第131話 第四章「観客席の誓い」前編
十一月二十二日 午前八時二十六分
読める文章は、理解できる文章ではない。
理解できる文章は、断れる文章とも限らない。
朽葉真琴は、赤い入場券を六列に並べた。
一般席。
家族席。
招待席。
立見席。
商店組合席。
配給交換席。
表の絵柄は違う。
裏の十九行は同じだった。
南環市場の共同食堂は、朝の仕込みで騒がしい。包丁。鍋。注文。外では祝祭の飾りを吊るす金槌が鳴る。
一文字巴は人工内耳を着けていない。
音の代わりに、机の震えと人の口を見ている。顎で揃えた黒髪。白い手袋の指ごとに、今日は黒い読点が描かれていた。右人差し指だけ動きが浅い。先月の反証で残った硬直を、左手の速度で補っている。
真琴は十四行目を指した。
「本券の使用者は、拍手、唱和、起立その他の肯定的反応を、本演目ならびに本演目が示す統治案への支持として収集・集計・提出することに同意する」
巴は口の動きを読み、黒板へ書く。
《何への支持?》
「演目。並びに、演目が示す統治案」
《統治案の本文》
「券面にはない」
《台本》
「観客へ事前配布されない」
《要約》
「宣伝には《八旗の協調と若者自治を描く》とだけある」
巴は読点を描いた親指で、十九行目を押さえた。
《撤回》
「規定なし」
《途中退出》
「安全規定により、幕間以外の主扉利用を制限。非常時を除く」
《非常時を誰が決める?》
「劇場管理者」
《観客が帰りたい、は?》
「非常時ではない」
巴は目を閉じた。
沈黙は三秒。
真琴は数えない。
七瀬なら数える。真琴は、その違いを以前は無駄だと思っていた。今は、誰が何を数えるか自体が規則になると知っている。
巴は書く。
《条項は隠れていない》
「同意する」
《難しい》
「同意する」
《堂々と、分からない》
「最も争いにくい形だ」
巴が眉を上げる。
《争う?》
「法的に、という意味だ」
《観客は裁判へ来ない》
「分かっている」
《では、最初の主語は観客》
真琴は眼鏡の左つるを上げた。
「観客が理解していないと確認できれば、この条項は――」
巴の手が止める。
小さい。
怒っている時の、精密な手話だった。
《確認を試験にしない》
「試験ではない。理解確認だ」
《説明できない人を、同意能力なしにする?》
「しない」
《あなたの言葉で説明できる人だけを、正しい観客にする?》
「しない」
《なら、質問の形から作る》
「時間がない」
《時間がないと、あなたは正確さを刃にする》
真琴は反論しようとした。
接続詞が三つ、頭に並ぶ。
しかし。
ただし。
そもそも。
どれも言わず、紅茶を飲んだ。
冷めていた。
「質問を作る」
巴はうなずいた。
午前十時十二分。
祝祭券売所の前には、五十四人が並んでいた。
南環市場の広場。
串焼きの煙。
古着の山。
紙の王冠を被った子ども。
白王と獣の顔を両面へ刷った団扇。
公演を政治だと思って来る者より、冬前の祭りだと思って来る者の方が多い。
真琴と巴は、列から外れた場所へ小さな机を置いた。
札には、巴の字で書かれている。
《券の裏を一緒に読みます》
《料金なし》
《買わなくてもよい》
《答えなくてもよい》
最後の一行は、真琴が三度書き直した。
最初は《質問への回答は任意》だった。
巴に消された。
次は《回答拒否による不利益なし》。
また消された。
三度目で、今の形になった。
「平易すぎて法的効果が曖昧だ」
真琴が言う。
巴は書く。
《机の札。契約ではない》
「札だから正確さを下げていい理由にはならない」
《人が立ち止まる前に読める》
「それは認める」
《今、褒めた?》
「事実認定だ」
最初に来たのは、旋盤油の匂いがする男だった。
「相談かい」
「券面確認です」
真琴は一般席券を示す。
「この十四行目を、どう理解しましたか」
男は読む。
「拍手を数える」
「何への」
「芝居の人気」
「統治案への支持、とあります」
「ああ、若い連中で街を回すってやつだろ」
「誰が、どの期間、どの権限で回す案ですか」
「知らん」
「では支持できますか」
「できるかどうか知らん」
「なら拍手を――」
男の顔が固くなる。
