第130話 第三章「稽古場の喧嘩」後編
怒っている。
彼女の左肩は、午前からの撮影で硬くなっている。撮影機は三脚。手は空いている。それでも乱馬の前で、工具ベルトへ触れない。
記録の喧嘩を、棒の喧嘩へしないためだ。
「無編集〈ワン・テイク〉は、始めてから終えるまで故意に切らず、盛らず、嘘を言わないための記録です。別の映像へ挟めば、その別の映像まで事実になるわけではありません」
「だが、あなたも画角を選んだ」
「選びました」
「開始時刻も」
「選びました」
「客席を映さなかった」
「稽古対象が舞台だったためです」
「観客が七つと数えた事実は、画面の外だ」
「音に入っています」
「顔はない。誰が、何を見て、なぜ拍手したかはない」
「だから字幕で《帰順》と決めていい?」
「決めたのは演出だ」
「事実ではありません」
「演目は事実ではない」
「事実の印を借りています」
乱馬は投影幕へ近づいた。
電源の抜けた白い面へ、二人の影が落ちる。
「火群七瀬。カメラは、記憶のいい客席だ。座る場所を選ぶ。前の人の頭で見えないものがある。終わったあと、見た範囲を全部だと思う」
「知っています」
「本当に?」
「あなたより先に疑っています」
「なら、俺が別の席を足すことも許せ」
「許可しません」
「事実を所有するのか」
「映像の利用範囲を管理します」
「同じことだ」
「違います。所有なら、あなたへ見せません」
七瀬は撮影機を回していた。
乱馬の顔だけでなく、投影幕、抜かれた電源、広場を通る人、宣伝を見上げていた子ども。画角は広い。
「この会話も無編集か」
「開始時刻、午後五時二十九分二秒。終了は、あなたが利用条件へ回答した後です」
「回答しなければ?」
「長くなります」
「肩が持たない」
「三脚です」
「目が持たない」
「それは私が決めます」
乱馬は笑った。
「やはり似ている。俺たちは、客が立つまで終われない」
「私は終了を宣言できます」
「宣言できるのと、終われるのは違う」
七瀬のクランクが、一瞬だけ遅れた。
迅は広場の端で見ていた。
乱馬は映像を理解している。
理解したうえで使う。
知らない敵より、知っている敵の方が説明を必要としない。説明しない分、速い。
「利用を止めろ」
迅が言った。
乱馬は振り向く。
「獣の命令か」
「本人」
「出演契約はまだだ」
「映像の本人」
「公開稽古の範囲だ」
「公開と宣伝は違う」
「契約書を読んだ?」
「真琴が」
「本人は」
「読んでない」
「なら、読めない規則に守られる?」
「守らせるなって巴は言う」
「本人の言葉は」
「使うな」
迅は短く言った。
乱馬は彼を見る。
客席へ向ける顔ではない。
「理由」
「俺の退いた数を、俺より先に決めた」
「観客は七と見た」
「六だ」
「見た目は七」
「見た目で能力を作るな」
「舞台は見た目で人を作る」
「だから、使うな」
乱馬はしばらく黙った。
沈黙を演出へ変えるには、観客が足りない。
やがて、抜けた電源コードを拾う。
差し込まない。
「今夜の上映は止める」
「映像を返してください」
七瀬。
「複製は残す」
「削除を」
「契約を確認する」
「確認中は公開停止」
「受けよう」
「書面で」
「真琴を呼べ」
「既に後ろにいる」
真琴が広場の柱の陰から出た。
「盗み聞きではない。公開場所だ」
「便利だな」
迅。
「何が」
「本人が言った」
「意味が違う」
乱馬は拍子木を一本抜き、真琴へ渡した。
「書面ができるまで、これを担保にする」
「価値は」
「初舞台から使っている」
「客観価格」
「人の思い出へ値札を付けるな」
「担保にするなら付けろ」
乱馬は声を立てて笑った。
今度は本物に近い。
「嫌いじゃないぞ、但し書き」
「私は嫌いだ」
「名前で呼べ」
「契約後に検討する」
七瀬は撮影を続けた。
利用停止の合意。
担保の受領。
書面化の期限。
全部が終わるまで、クランクを止めない。
午後五時四十一分三十秒。
「撮影終了」
七瀬は宣言した。
半回転、クランクを逆へ戻す。
笑わない。
投影幕には、電源のない白だけが残った。
地面へ落ちた迅の影は、一歩も退いていなかった。