第39話 第六章「王の席」前編
七月二十七日 午前十時二十分
椅子には、座った人間の体重しか載らない。
それでも王の椅子だけは、立っている者まで重くする。
旧第二体育館の中央に置かれた木椅子は、学校の備品ではなかった。
背は獅堂凱の肩より高く、肘掛けには白冠連の古い紋章が浅く削り取られている。かつて避難所の壇上で凱が命令を出した椅子。王位を捨てた夜、轟が倉庫へ運び込み、誰も処分を決められないまま残ったものだ。
今朝、会議準備の誰かがそれを中央へ戻した。
札には《議長席》と書かれている。
王席と書かなければ王ではなくなるほど、家具は素直ではない。
「議長を選んでください!」
十列目から声が飛んだ。
「議題に入れ!」
「まず委任を数えろ!」
「いや、委任が有効か決めろ!」
「それを決める議長がいない!」
「元体育教員でいいだろ!」
「私は席番号三です。議員です」
赤鉛筆を持つ元体育教員が答える。
「真琴がやれ!」
「私は規則解釈の補助者であり、議席番号八十二です。議長になると異議判断と利益が衝突します」
「七瀬!」
「撮影責任者です。議長になれば、撮影範囲を自分で決め、自分の判断を自分で記録することになります」
「迅!」
「嫌だ」
用具口から即答が返った。
「理由を言え!」
「嫌だから」
「理由になってない!」
「候補にしたのはそっちだ」
議場の声は百方向へ散っていた。
四本の遠隔線からも別々の音が入る。西橋の風。排水管理小屋の雨量計。南仮設の子どもの寝息。北医療団地の点滴台が転がる金属音。
百人が揃えば百の声が聞ける、とは限らない。
百人が同時に話せば、一人も聞こえなくなる。
「凱」
真琴が椅子の横へ立った。
丸眼鏡の奥で、薄い榛色の瞳が乾いている。朝から規則を読み続け、喘息を避けるため粉塵の多い用具口へは近づいていない。白手袋の指先だけが黒いインクに染まっていた。
「座ってください」
「命令か」
「要請です。あなたが拒否できると知った上で、必要だと判断しています」
「俺が座れば、何が変わる」
「議長は発言順、議題順、休憩、委任票の一括受理を決定できます。少なくとも今の発声競争を止められる」
「委任票の一括受理」
「はい」
「俺宛てのものも、白戸のものも」
「形式上有効なものは」
「おまえはそれを望むか」
真琴は眼鏡の左つるを上げた。
「私は、会議が始まらず疲労だけが増え、空腹と恐怖で参加者が帰り、最後に声の大きい者の結論だけ残ることを望みません」
「質問へ答えろ」
「あなたが議長として委任を受理し、白布へ期限と責任者を与えることは、今より安全です」
「誰のために」
「妹の薬が今日切れる人。夜勤へ戻る人。子どもを預けている人。橋が閉まる前に帰る人」
「早く決めれば、その人たちを守れる?」
「少なくとも待たせません」
「待たせないため、代わりに決める」
「非常時には必要です」
「今日は非常時か」
「入口で乱闘があり、遠隔四名が不安定で、食材搬入も遅れています」
「非常を作れば、王を呼べる」
「作ったのは私ではありません」
「でも使う」
「使える規則を使うことが私の仕事です」
真琴の声は明るく明瞭だった。
正しい文を読む時の声だ。
凱は椅子を見た。
左膝の装具が熱を持っている。立ったまま一時間以上。痛みを理由に座れば、誰も責めない。
それが最も危険だった。
「獅堂さん」
前列の老女が呼んだ。
「座って。声が聞こえない」
「俺でいいのか」
「よくない。でもほかに決まらない」
「よくない者へ任せる理由は」
「よくないと分かってるから。王様だった頃は、あんた自分がよくないって聞かなかった」
議場の何人かが笑った。
凱は笑えなかった。
白戸は四列目の通路に立っている。委任状の束を胸へ抱え、凱の姿勢を半分だけ真似ていた。右薬指は左手で伸ばされ、袖口の無記名札は朝より減っている。