巴の左手が、真琴の視界へ入った。
《質問が速い》
「時間を取ります」
真琴は言い直す。
「芝居を楽しんで拍手した時、その音を政治案への支持として数えてよいと思いますか」
「それは嫌だな」
「なぜです」
「嫌だからだ」
「理由をもう少し――」
巴が止める。
《理由は不要》
男は巴の手話を見ていない。
真琴が口頭で伝える。
「理由は言わなくて構いません」
「じゃあ言わん」
「記録してよいですか」
「名前なしなら」
「時刻と券種のみ」
「いい」
真琴は帳面へ書いた。
《一般席、十時十六分、演目拍手の政治利用を拒否。理由記録なし》
巴が覗き、最後の四字を消す。
《理由記録なし》ではなく、《理由を求めず》。
「違いは」
真琴。
《記録がないのか、こちらが取らなかったのか》
「……認める」
二人目は、紙の王冠を被った七歳の少女と母親だった。
少女はカナタを見たい。
母親は家族席の値引きを使いたい。
十四行目を読む間、少女は母の袖を引いた。
「拍手したら王様になるの?」
「誰が」
真琴。
「白い人」
「なりません」
「じゃあ何になる?」
「支持の集計です」
「しじって何」
「賛成」
「何に」
「演目が示す統治案に」
「とうちあんって何」
真琴は答えを止めた。
券面にも、宣伝にも、子どもへ説明できる本文がない。
「分かりません」
少女が笑った。
「眼鏡なのに?」
「眼鏡は知識を増やしません」
「何を増やす?」
「見える範囲」
「じゃあ、見えないんだ」
「はい」
真琴は、自分が分からないと答えた。
母親が券を裏返す。
「でも、もう買ったんです。返せます?」
「券面上、開演四十八時間前まで七割返金。今日は期限内です」
「娘は行きたい」
「なら、行く選択もあります」
「拍手しなければいい?」
「周りが拍手する中で、七歳の子へ手を止めさせますか」
言ってから、真琴は自分の質問が残酷だと気づいた。
母親の顔に、防御が出る。
「私が悪いみたいですね」
「違います。私は――」
接続詞が増える。
「つまり、制度設計上の負担が、保護者個人へ転嫁されていると指摘したのであって、あなたの選択を責めたのではなく、ただし実際には周囲の同調圧力が――」
巴が黒板を真琴の前へ立てた。
《謝る》
「質問の形が悪かった。すみません」
真琴は短く言った。
母親はすぐには許さない。
それでいい。
「途中で帰れますか」
「現在の規定では、幕間以外は係員へ申告が必要です」
「子どもが怖がったら」
「非常口を使えるべきです」
「べき、ですか」
「現状は、確認中です」
少女が紙の王冠を外した。
「帰る道、見てから決める」
母親はうなずいた。
返金もしない。
無条件に参加もしない。
保留という選択が、券面にはなかった。
真琴は帳面へ新しい欄を作った。
《まだ決めない》
三人目ではなく、二十人目に来た老女は、券を持っていなかった。
黒い喪布を髪へ巻き、古い白冠区の配給章を胸に付けている。列へ並ばず、机の横へ椅子を自分で運んできた。
「私は白王を支持するよ」
座る前に言った。
真琴は帳面を開く。
「演目の白王ですか。獅堂凱本人ですか。統治案ですか」
「全部訊くから、若い法律屋は嫌われる」
「分けなければ、答えを取り違えます」
「取り違えるのも人間だよ」
「制度へ入れる時は分けます」
老女は券売所の紙王冠を見た。
「二年前の冬、あの子はうちの通りへ麦を回した。遅かった。量も足りなかった。隣の爺さんは怒鳴った。あの子は翌朝また来て、怒鳴られた分まで帳面へ書いた」
「それを支持する?」
「忘れなかったことをね」
「では、統治案は」
「知らない」
「知らなくても、本人を信頼するから支持する?」
「一冬なら」
「期間が券面にありません」
「だから、そこへ書きな」
老女は巴の黒板を指した。
《あの子を一冬信じる。椅子を一生信じるとは言っていない》
巴が書く。
老女は頷いた。
「王様は死ぬ。椅子は残る。残った椅子へ、死人の拍手を座らせるな」
真琴は言葉をそのまま帳面へ移そうとして、止めた。
「記録してよいですか」
「名前も」
「後で政治宣伝へ使われる可能性があります」
