十二号車が近づく。

 五メートル。

 三。

「衝撃!」

 轟の声。

「全員、壁へ! 膝を曲げろ! 凱は曲げるな、座れ!」

「最後だけ個人指示だな!」

 凱の声。

 二メートル。

 迅は点検梯子から屋根へ戻る。

 一。

 金属同士が触れる。

 自動連結器が噛む。

 どん、と車体全体が揺れた。

 迅の胸が屋根へ当たり、息が抜ける。

 十二号車の補助モーターが自動停止する。

 車輪音が、再び十二両分へ繋がった。

「連結確認!」

 轟。

 迅は梯子から顎の指示器を見る。

「緑!」

「空気管!」

「まだ!」

「沢代、管を繋げ!」

「俺の手首!」

「タマキ、補助!」

「受領!」

 車内で二人が床下管を繋ぐ。

 圧縮空気の漏れる音が止まる。

 十二号車のブレーキ系統が本体へ戻る。

 再連結は完了した。

 再連結の衝撃は、車両より遅れて人へ届いた。

 十二号車の天窓から、タマキが顔を出す。