第129話 第三章「稽古場の喧嘩」前編
十一月二十一日 午前十時十一分
殴るふりには、殴らない技術が要る。
殴らないふりには、もっと要った。
竜胆迅は、舞台に貼られた七つの白丸を見下ろした。
「消せ」
「位置が分からなくなる」
紅葉カナタは、八つ目の印を貼っている。
白丸は、回転舞台の中央から外周へ螺旋状に並んでいた。一つ目は玉座の前。七つ目は客席ぎりぎり。八つ目だけが中央へ戻る赤い線。
「分からなくていい」
「本番で奈落へ落ちる」
「落とし穴の方を消せ」
「舞台が平らになる」
「安全」
「退屈」
「客は怪我しない」
「役者が飢える」
「他の仕事をしろ」
「君も」
「してる」
「地下試合?」
「今は靴修理」
「舞台より嘘が少ない?」
「穴は塞ぐ」
カナタは七つ目の丸へ爪先を置いた。
「この印は穴を増やさないため。君がどこまで退くか、照明と相手役が知る」
「相手が知ったら攻め方を変える」
「台本どおりに攻める」
「喧嘩じゃない」
「芝居だよ」
「だから嫌いだ」
迅は右親指で赤い七結びを押さえた。
右手の握力は戻っている。重い物も持てる。だが、細い痺れが小指と薬指に残る。冷えた朝と、同じ動きを繰り返した後に強くなる。
舞台の床は暖かかった。
照明の熱と、下を回る機械の摩擦。
それでも右手は、昨日より少し遅い。
「今日の稽古は第三場」
カナタが台本を開く。
「獣が七度逃げ、王へ最後の一撃を返す。観客が能力条件を理解する場面」
「能力説明は要らない」
「客が数える」
「勝手に数える」
「数え間違えたら?」
「俺が知ってる」
「客は知らない」
「知らなくていい」
「君が七つ目で何を選ぶか、知らないまま拍手させる?」
迅はカナタを見る。
面は着けていない。
金髪の下の目は茶色。舞台用の左右違う化粧レンズもない。素顔なのに、問い方だけは演出だった。
「拍手させなくていい」
「劇場で言うと、一番嘘っぽい台詞だ」
「俺の仕事じゃない」
「出演者の仕事」
「受けてない」
「今日で三日目」
「検分」
「衣装合わせもした」
「検分」
「殺陣も覚えた」
「検分」
「台詞を二行、直した」
「誤字」
「役者は、出ると決めるまで全部を検分と呼ぶ」
「おまえも?」
「俺は生まれた時から出演中」
「それ、格好いいと思って言ってる?」
「今のは少し」
迅は白丸を靴底で擦った。
粘着布は剥がれない。
「始めるよ」
カナタが面を着けた。
身体が伸びる。
右半分の朱、左半分の群青。その薄い境目が、顔を二つに割る。
「次は三つ。獣の右へ入る。左袖で目を奪う。踵を肩へ止める」
舞台袖の座員が拍手した。
八人。
予告を覚え、待つ視線がカナタへ集まる。
迅は踵で床を一度擦った。
「それ、合図?」
「癖」
「使う」
「使うな」
一つ目。
カナタが右へ入る。
言葉より速い。
右足を軸に半円を描き、迅の左肩外側へ滑った。
迅は白丸から一歩退く。
決められた方向ではない。
内側。
カナタの進路へ入り、肩で胸を押す。
「違う」
「当たった」
「そこは俺の道」
「道が細い」
二つ目。
群青の左袖が開く。
布の端に薄い骨が入り、刃のように視界を切る。
迅は顔を庇わない。
布の下の腰を見る。
カナタの右踵が上がる。
三つ目。
蹴りは肩へ届く前に止まる――はずだった。
迅は踏み込んだ。
踵が右前腕へ当たる。
軽い衝撃。
だが右小指から肘まで、白い痺れが走った。
腕が一瞬、開く。
カナタは止めた蹴りを引かず、そのまま膝を畳んだ。足の甲が迅の鎖骨へ触れ、身体を押す。
迅は二歩目を退く。
白丸の外。
拍手が続く。
カナタの精度が上がる。
「一つ目から」
カナタが宣言する。
「同じ三つ」
「予告は一回分だろ」
「客は続きを待ってる」
「客じゃない。身内」
「一番厳しい客」
座員の一人が笑った。
迅はそちらを見ない。
カナタの右肩が先に動く。
同じ進入。
だが角度が半歩深い。
迅が内側へ入ることを読んでいる。
舞台は同じ動きを求めるが、役者は同じ失敗をしない。
迅は外へ退いた。
三歩目。
照明が白丸を順に点ける。
一。
二。
三。
客席から見れば、能力の蓄積に見える。
実際には、ただの稽古だ。
守る対象も定めていない。
先に暴力を振るえない条件もない。
それでも赤い紐の下が熱を持つ。
舞台が《七退一還》を真似している。
迅の誓いではなく、見世物として。
「照明を消せ」
「今、いい画」
七瀬が客席後方から言った。
「撮るな」
「稽古記録の許可範囲です」
「能力を使ってない」
「使っていないことも記録します」
「客には分からない」