「使わせないために、あんたたちがいるんじゃないのかい」
「完全には防げません」
「なら、完全じゃないと書きな」
巴が笑った。
真琴は名前を聞き、公開範囲を一行ずつ確認した。老女は白王を支持する。統治案は一冬に限る。期限後は再確認。拍手は演目の評価として別に数える。
賛成は、反対より単純ではなかった。
老女は帰り際、真琴の冷めた紅茶を見た。
「温かいうちに飲めない人間へ、街全体は任せないよ」
「基準が不合理です」
「だから一冬だ」
正午までに、三十七人と話した。
政治案を知って支持する者、五人。
知らないが信頼する旗の推薦だから支持する者、四人。
演目への拍手だけを政治へ使われたくない者、十二人。
気にしない者、七人。
説明を聞いても決めない者、六人。
答えない者、三人。
数字は、三十七人を分かった気にさせる。
真琴は集計表の上へ、氏名なしの個別メモを重ねた。
旋盤工。
七歳の少女。
王政へ賛成する老女。
カナタの蹴りだけ見たい学生。
祝祭券を食事券と交換したため、行かなければ夕食分を損する家族。
客は、観客という一人の人間ではない。
「中止を申入れる」
真琴は言った。
巴は答えず、券売所の列を見る。
朝より増えている。
百人近い。
串焼き屋は公演時間に合わせて仕込んでいる。宿は満室。遠い地区から来た者は帰りの便を予約している。
《今日、中止を発表したら》
「返金。交通振替。宿泊補償。出店損失。必要なら広場で説明会」
《誰が説明》
「祝祭実行局と紅牙座」
《拒否したら》
「空白の旗が事実を公開する」
《映像》
「七瀬」
《人が集まる》
「集まる」
《怒る》
「可能性がある」
《劇場前。千席。出入口》
「混雑する」
《中止も、安全ではない》
真琴は唇を噛んだ。
「だから続ける?」
《違う》
巴は黒板へ、四つの枠を描いた。
《中止》
《上演》
《退出》
《保留》
《今、二つしかないと思っている》
「カナタと同じことを言うな」
《彼が言った?》
「断り方も舞台だと」
《演出は嫌い》
「だが、今は正しい」
《正しい演出が、一番危険》
「同意する」
真琴は新しい紙を出す。
「公演を開いたまま、退出と保留を作る」
《どうやって》
「まず建物」
《次に言葉》
「逆では」
《扉が開かなければ、言葉は案内でなく嘘》
真琴は紅茶の残りを飲んだ。
もう冷たい。
「轟を呼ぶ」
十一月二十三日 午後三時七分
八旗祝祭劇場の搬入口は、客席の裏ではなく舞台の裏にあった。
幅四・二メートル。
高さ三・八メートル。
貨物線の名残で、外の緩い坂へつながっている。
ただし、今は巨大な背景車が二台、道を塞いでいた。
一台は《洪水の街》。
もう一台は《白王の宮殿》。
どちらも車輪付き。見た目は壁だが、裏には骨組み、照明線、雨管がある。
轟は宮殿の裏へ耳を当てた。
二度、叩く。
「上が重い」
舞台機構主任が言った。
「金箔板。見た目より軽い」
「見た目より、は数字じゃねえ」
「三百二十」
「台車込み?」
「四百八十」
「床の勾配」
「一・五度」
「止め輪は」
「八」
「六しか見えねえ」
「内側に二」
「火事で誰が外す」
「機構班」
「何人」
「四人」
「今日いるのは」
「二人」
「本番は」
「四人」
「休んだら」
「代替二人」
「肩を痛めたら」
「何が訊きたい」
主任が苛立つ。
轟は左肩を上げず、右手で背景車の下へ灯りを入れた。
「人が減っても開くか」
「開ける。時間が倍」
「何分」
「通常九十秒。二人なら三分」
「千人が待つ」
「一斉には出せない」
「一人ずつなら」
「列を作る場所がない」
轟は床を見る。
搬入口の手前に、衣装箱が十二。雨管の予備が三束。折り畳み階段が二基。すべてを舞台側へ寄せれば、幅一・二メートルの通路ができる。
「ある」
「本番中に動かす?」
「開演前に片づける」
「座長が許さない。背景転換の予備路だ」
「客の予備路でもある」
「劇場は客席から入って、客席から出す」
「貨物は別だ」
「客を貨物扱いするな」
「貨物より、客の方が自分で歩く」
主任は黙った。
轟は床の古い黄色線を指した。
「ここ、元の歩行帯」
「貨物員用」
「手すり穴が残ってる」