「僕も、獅堂さんを議長へ推薦します」
白戸が言った。
「理由」
「この会場で、全員が聞く声を持っているからです」
「それをおまえが使いたい」
「はい」
白戸は否定しなかった。
「僕の委任は、あなたが受理しなければ票にならない。あなたの委任も同じです。だから、少なくとも同じ椅子の下へ置けます」
「俺が受理すれば、おまえは勝てると思うか」
「勝つ、というのが何を指すかによります」
「真琴みたいに話すな」
「近くにいたので」
「やめてください」
真琴が即座に言った。
今度は笑いが少し大きくなった。
凱は椅子の前へ進んだ。
左膝を曲げる。
装具の金属が鳴る。
座面は硬かった。
昔と同じ高さ。
体育館の全てが見えた。
百の席。四本の銅線。台所へ続く扉。入口固定機の黄色い時刻板。寝かされた鉄扉。用具口に立つ轟。その横で壁へ寄りかかる迅。
凱が座った瞬間、議場が静かになった。
誰も命令していない。
凱の誓痕も光っていない。
それでも静かになった。
白冠の二年間で、凱が座れば待ち、凱が立てば動く身体を、街の多くが覚えている。
習慣は能力より長く残る。
その静寂が、凱には気持ちよかった。
自分の声を出す前に、全員が待っている。
誰も割り込まない。
迷いを見せる必要がない。
この快感のためなら、人は責任という立派な名前をいくらでも着られる。
凱は胸の割れた青銅鐘へ触れかけ、やめた。
「午前十時二十七分」
七瀬の声が記録位置から入る。
「獅堂凱が暫定議長席へ着席。選出方法への異議、三件。任期、未定。権限範囲、未定」
「未定を先に読むな」
凱が言った。
「決まっていない事実です」
「今決める。暫定議長の期限は、正午まで」
真琴が筆を上げる。
「短すぎます」
「延長は再承認」
「権限」
「発言順、休憩、危険時の退避。委任票の最終受理はしない」
議場がざわめいた。
「受理しなきゃ何のための議長だ!」
「議事を始めるためだ」
「票を数えろ!」
「数える前に、誰の票か確認する」
「紙に名前がある!」
「死者の名もあった」
ざわめきが止まった。
凱は死亡した老女の委任状を高く掲げなかった。
見世物にしない。
机の前へ一枚だけ立てた。
「俺宛てに、半年前に死んだ人の署名が出た。受付経路は確認中。これ一枚で他の委任を偽物とはしない。だが、紙があるだけでは受けない」
「白戸の委任に偽物があると?」
誰かが叫ぶ。
「言っていない」
「じゃあ凱側の不正だろ!」
「俺側、という言葉を使うな。俺へ出された」
「同じだ!」
「違う。出された責任はある。支持した責任まで俺が奪わない」
「意味が分からない!」
「俺にも分からない部分がある。だから一つずつ聞く」
自分の口から「分からない」が出た。
昔なら、沈黙を恐れて次の命令を重ねた。
今は沈黙が一秒、二秒と伸びる。
七瀬のクランク音だけが一定だった。
「議題一。白布を用いる活動に、共通の認証を与えるか」
凱は言った。
「発言時間は一人二分。延長は一度。遠隔参加者が聞き取れない場合、時間を止める。賛成、反対、条件付き、判断保留の順で、同じ人数ずつ発言させる」
「順番をなぜあなたが」
「議長権限だ。異議は記録する」
白戸が手を上げた。
「条件付きの人数を、賛成と反対のどちらへ数えますか」
「まだ数えない」
「最終的には」
「本人が選ぶ」
「選ばなければ」
「空席になる」
「今の規則では棄権です」
「今の規則ではな」
凱は最前列の老女を指名した。
「席番号三。発言を」
元体育教員は赤鉛筆を置いた。
「認証には賛成。ただし、白布を巻いた人が勝手に検問をしたら、その場で外せること。代表者を一人置くのには反対。責任者は仕事ごとに必要」
「理由」
「学校だって校長一人で体育館の床は直せないから」
「二分以内」
「まだ四十秒」
「あなたは計る側だろう」
「だから正確」
次は反対。
旧白冠区の修理工が立つ。