「分からないなら、字幕が要ります」
「増やすな」
カナタが四歩目へ入る。
今度は予告しない。
迅は床の光ではなく、足首を見る。
右軸。
古い傷を庇うため、着地の瞬間だけ爪先が外へ開く。
そこへ左足を置く。
カナタの進路を狭める。
袖が振られる。
迅は布を左手で掴んだ。
引かない。
布の骨を床へ押し、カナタの回転だけを止める。
右踵が来る。
首を倒して避ける。
金色の髪が頬をかすめた。
迅は腰を入れ、布ごとカナタを投げる。
舞台用の受け身なら、外へ大きく回る。
カナタはそうしなかった。
迅の肩へ掌を置き、軸を借りて身体を反転させる。右足を床へ戻さず、左膝を迅の背へ当てる。
押される。
五歩目。
白丸から外れたのに、照明が追ってくる。
「勝手に数えるな」
迅は言った。
「客席からは五つ」
「俺は四つ」
「さっき右腕で受けて退いた」
「一身分じゃない」
「見た目は一歩」
「能力は見た目で決まらない」
「芝居は決まる」
カナタの膝が離れる。
迅は振り向きざま、左肘を入れた。
止めるつもりだった。
カナタが半歩早く潜る。
肘が面の縁へ当たる。
乾いた音。
朱と群青の面が外れ、床を滑った。
座員の拍手が止まる。
カナタの素顔に、迅の拳が近い。
二十センチ。
迅は止めた。
カナタも止まった。
互いの息が近い。
「今の、台本にない」
カナタの声は低い。
「喧嘩だから」
「稽古」
「おまえが本気にした」
「君が先に肘」
「止めた」
「当たった」
「面に」
「顔の一部」
「道具だろ」
「役の顔」
迅は拳を下ろさない。
カナタの右手が、床へ落ちた面へ伸びる。
迅はその手首を踏まない。
代わりに、自分の足で面を止めた。
「役の顔を拾うのに、本人の手を使うな」
「どういう意味?」
「分からない」
「格好いいと思って言った?」
「今のは少し」
カナタが笑った。
舞台用ではない。
笑った隙に、迅の手首を取る。
左へ回す。
迅は体勢を崩した。
六歩目。
「汚い」
「喧嘩だから」
カナタは迅の言葉を返した。
迅の右腕が熱い。
七つ目へ退けば、舞台は赤く光る設定だ。
能力は成立していない。
それでも観客役の座員は、息を止めて待っている。
次の一歩。
最後の一撃。
期待が、床より先に迅の背を押した。
迅は退かなかった。
前へ出る。
カナタの胸へ額を当てた。
拳ではない。
互いの重心がぶつかる。
カナタの右足が滑る。
迅は左足でその踵を止め、身体を回す。肩を入れ、カナタを投げるのではなく、白丸の外へ押し出した。
カナタは受け身を取る。
今度は舞台用だった。
大きく回り、背を弓のようにしならせ、音だけを響かせる。
客席から、思わず拍手が起きた。
座員ではない。
いつの間にか、見学へ来ていた衣装係と音響係。十人ほど。
カナタは床に寝たまま、天井を見る。
「七つ目、捨てた」
「数え間違い」
「客席は七だと思った」
「客席が間違えた」
「でも拍手した」
「だから何だ」
カナタは起き上がった。
「君が能力を使ったと思った人もいる」
「使ってない」
「記録が要るね」
七瀬が言う。
迅は客席後方を見る。
「だから撮ったのか」
「あなたが使っていないと言えるように」
「映像だけで分かる?」
「誓痕の発光がない。守る対象の宣言もない。あなたの右腕の温度変化は映りませんが、少なくとも完全発動ではない」
「説明が長い」
「誤認は短いからです」
カナタが面を拾う。
縁に細い傷が入っている。
「修理代」
「俺?」
「半分」
「おまえが掴んだ」
「君が蹴った」
「蹴ってない」
「足で止めた」
「タマキ」
「仲裁料は五円」
タマキは客席で塩パンを食べていた。
「呼んだだけで取るな」
「呼んだ先に仕事があると思った」
「ない」
「受取拒否」
迅は右手を開閉した。
痺れはある。
悪化してはいない。
舞台用の受け身を覚えたため、背中も打っていない。
そのことが少し腹立たしかった。
安全な喧嘩は、負けた場所まで綺麗に残る。
午後一時五十六分。
獅堂凱は、王役が上手かった。
上手いという言葉では足りない。
衣装を着た瞬間、周りが彼へ合わせた。
白い長衣。
金属糸の肩。
壊れていない鐘。
黒い膝装具は布の陰へ消えている。
凱が玉座前の白い印へ立つと、脇役の歩幅が自然に揃った。誰も指示されていないのに、舞台袖の会話が小さくなる。
「第三場、王の布告」
紅城乱馬が客席中央から言う。
金箔化粧は片側だけ。赤黒い羽織を椅子へ広げ、左右を二席使っている。
「白王よ、獣へ退路を与えよ」
凱は台本を持たない。
昨日、二度読んだだけで覚えた。
