第41話 第七章「台所の票」前編
七月二十七日 午前十一時二十八分
政治家は空腹を演説に使う。
料理人は空腹が何分後に人を怒らせるか知っている。
旧第二体育館の調理室には、百二十人前の食事を作れる設備があった。
ただし、《作れる》というのは、米、水、燃料、鍋、包丁、洗い場、食べる器、作る人、作った人が座る時間の全てが揃った時だけ使える言葉だ。
午前十一時二十八分の時点で、揃っているのは水と鍋だった。
「米、残り十二・六キロ」
土門小麦は左手で計量箱を持ち上げた。
「豆、三・二。乾燥野菜、一・一。塩、九百グラム。梅干し、百二十個。燃料、強火なら三十五分。弱火で一時間十二分」
「朝の台帳と違う」
調理補助の女が言った。
「届く予定の米二十五、豆九、燃料二缶が南門で止まってる」
「何で」
「納入確認票に、旧共同宿舎の承認印が要るって」
「注文した時はいらなかった」
「今朝変わった」
「変えた人」
「倉庫担当は、白戸くんの調整役って」
小麦は木べらを作業台へ置いた。
怒って木べらを握ると、相手の手首を打ちたくなる。置けば両手で帳面を開ける。
台帳には、米二十五キロの横へ《到着予定七時/未着》とある。支払いは前金半分。残りは会議経費。運搬人二名の工賃も計上済み。
「白戸を呼ぶ」
「敵を台所へ入れるの?」
「敵かどうかは皿洗いの後に決める。今は納入印」
「先に鍋を火へ」
「献立を変える」
小麦は壁へ貼った《昼食案》を剥がした。
《白米、豆の煮込み、乾燥野菜の汁、梅干し》
赤鉛筆で全てに線を引く。
《薄粥。炒り豆粉。塩漬け大根一切れ。希望者のみ梅干し》
「それじゃ足りない」
「腹持ちは落ちる。でも十五分交代で食べられる。煮込みは配膳が遅い。米は粥で三倍。豆は粉にして後から入れる」
「みんな怒る」
「怒る分の体力は残る」
「料理人として言っていいの、それ」
「料理人だから言う」
小麦は鍋蓋を二つ並べた。
一つは大鍋用。もう一つは、戦う時に使うへこんだ蓋。
今日はどちらも鍋を守るために使う。
「強火十二分。その後、火を落として蓋。余熱二十五。二鍋ずらして炊く。洗い場は食べた人が自分の椀を一度すすぐ。油なし。調理者は七人、三人ずつ交代。最初に食べるのは朝六時からの三人」
「小麦は」
「味見」
「休憩」
「あと」
「鍋帳に何て書く」
補助の女が炊事労働台帳〈キッチン・クロック〉を開いた。
小麦は彼女を睨んだ。
「意地悪」
「小麦が作った欄」
「作った人を殴る欄じゃない」
「役に立ってる」
「あと十七分で休む」
「時刻を書く」
「十二時ちょうど」
「今十一時三十分。三十分ある」
「……十一時四十七分」
「よし」
自分が休む時間は、値切るのが一番うまい。
白戸は二分後に来た。
議場から自分の声を持ってきたのではなく、誰かの声を肩へ引っかけたままだった。
「納入について確認があると聞きました」
真琴の明瞭な言い方だった。
「自分で話して」
小麦が言う。
「話しています」
「誰みたいに」
白戸は袖の札を数えた。
「……僕は、今回は、納入を止める指示をしていません」
「止めた人は」
「旧共同宿舎の倉庫担当です」
「理由」
「会議経費の残金が確定していない。食材が全参加者へ渡る保証もない。白戸側の支援物資だけ使われ、白戸側の委任が否定される可能性がある」
「食べ物に側はない」
「倉庫にはあります。誰が集め、誰が運び、誰が次を受け取れるか」
「じゃあ工賃と原価を請求して」
「お金だけでは次の倉庫が開きません」
「票が要る?」
「認証された窓口が要ります」