「白布は認証するな。名前も所属も分からない奴が、善意を盾に倉庫へ入る。薬を運んだのはよかった。だから次もよいとは限らない」
「白冠の印ならよい?」
迅が用具口から訊いた。
「白冠には名簿があった」
「拘束名簿も」
「迅。発言順を守れ」
凱が言う。
迅は口を閉じた。
従った。
それがまた、議場を静かにした。
凱の腹の底に、古い満足が灯る。
迅さえ止められる。
凱はその感覚を、膝の痛みより警戒した。
条件付きの発言。
西橋の十八番が音声で言った。
『仕事の期限を書いて、終わったら白布を返すなら賛成。白戸くんへ任せた票は、今は止めたい。でも食券を受けたことは消さない』
白戸が手を上げる。
「委任停止への同意は保留します」
「理由」
「食券と保護を継続する人数を計算して、票が外れても同じ支援を続けられるか確認する必要があります」
「票が外れれば、支援を止める可能性?」
「止めたくありません。止めないための確認です」
「今、止めないと約束できない?」
白戸の肩が、凱と同じ直線へ揃う。
「僕一人では」
「誰なら」
「旧共同宿舎の食料担当、寝床担当、医療連絡の三人」
「呼べ」
「会場外です」
「遠隔」
「設備が足りません」
「なら、足りるまで委任は保留だ」
「それでは支援計画も止まります」
「票を使わないと支援できない計画か」
「政治が支援を止めることがあります」
「おまえは政治を取れば止められないと思う?」
「少なくとも交渉できます」
「その交渉へ、食べる人の票が必要?」
「人数が必要です」
「人数と票は同じか」
「白冠がなくなってから、人数を見せないと倉庫は開きません」
白戸の声は柔らかかった。
議場の何人かが頷く。
彼を支持する者全員が脅されたわけではない。
白戸の共同宿舎では、実際に寝床があり、食事があり、薬の順番があり、夜の見張りがいる。白冠の名を嫌う者も、その仕組みで生きていた。
空席は腹を満たさない。
白戸はそう言わなかった。
言わなくても、空席の後ろで腹が鳴った。
台所から小麦の声が飛ぶ。
「昼は十一時半。予定。食材が届けば」
「届かなければ」
誰かが訊く。
「薄くする。なくしはしない」
「敵にも?」
「皿は票を見ない」
「それじゃ白戸の食券と同じだ」
「違う。食べた後に委任状を取りません」
議場の笑いは、今度は少なかった。
笑えないほど具体的な違いだった。
午前十一時三分。
発言は二十三人目で止まった。
委任票の扱いを決めなければ、発言順そのものが争われたからだ。
白戸が提出した四十二通のうち、本人が直接来場した十九席は委任が休眠状態。遠隔出席した一席は停止異議中。署名重複が二席。現時点で代理発言権を主張できるのは二十席だった。
凱宛ての二十八通は、返答窓口で十二通まで減り、うち直接来場が七席。現在の代理発言権は五席。
ほかに地区窓口へ預けられた三席。
二十八の空席に、代理人がいた。
「一括で扱わなければ、今日中に終わりません」
真琴が言った。
「議長が代理人へ、委任範囲ごとの発言時間を与える。白戸二十分、凱五分、地区窓口三分。それが最も比例的です」
「俺が俺へ五分与える?」
「議長と代理人を分けてください」
「身体が一つだ」
「法的役割は複数持てます」
「それで壊れた例を、おまえは知ってる」
真琴の指が止まった。
「では、副議長を置く」
「誰」
「元体育教員」
「私へ振らないで」
「轟」
「字、遅い」
用具口から低い声が返る。
「七瀬」
「記録と判断を兼ねません」
「迅」
「嫌だ」
「タマキ」
「十四歳。あと番号札」
「小麦」
「鍋が焦げる」
誰も椅子へ座りたがらない。
凱は以前、座りたくない者を弱いと思った。
今は、座りたい自分の方を恐れている。
「委任状を、代理人の手から離す」
凱が言った。
「何を?」
真琴が訊く。
「空席へ戻す。席番号ごとに置く」
「紙を置いても代理権は残ります」