「撤去した」
「仮設できる」
「誰が」
「俺。工賃は取る」
「空白の旗が払う?」
「依頼者を決める」
「決まってないのに作るな」
「正しい」
轟は工具を戻した。
以前なら、話の途中で手すりを作り始めていた。
主任が少し意外そうに見る。
「壊さないのか」
「壊してほしい?」
「大男が来るって聞いた。壁ごと開けるかと」
「壁は客より遅い」
「何が」
「逃げるの」
轟は完全な文で言った。
「この搬入口は、背景車を二台移動し、衣装箱を退避し、仮設手すりと灯りを置けば、個別退出路に転用できる。ただし、一分あたり二十人を超えて流さない。車椅子と歩行補助具は別の幅が必要だ」
真琴は速記する。
「用途変更の申請は」
主任が訊く。
「仮設の安全通路。劇場管理者の承認が要る」
「座長か」
「建物の管理者は祝祭実行局です」
「逃げるな」
「誰が」
「責任」
主任は、舞台上の方を見る。
遠くで乱馬の声がする。
照明を一段上げろ。
回転を半拍遅らせろ。
カナタの着地へ音を合わせろ。
この建物で、実際に決めている声だ。
「座長が駄目と言えば、班は動かない」
「あなたは」
真琴が訊く。
「何だ」
「安全上必要と判断した場合、動く権限がある?」
「火災、地震、構造故障なら」
「観客が自分の意思で退出したい場合は」
「緊急じゃない」
「緊急でない退出路を作る権限は」
「ない」
「誰にある」
「実行局」
「現場にいる?」
「開演日は二人」
「連絡方法」
「管理室」
「返答期限」
「そんな規定はない」
真琴は眼鏡の左つるを上げた。
「作る」
「今から?」
「今、必要になった」
主任が笑う。
「規則屋は、規則がないと元気になるんだな」
「不本意です」
「顔は嬉しそう」
「近視です。見誤っています」
機構主任が管理室へ連絡に行ったあと、背景車が動いた。
最初の音は小さい。
金属の輪が、床の溝を一つ越える音。
轟の顔が上がる。
「離れろ」
完全な文だった。
「宮殿が動いている。黄色線の外へ出ろ」
白王の宮殿が、坂を下り始めていた。
四百八十キロ。
勾配一・五度。
止め輪の一つが、半分しか噛んでいない。主任が外したのではない。朝の転換稽古で戻しきらなかったのだ。
速度は歩くより遅い。
だから、人は近づけば止められると思う。
重い物の危険は、速さより、止められそうに見えることだった。
タマキが鉄箱を抱え、黄色線の内側にいる。
背後は衣装箱。
横へ抜ける幅がない。
「右へ」
真琴が言う。
「右は雨管」
タマキ。
「左」
「宮殿」
「後ろ」
「箱」
「前へ」
「そっちから来る」
「選択肢がない!」
「だから訊いてる!」
タマキは鉄箱の留め具を鳴らした。
怖い時の癖。
轟は背景車の正面へ立たない。
左肩では受けられない。
受ければ、手術した腱が先に切れる。
彼は床へ落ちていた木製の止め楔を右足で蹴った。
楔は車輪の前へ入らず、横へ滑る。
「真琴、鎖」
「何に」
「右の止め輪」
真琴は白手袋の袖から、鎖付き筆記具を抜いた。格闘用に重くした細い鎖。先端の金属筆を、背景車の止め輪へ投げる。
一度目は外れた。
近視の彼には、薄暗い床の金具が二重に見える。
「左へ十二センチ」
タマキが言う。
「今のから?」
「そう」
「数字は正確か」
「十一か十二」
「どちらだ」
「止めたいなら十二」
真琴は二度目を投げた。
金属筆が輪へ入る。
鎖を引く。
止め輪が起きる。
だが車輪の前へ落ちない。速度が少し速い。
轟が背景車の側面へ身体を寄せた。
正面から止めない。
右肩と腰を骨組みへ当て、左足を古い手すり穴へ置く。力を身体で受けず、床へ流す。
「押すな」
真琴が言う。
「押してねえ」
「止めている」
「曲げてる」
「何を」
「道」
背景車がわずかに斜めを向く。
右の車輪が黄色線の溝へ落ちる。
速度が下がる。
タマキは衣装箱の上へ片足をかけ、身体を持ち上げた。鉄箱を先に投げない。中身が分からない荷物のように、自分だけ逃げることを嫌う。
「箱を置け!」
真琴。
「中に札がある!」
「紙だ!」
「宛先がある!」
「まだないと言っただろう!」
正しい。
タマキは鉄箱を衣装箱の上へ置き、自分もよじ登った。
