第108話 第四章「屋根上の風」後編

「迅、右」

「動く」

「質問、動くじゃない。落とした?」

「何を」

「感覚」

 迅は右小指へ左手で触れる。

 触れられた感覚はある。

 冷たいかは分からない。

「半分」

「何の半分」

「触ってる」

「冷たい?」

「知らない」

「七瀬!」

「呼ぶな」

「呼ぶ」

 七瀬が天窓まで来る。

 左肩を上げられず、梯子には登らない。

「右手を見せてください」

「屋根」

「見えています。掌を窓へ」

 迅は右掌を下へ向ける。

「色、左右差なし。指を一本ずつ」

 小指。

 遅い。

 薬指。

 遅い。

 中指。

 動く。

「握らない。屋根作業は左手主体。十分ごとに確認」

「十分後には前」

「前でも確認」

「誰が」

「敵へ頼んでください」

 笠井が近くで聞いている。

「断る」

「氏名、笠井透。負傷者の感覚確認を拒否」

「記録するな!」

「では確認を」

 笠井は迅の右小指へ自分の棒の木部を軽く当てる。

「触れたか」

「触れた」

「硬いか、柔らかいか」

「硬い」

「冷たいか」

「分からない」

「記録しろ!」

「受領」

 七瀬。

「おまえ、脅されてる」

 迅。

「おまえの仲間だろ」

「たぶん」

「たぶんなのか」

 列車が小さな起伏を越える。

 全員が伏せる。

 屋根に立っている翼だけが、自転車のハンドルへ体重を逃がした。義足の磁気底が一瞬遅れて吸いつく。

 きん。

 細い音。

 迅が顔を上げる。

「左脚」

「見ないで!」

「音」

「正常!」

「一回目」

「何の」

「異音」

「配達員は車輪も鳴る!」

「義足は車輪じゃない」

「付ければ速い!」

「やめろ」

「冗談!」

 翼は笑い、左の接続部を指で押す。

 点検ではなく、癖に見える。

 だが指は同じボルトへ二度戻る。

 本人も異常を感じている。

「下りて点検」

 笠井が言う。

「運行中」

「五分」

「五分で列車は二キロ進む」

「壊れたら」

「予備工具は十二号車」

 タマキが下から叫ぶ。

「ある! 黄土印!」

「勝手に荷物を読むな!」

「宛名!」

「それは読んでいい!」

 翼は屋根から下りない。

 迅も強制できない。

 相手の身体を守るという名目で、その人の判断を奪えば、今追っている列車と同じになる。

「異音、時刻を残す」

 迅は言う。

「何のため」

「次、違うって言えないように」

「嫌な記録」

「七瀬に習った」

「不本意です」

 下から返る。

 翼は肩をすくめる。

「じゃあ、あなたの右手も残す」

「残ってる」

「次に無理して、知らなかったって言えないように」

「言わない」

「言う顔」

「顔は契約外」

「流行ってるね、それ」

 敵同士で負傷を記録する。

 仲間になるためではない。

 死なせないという最低条件が、所属より下にあるからだ。

 十二号車の空気管圧が安定する。

 沢代が天窓から親指を上げる。

 轟の声。

「再連結、固定確認。迅、前へ行くなら、索を二本」

「一本でいい」

「右手が半分」

「身体は一つ」

「だから二本だ」

 笠井が自分の予備索を出す。

「貸す」

「さっき返した」

「今は別の作業」

「料金」

「前へ行かないこと」

「払えない」

「なら、返す時に鉤の曲がりを申告」

「受領」

 迅は二本目を腰帯へ繋ぐ。

 一つは自分の帰路。

 一つは、相手が戻すことを条件に渡した道具。

 信頼ではない。

 条件が見える貸し借り。

 その方が、屋根の上では強かった。

 だが、迅は屋根から下りない。

 前方に折部翼がいる。

 彼女は九号車の屋根へ移り、振り返っていた。

「よく届いた!」

「止まれ!」

「誰が降りたいか決まったら!」

「決める場所がない!」

「車内にある!」

「走ってる!」

「人生も!」

「名言?」

「配達標語!」

「最悪だな!」

「褒め言葉、受領!」

 翼は自転車を屋根へ展開した。

 前輪を固定し、後輪だけを回す。発電機が小さな信号灯を点滅させる。黄色、二回。白、一回。

 線路脇の保守標識が応答する。

 一般時刻表にはない短い支線の信号。

 迅は見逃さない。

 右側の擁壁に、黒い小板。

《M17》

 その先、草に隠れた転轍機。

 細い側線が本線から離れ、草と擁壁の陰へ消える。走る屋根からは、長さも終端も見えない。

 駅ではない。

 ホームもない。

 保守車両が待避するだけの場所。

 切符の裏側が知っていた、印刷されない停車だ。

「タマキ!」

 迅は天窓へ叫ぶ。

「右、M17!」

「見えた!」

「長さ!」

「今測る!」

 翼の顔から笑みが消える。

 彼女も、迅が何を見つけたか分かった。

 護送員が前へ出る。

 迅を倒すのではない。

 標識を見た記憶を、車内へ届けさせないために時間を奪う。

 迅は借りた安全索を屋根環へ掛け直した。

 自分の腰ではなく、さっき落ちかけた護送員の金具と同じ環へ。

「返す」

「まだ使え!」

「前へ行く」

「落ちるぞ!」

「おまえも」

「だから繋いだ!」

 迅は索を二人の間に残した。

 敵の救命具。

 自分の移動線。

 どちらの物でもある。

 風は味方にならない。

 敵にもならない。

 ただ、全員を同じ屋根の上へ置いていた。