「今日、その窓口を決めるための飯を止めてる」
「止めたのは僕では」
「その文、もう冷めた」
小麦は空の米袋を白戸へ渡した。
「倉庫担当へ持っていって。承認印をもらう。条件は三つ。食べた人の委任状態を問わない。残りの支払いは公開帳。運んだ人の工賃は今日払う」
「倉庫側に利益がない」
「米の代金」
「政治的な保障が」
「米は政治をしない」
「倉庫はします」
「するなら、食べ物の外でやって」
「そんなふうに分けられないから、白冠の配給が必要だった」
「分けられない、じゃない。分けると誰かが困る。誰」
「旧共同宿舎の六十三人」
「全員?」
「食料担当三人。次の仕入れ交渉をする二人。護送をする四人。寝床の費用を管理する一人」
「じゃあ十人。残り五十三人を盾にしない」
「十人が止まれば五十三人が食べられない」
「だから十人の工賃と仕入れ先を出す。票は出さない」
「それを決める権限が、小麦さんに?」
「今日の昼を作る権限」
「会議の食料を独占している」
白戸の声が低くなった。
借りていない声だった。
小麦は正面から受けた。
「そう。私が止まったら百二十人食べられない。だから怖い」
「なら僕たちの仕組みと同じです」
「同じところがある」
白戸が目を見開いた。
「違うって言わないんですか」
「私も、自分が必要だから正しいって思う時がある。今日の献立も、私が決めた」
「では、委任を」
「だから鍋帳に休憩と決定者を書く。嫌なら別の鍋を作れる。あなたの委任は、嫌でも食券がなくなる」
「なくさないと約束した」
「白戸一人で?」
「……倉庫担当と話します」
「一緒に話す。音声つないで」
「僕が代わりに」
「本人と」
「相手は交渉が苦手です」
「あなたが得意を借りると、相手はずっと苦手のまま」
白戸の右薬指がわずかに曲がった。
「急いでいる時に、教育の話をしますか」
「急いでる時に、票を取るよりまし」
小麦は壁時計を見た。
「十一時三十四分。あと十三分で私は休む。十二時までに米が来なければ、薄粥で終わり。来ても献立は戻さない。遅れた食材は夜の持ち帰りへ回す」
「なぜ戻さない」
「途中で豪華にすると、先に薄いのを食べた人が損になる」
「同じ量へ足せば」
「食べ終わった人を会場に残すことになる。帰る人の時間を奪う」
「全部、分けるんですね」
「混ぜるのは鍋だけ」
白戸は米袋を受け取った。
「僕は、今回は、票を条件にしない承認を、倉庫担当へ頼みます」
「記録する」
「失敗したら」
「薄くする」
「あなたは責任を」
「取る。薄いって百人に言われる」
「軽い責任ですね」
「料理人にとって、薄いは重い」
白戸は分からない顔をした。
分からないまま、走っていった。
午前十一時四十一分。
燃料弁が閉まった。
第一鍋の水が沸騰へ入る直前だった。
火が一斉に細くなり、青から橙へ変わって消える。
「元栓!」
「外!」
調理補助が扉へ走る。
小麦は行かせなかった。
「鍋から人を減らさない。蓋!」
右手で大鍋の縁を押さえ、左手で蓋を滑らせる。蒸気を逃がさない。二つ目の鍋はまだ五十度。第一鍋の下へ鉄板を入れ、残った熱を横へ分ける。
「薪は」
「体育倉庫に古い跳び箱」
「塗料がある。燃やさない」
「炭、三袋」
「屋外用。煙が議場へ行く」
「燃料弁を開ければ」
「誰が閉めたか分からないうちは、漏れ確認。火を点けない」
料理は、火をつける技術より、つけない判断で人を守ることがある。
小麦はへこんだ鍋蓋を盾のように持ち、元栓室へ向かった。
足底が痛む。
右前腕の古い火傷が、蒸気の熱で赤く浮く。
廊下には二人いた。