宮殿が足元を通る。
金箔の壁が衣装箱へ触れる寸前、轟が右膝で骨組みを押した。車輪がもう一つ、溝へ落ちる。
真琴が鎖を強く引く。
止め輪が車輪の前へ倒れた。
ごん。
宮殿が止まる。
金箔板が震え、上から白い飾り柱が一本落ちた。
轟は左腕を上げない。
右手で柱を横へ払う。
柱は床へ当たり、紙のように潰れた。舞台用だった。
「軽い」
真琴が息を吐く。
「見た目より、は数字じゃねえ」
轟はさっきと同じ言葉を返した。
左肩を右手で押さえる。傷めてはいない。力を入れたため、古い手術痕が引いただけだ。
タマキが衣装箱から降りる。
「僕の選択肢、全部間違ってた」
「俺の説明が遅かった」
轟。
「真琴の命令も」
「選択肢を出した」
「ない選択肢」
「その時点で見えた範囲では――」
真琴は止まった。
「私が、構造を知らずに命令した。悪かった」
「謝罪、短い」
「長い方がいいか」
「いらない」
タマキは鉄箱を確かめる。札は曲がっていない。
機構主任が走って戻ってきた。
止まった宮殿。
起きた止め輪。
潰れた飾り柱。
「誰が動かした」
「誰も」
轟。
「止め輪が浅かった」
「確認表では」
「表より一個、戻ってねえ」
主任は床へ膝をつき、金具を触る。
「昨日の転換だ」
「名前」
真琴が訊く。
「今、必要か」
「処罰ではない。次の確認を誰とするか」
「班全員だ。個人だけにしたら、また他が見ない」
真琴は帳面へ書く。
《止め輪事故。確認責任、機構班全員。個人名は内部記録。》
主任が轟を見る。
「本番で搬入口を使うなら、背景車を動かす班と、客を通す班を分ける」
「人数」
「最低六」
「さっき四と言った」
「客は貨物より勝手に止まる」
「だから多い?」
「だから、人が要る」
主任は初めて、搬入口を観客用へ使う前提で話した。
許可ではない。
だが、構造の中に選択肢が一つ増えた。
同日 午後五時四十五分
楽屋の長机に、緑、白、灰色の札が並んだ。
緑は《退出したい》。
白は《続けて見たい》。
灰色は《まだ決めない》。
文字の下に、色が見えない者でも区別できる形を付ける。
緑は開いた扉。
白は座席。
灰色は空の四角。
タマキが一枚ずつ鉄箱へ入れた。
「誰から」
「作成は私と巴」
真琴。
「誰へ」
「観客」
「何のため」
「意思表示」
「全員に配る?」
「入口で」
「劇場が許す?」
「まだ」
「じゃあ配達先に届かない」
「許可を取る」
「取れなかったら」
「方法を変える」
タマキは箱を閉めない。
「受けない」
「なぜ」
「配るって決まってない。僕が持つと、決まったみたいになる」
「保管だけ」
「保管料」
「払う」
「一日三十円」
「高い」
「三色」
「色で三倍にするな」
「場所を三つ使う」
轟が札を一枚取る。
左手ではなく右手。
「紙、薄い」
「折れない程度です」
真琴。
「暗い所で持てるか」
「形で区別する」
「濡れたら」
「舞台は雨室がある」
「耐水紙にする」
「費用が」
「安全費」
「誰が払う」
「だから依頼者を決める」
轟は作り始めない。
また止まった。
巴が黒板へ大きく書いた。
《札は票ではない》
真琴が続ける。
「退出の希望を伝える道具。緑を出した者を、統治案への反対票として数えない」
《白も、支持票ではない》
「公演を見続けたい意思だけ」
《灰色を、沈黙と同じにしない》
「まだ決めない、と表明した者」
タマキが訊く。
「札を取らない人は」
「意思不明」
「拍手したら」
「演目への反応。ただし券面は支持にする」
「じゃあ札が負ける」
「だから券面条項を止める必要がある」
「巴の能力」
真琴の視線が巴へ向く。
巴は右人差し指を曲げようとした。
途中で止まる。
左手で答える。
《一人ずつ、自分の言葉か手話で説明できた者にだけ、契約を効かせる。読めた者だけ〈リード・イン〉》
「千人を確認できる?」
タマキ。
《できない》
「何人」
《開演までなら、多くて百》
「残り九百」
《能力を使っても、退出路は開かない》
「じゃあ、能力は何のため」
巴は少し考えた。
《使える場所を決めるため》
「使えば解決、じゃない?」
《違う》