「持っている姿をやめる」
「象徴的行為です。法的効果は」
「今はない。作る」
「議長に規則制定権はありません」
「整理権はある。委任状を席番号順へ並べ、本人の席で読み上げる。代理人は席の横へ立ち、本人の名を言う前に自分の意見を言わない」
「時間が」
「かかる」
「だから反対です」
真琴の声に苛立ちが混じった。
「凱、あなたは遅さを美徳にし始めています。迷った人を尊重することと、決められない自分を正当化することは違う」
「分かっている」
「分かっていません。外で人がぶつかっている。台所の燃料は残り少ない。遠隔線は手回し発電です。時間には身体が払う費用があります」
「だから一括で受けろ?」
「少なくとも、期限を置く」
「置く。午後一時まで、全委任者へ質問と撤回の窓口を開く。その間、代理発言は保留」
「二時間」
「短いか」
「手続きとしては短い。現場としては長い」
「どちらを選ぶ」
真琴は紙片を左右へ並べた。
「私は……午後一時を支持します。ただし、遠隔、台所、帰路、医療の時間制約を十五分ごとに報告し、必要なら短縮する」
「変更者」
「議長。ただし異議を公開」
「採用する」
白戸が立った。
「反対します」
「理由」
「僕へ委任した人は、来られないから委任した。今から二時間で本人へ答えを求めれば、来られないことを罰にします」
「答えを強制しない」
「答えなければ、委任継続ですか」
「今の規則では」
「では、僕の票は残る」
「質問へ答えられればな」
「質問?」
「本人が代理人へ聞く時間を作る。何を食べるか。どこへ帰るか。白布を何日認めるか。おまえが知らないことは、本人へ返す」
「僕は委任内容を読んでいます」
「紙にない質問が出る」
「議題外です」
「人は議題だけで生きてない」
「それを全部代理人へ求めるなら、委任という制度が成立しません」
「全部じゃない。委任した判断に必要なことだ」
「誰が必要と決める」
「本人」
白戸は右薬指を左手で伸ばした。
「本人は、決めたくないから僕へ任せた」
「決めたくない、も本人の声だ」
「なら任せたままでいい」
「任せたくなくなった時、返せるか」
「今の規則では、代理人の同意が」
「おまえは同意する?」
白戸は答えなかった。
議場の外で、何かが割れた。
窓ガラスではない。木箱の乾いた破裂音。
続いて怒号。
「東受付を閉じろ!」
「番号が重複してる!」
「嘘だ、簿を見せろ!」
轟が用具口へ向き直る。
迅はすでに立っていた。
凱の身体も椅子から浮きかけた。
左膝に鋭い痛み。
議場の視線が一斉に凱へ集まる。
命令を待っている。
「轟。入口を——」
言いかけて止まる。
入口の責任者は誰だ。
朝、迅が扉を外した。受付運用は委員会。警備は轟と現場係。帰路は澪。
凱が一声で全てを上書きすれば速い。
速い命令は、責任の線を消す。
「轟。現場判断を報告」
凱は言い直した。
「東受付、外から十二。中に八。武器、棒四。目的、受付停止」
「対応可能か」
「投票箱触らせなきゃ」
「負傷者」
「まだなし」
「迅」
「俺は入口へ行く」
「命令ではない」
「知ってる」
迅は走った。
右腕を吊り、左手首を庇いながら、それでも速い。出口を見てから最短ではなく、戻りやすい壁沿いを選ぶ。
「議場を閉鎖しますか」
元体育教員が訊く。
「しない。出たい者を止めない。戻る者は再確認」
「外が危険です」
「危険情報を入口へ掲示。帰路誘導へ連絡。残るよう強制しない」
澪の低い声が遠くから復唱した。
「議場閉鎖なし。退出自由。再入場は再確認。帰路情報掲示」
凱は水を飲みたかった。
決断後は結果が出るまで飲まない癖がある。
小麦が台所から湯飲みを投げた。
投げた、というより、前列の人が順に渡し、最後の一人が凱の机へ置いた。
「飲んで」
「まだ結果が」
「脱水で判断遅くなったら、王様の癖に負けたことになる」