白い腕章。片方は工具を持ち、もう片方は元栓室の前へ立つ。
「点検中です」
「誰の点検」
「会場保全」
「ガス漏れ?」
「可能性があります」
「検知した?」
「安全のため予防的に」
「閉めた時刻」
「今」
「何分」
「分かりません」
「元栓へ触った手を離して。換気。石鹸水。点火禁止。点検者名を書く」
「あなたに命令権は」
「厨房安全の責任者」
「議場の秩序班が確認します」
「秩序班はガス資格ある?」
「安全なら誰でも」
「安全を知らない人ほど、その言葉を無料で使う」
工具を持つ男が前へ出た。
「戻ってください」
「鍋が止まってる」
「会議を続けるためです」
「飯を止めて?」
「長引かせているのは、委任を認めない側だ」
「私は鍋側」
「同じだ」
「違う。あなたにも食べさせる」
「いらない」
「食べない選択はある。止める権利はない」
男が小麦の肩へ手を伸ばした。
小麦は鍋蓋を立てる。
掌が金属へ当たり、乾いた音がした。木べらの先で男の手首を下から持ち上げる。打たない。元栓室の戸から手を遠ざける。
もう一人が背後へ回る。
小麦は蓋を投げなかった。
大きく半歩引き、廊下の中央へ身体を置く。二人が同時に通れない幅を作る。
「小麦!」
澪の声が左から来た。
白い救助索が床を滑り、元栓室の取っ手へ巻きつく。
「十二時前。帰路班の燃料確認。点検者、復唱」
「会議の——」
「氏名」
澪の声は低く、短い。
男は反射的に名乗りかけた。
白戸が廊下の端に現れる。
「やめてください」
借りた声ではなかった。
二人が振り返る。
「依久、こいつらが食料を使って、こっちの票を」
「やめて。元栓を開けて。点検は厨房と一緒に」
「でも、委任は」
「会議の中で扱うと言いました」
「食材を止めれば早く」
「僕は、今回は、それを頼んでいない」
「俺たちはあんたのために」
白戸の肩が男と同じ位置へ上がりかけた。
彼は自分で下げた。
「僕のためなら、僕が嫌だと言ったことを増やさないで」
男の顔に傷ついた色が浮かぶ。
支持とは、従うことだけではない。
相手が望んだ物語の中へ、本人を閉じ込めることもある。
「白戸が弱いから負けるんだ」
もう一人が言った。
「王なら、こんな時に食わせる側を取る」
廊下の奥で凱が立っていた。
白い外套の裾は切られ、左膝の装具が見える。
「王だった時も、厨房の元栓を勝手に閉める命令は出していない」
「陛下——」
「その呼び方を使うなら、俺の過去の命令違反も覚えろ。配給停止は、医療隔離か汚染確認の時だけだ」
「今は会議の汚染だ」
「言葉でガスは漏れない」
凱が一歩進む。
誓痕は光らない。
男たちは道を空けた。
小麦はそれを見て、少し腹が立った。
同じことを自分と澪が言った時には動かなかった。
凱が来ると、身体が先に従う。
便利で、危険だ。
「元栓を開けるのは私」
小麦が言った。
「凱は触らないで」
「分かった」
「男二人は、点検を見て。逃げない。名前を書く」
「拒否したら」
「昼食なし、じゃない。そういう交換はしない。受付へ異議として出す」
「食べさせるのか」
「食べた後に皿洗って」
小麦は石鹸水を接続部へ塗った。
泡は膨らまない。
臭気なし。
元栓を少し開き、圧を確認。さらに開く。
厨房から、火の戻る低い音がした。
「燃料停止、十一時四十一分から四十八分。七分」
澪が記録する。
「献立への影響」
「第一鍋、三分遅れ。第二鍋、六分。薄さ、一割増し」
「一割って分かる?」
白戸が訊いた。
「食べれば」
「名言みたいに」
「ただの味見」
午前十一時四十七分。
小麦は休憩した。
