第40話 第六章「王の席」後編
「王ではない」
「じゃあ座って水飲める」
凱は飲んだ。
薄い麦茶だった。
椅子に座ったまま水を飲むのは、立って命令するより難しかった。
午前十一時十九分。
外の衝突は続いている。
固定機の補助鏡に、人影が横切る。轟が用具口で一人ずつ止め、迅が鉄柵を押し返す。警棒の音。床を擦る靴。誰かが「白戸の命令だ」と叫び、別の誰かが「命令されてない」と叫び返した。
白戸は議場内にいる。
「止めろ」
凱が言った。
「誰へですか」
白戸が訊く。
「おまえの支持者へ」
「僕は命令していません」
「支持を受けた者は、都合の悪い行動だけ無関係と言えない」
「迅さんの支持者が扉を外した責任を、迅さんが全部負いますか」
「本人が外した」
「白布を巻いた人が、僕の受付を壊しています」
「誰」
「見えません」
「なら支持者と決めるな」
「あなたも、外の人を僕の支持者と決めました」
凱は口を閉じた。
白戸は正しかった。
腕章や食券だけで所属を決めれば、白布を巻いた者を迅の部下と呼ぶのと同じになる。
「訂正する」
凱は言った。
「外の侵入者十二名。所属未確認。白戸、おまえが止められる者がいるなら、止めるよう頼めるか」
「頼めます」
「見返りは」
「僕の委任票を先に受理してください」
議場がざわめく。
真琴が白戸を見た。
「それは、暴力停止と票の交換です」
「僕が暴力を命じていないなら、交換ではありません。影響力を使う対価です」
「言い換えても条件は同じです」
「政治は、影響力を使う順番でしょう」
「人が殴られている時に」
「だから早くできます」
白戸の声が真琴に似ていた。
真琴は眼鏡を外した。
一メートル先の白戸の顔も、輪郭しか見えないはずだ。
「私の言葉を使わないでください」
「正しければ、誰の言葉でも」
「正しさの所有ではありません。責任の所在です」
「僕が言いました」
「借りた調子で」
白戸の表情が消えた。
凱は椅子の肘掛けを握った。
ここで白戸の委任を受理すれば、外の何人かは止まるかもしれない。
止まらなければ、白戸の影響力がないと分かる。
どちらでも会議は進む。
合理的だった。
合理性は、ときどき人質に一番よく似る。
「受けない」
凱は言った。
「なら、外の人を見捨てる?」
「止めるよう頼め」
「僕の利益は」
「自分の支持者かもしれない人が負傷しない」
「それは僕だけの利益ですか」
「違う」
「では、僕だけに負担を求める?」
「俺も負う。議長席を降りる」
「何をするんです」
「入口へ行く」
「議場はまた混乱します」
真琴が言う。
「副議長を」
「決まっていない」
「では降りないでください」
「人を止めるのは、俺の得意だ」
「だから、別の人が得意を使っている。迅と轟です」
真琴は眼鏡を戻した。
「あなたの仕事は、今ここで降りないことではありません。座ったまま、権限を狭めることです」
凱は真琴を見た。
王政復古を望んでいた男が、王を椅子へ縛り、同時にその権限を削ろうとしている。
「白戸」
凱が言う。
「俺は取引しない。だが、おまえの支持者かもしれない者へ、頼む言葉を選べ。七瀬が記録する。従った者の票を、おまえの票とは数えない」
「従わなければ」
「おまえの責任とも数えない。ただし、止めようとしたかは残る」
「僕の損だけ残る」
「違う。おまえの選択が残る」
白戸は袖の札を数えた。
何枚あるかを確かめる時の癖。
次に相手の姿勢を真似るはずだった。
しかし、白戸は誰にも似ない姿勢で立った。
右肩が少し低く、左足のつま先が内へ向き、右薬指を左手で支えている。
「僕は、今回は」
文頭で詰まった。
「受付を止めるために入った人へ頼みます。出てください。会議の委任は、会議の中で扱います。外で勝っても、僕の票にはしません」
七瀬が音声を入口の拡声筒へ送る。
外の怒号の中へ、白戸の声が流れた。
一度。
二度。
三度。
すぐには止まらない。
命令ではないからだ。
やがて、補助鏡の中で一人が棒を下ろした。
次に二人。
四人はなお前へ出る。
轟が一人ずつ押さえる。
迅は一歩、二歩と退きながら、誰にも最後の一撃を返さない。
止める言葉が効くまで、身体が時間を稼ぐ。
「白戸依久の要請により、侵入者十二名中五名が退出。四名は継続。三名は所属と目的を説明中」
七瀬が読む。
白戸は座った。
自分の席ではない。
自分へ委任した二十席の間の通路へ、膝を折って座った。
「議長」
元体育教員が言う。
「委任の扱いを」
凱は机上の紙を見た。
「全委任状を、席番号の座布団へ置く。代理人は持たない」
真琴が書く。
「法的効果は、現時点で整理上の移動のみ」
「そう記録しろ」
「撤回・質問窓口、午後一時まで」
「本人の回答がない場合、現状維持。だが代理人は、本人からの質問へ答えられない範囲を使えない。条文を探せ」
「あると決まっている?」
「なければ提案する」
「採決前に手続き改正まで」
「今日決めるのは白布だけじゃない」
「議題外です」
「委任を扱えなければ、議題へ入れない」
真琴は反論しようとし、やめた。
「了解しました。探します」
凱は白戸を見る。
「おまえの紙も置け」
「拒否したら」
「受理しない」
「議長権限で?」
「整理上の条件として」
「都合よく狭めますね」
「狭める練習中だ」
白戸は二十通を一枚ずつ、空いた座布団へ置き始めた。
凱も五通を持って椅子から立つ。
左膝が伸びるまで一拍かかった。
議場がまた静かになる。
「暫定議長は」
真琴が言う。
「まだ正午までです。席を離れると」
「議事を休止。十一時三十分から食事と委任確認。十二時に議長を再承認」
「あなたは再び座る?」
「選ばれれば」
「断らない?」
「今は断らない」
凱は自分宛ての委任状を、五つの空席へ戻した。
紙は人より軽い。
空席へ置くと、その軽さがよく見えた。
白戸が言う。
「優柔不断を、返却と呼ぶんですね」
「違う」
「何が」
「優柔不断は、決めない責任を隠す。俺は午後一時まで決めないと、今決めた」
「その間に人が帰る」
「帰る権利も残す」
「会議が壊れる」
「壊れないよう、飯と帰路を作る」
「全部うまくいくと思ってる?」
「思っていない」
「なら、なぜ」
凱は高い椅子を見た。
座面には、自分の体温が残っている。
「失敗した時、誰の声を省いたか分かる方を選ぶ」
名言にするつもりはなかった。
白戸も笑わなかった。
休止を告げる鐘は、凱の胸にある割れた鐘ではなく、台所の鍋蓋だった。
小麦が三度鳴らす。
「百人前。休憩十五分。食べる人からじゃなく、作った人から交代!」
百の座布団に、二十八枚の委任状が置かれていた。
紙を持つ者はいない。
それでも、まだ誰にも返ってはいなかった。