自分で決めた時刻だった。
調理室の隅、逆さにした米箱へ座る。足を床から少し浮かせ、土踏まずへ冷たい瓶を当てる。味見用の粥を小椀に一杯。梅干しは入れない。低血糖を避けるため、炒り豆粉を多めにした。
「三分で戻る」
「十五分交代」
補助の女が言う。
「鍋が」
「私が見る」
「味」
「薄ければ薄いって言う」
「焦げたら」
「私の名前を書く」
小麦は不機嫌になった。
世話をされると借りを作った気になる。
「七分」
「十五」
「十」
「鍋帳に、値切ったって書く」
「十二」
「決まり」
小麦は粥を食べた。
薄い。
温度は七十度。豆粉の香りは残る。塩は後から一人ずつ振ればよい。米粒はまだ芯があるが、配膳開始までに開く。
自分がいなくても、鍋は回っている。
安心より先に、寂しさが来た。
それを認めると粥が少し苦くなった。
調理室の壁には、遠隔参加用の受話器が一つ増設されている。
議席を持つ調理者は小麦を含め四人。会議中ずっと厨房にいれば、本人出席していても発言できない。休憩の順番を待っている間に議題が進む。
「台所の四人を遠隔に切り替える」
真琴が入口から言った。
「鍋帳を在席確認へ使えます。入室、作業、休憩、退室の時刻があり、二名以上の相互署名がある」
「鍋帳は労働の記録」
小麦が言う。
「議席の道具にしないで」
「転用ではありません。本人が会場内の別区画にいる証明として参照する」
「政治に使うと、休憩時間まで公開される」
「公開範囲を出席確認に限定します」
「誰が見る」
「議事係二名。異議が出た時は、本人同意の範囲で」
「同意しなかったら」
「音声証者二名へ切り替える」
「面倒」
「はい」
「それ、いいことみたいに言わないで」
「いいとは言っていません。選べると」
真琴は鍋帳へ手を伸ばさず、小麦の前へ確認票を置いた。
「私は、鍋帳のうち氏名、作業開始、休憩、現在地だけを出席確認へ使うことへ同意します。賃金、体調、献立判断は非公開」
「撤回は」
「いつでも。ただし撤回後の出席確認は別方法が必要」
「四人とも、自分で選ぶ」
「当然です」
「前なら、規則にあるってまとめた」
「前なら、台所に議席があると考えませんでした」
真琴は言った。
「料理を作る人は会議を支える職員で、会議に参加する人とは別だと」
「別じゃない」
「はい」
「遅い」
「手続きは」
「あなたが気づくのが」
真琴は謝罪文を三つ考える顔をした。
「遅れました」
最も短いものを選んだ。
小麦は確認票へ左手で署名した。
正午。
昼食の配膳が始まった。
百二十個の椀へ、同じ線まで薄粥が入る。炒り豆粉は小匙一。塩漬け大根は一切れ。梅干しは希望者だけ。遠隔参加の四人へは、その場の食事を妨げない時間に議題要約を送る。
食べる順番は、調理者、帰路時刻の早い者、治療や投薬のある者、子どもを預けた者、その他。
「議長からじゃないのか」
誰かが言った。
「椅子は腹減らない」
小麦が返す。
凱は最後の方へ並んだ。
文句を言わない代わりに、列の曲がりを直していた。
迅は列そのものへいない。
「迅は」
「入口」
タマキが答える。
「食べた?」
「塩むすび一個」
「いつ」
「朝」
「今は」
「十二時」
「持っていって」
「料金」
「迅の皿洗い十五枚」
「本人に確認」
「食べる前に?」
「誰から誰へ何のため」
「私から迅へ。倒れないため。皿洗いは後で交渉」
「それなら運ぶ」
タマキは蓋つき椀を鉄箱へ入れた。
小麦は最後の列に白戸を見つけた。
彼は食券を持っていない。
白い券は袖から全て外され、議場の委任状と一緒に席へ置かれている。