「退路は、俺が与えるものではない」
最初から台詞を変えた。
乱馬が笑う。
「いい。続けろ」
「退く者は、自分で道を選ぶ。ただし、その道が他者を踏むなら、俺が止める」
台本では、《王の許しなく退く者は、民を捨てる》だった。
意味が逆だ。
それでも凱の声で言うと、最初から書かれていたように響く。
脇役の一人が膝をついた。
演技ではない。
演技に入る前の反射だった。
凱の目がそこへ落ちる。
一瞬、声が止まる。
「立て」
台本にない命令。
脇役が立つ。
客席の見学者から拍手が起きた。
十数人の小さな音。
凱の背が、ほんの少し伸びた。
迅は見た。
胸の割れた鐘へ触れていない。
衣装の完全な鐘へ、右手を置いている。
「次」
乱馬。
「獣を諭せ」
迅は黒い衣装のまま、舞台へ出た。
右袖は長くなっている。靴底は昨日より柔らかい。靴係へ礼は言った。名前も聞いた。
凱と向き合う。
白い光と黒い影。
分かりやすい。
分かりやすすぎて、何かを忘れる。
「退いた者よ」
凱の声。
「おまえは何を守った」
台本の問い。
迅の答えは、《己の命だけだ》になっている。
口を開く。
台詞が出ない。
凱の目は王の目ではない。
迅へ答えを要求する、昔からの目だ。
「聞き方が悪い」
迅は言った。
乱馬の眉が上がる。
凱は続けた。
「どこが悪い」
「守った物だけ数えるな。置いた物も数えろ」
「何を置いた」
「正しかったって顔」
凱の口元が動く。
笑いではない。
舞台上で、役が一瞬ずれた。
「俺もか」
「特に」
見学者が笑う。
拍手が混じる。
乱馬は止めない。
むしろ手を上げ、照明へ合図した。白と黒の境目が狭くなり、二人を同じ光へ入れる。
「いいぞ」
艶のある声が客席を満たす。
「王と獣が台本を食う。観客は、紙より生きた喧嘩を好む」
「俺たちは餌か」
迅。
「主演だ」
「同じだろ」
「値段が違う」
タマキ。
笑いが増えた。
凱も笑いかけた。
それを抑え、王の姿勢へ戻る。
迅は見逃さない。
稽古が終わり、凱が衣装を脱ぐ前に言った。
「楽しんだな」
凱は否定しなかった。
「観客が反応した」
「聞いてない」
「声が届いた」
「それも聞いてない」
「何を聞いている」
「楽しかった?」
凱は衣装の留め具を一つ外す。
「楽しかった」
「危ないな」
「楽しむことが罪か」
「違う」
「なら何だ」
「うまいのが危ない」
凱の目が細くなる。
「おまえも喧嘩がうまい」
「だから地下で金にしてた」
「俺は王を金にしろと言うのか」
「金なら、まだ返せる」
「拍手は返せない?」
「誰のか分からなくなる」
凱は完全な鐘の飾りを外した。
衣装係へ渡す。
自分の割れた鐘を胸へ戻す。
「俺が楽しんだ事実は、消さない」
「消すな」
「だが、台本の王には渡さない」
「どうやって」
「まだ分からない」
迅は答えなかった。
分からないと言う凱は、王だった頃より信用できる。
同時に、分からないまま声を出せば人が動く。
信用できることと、安全なことは同じではない。
午後三時四十二分。
舞台裏の食堂は、客席より狭く、台詞より正直だった。
長机が三本。
衣装のまま食べる者。
化粧を半分だけ落とした者。
偽の血が指へ付いたまま、赤い汁物を避ける者。
迅は壁を背にし、二つの扉が見える端へ座った。塩むすびを外側から崩す。中央だけを最後まで残す食べ方を、カナタが向かいから見ていた。
「舞台みたい」
「何が」
「最後の一口を主役にする」
「冷める場所を残してる」
「意味がない?」
「意味は後から付く」
「役者向き」
「殴るぞ」
「今は休憩」
「安全」
「その言葉、嫌いになった?」
「便利すぎる」
カナタは焦がし砂糖を塗ったパンを二つに割る。大きい方を自分へ、小さい方を面の箱の上へ置いた。舞台の取り分ではない。乱馬は最初の一口を床へ落とすが、カナタは食べ物を捨てない。
「君、本番で七歩を外す?」
「外す」
「照明が困る」
「照明に戦わせろ」
「客は?」
「見ればいい」
「見てるだけの人に、何も渡さない?」
「席を渡してる」
「座ったら役がある」
「客役?」
「うん」
「降りられる?」
カナタはパンを噛んだ。
答えない。
「昨日の券」
迅が言う。
「見た?」
「真琴が読む」
「本人は」
「字が多い」
「読め」
「おまえに言われると腹が立つ」
「役者だから?」
「読める奴が、読めない奴に言うから」
「読めない?」
「読める。遅い」
カナタは赤い入場券を一枚出した。
十四行目へ、薄い鉛筆線が引いてある。
迅は受け取らない。
「読むなら自分のを読む」
「同じ文章」
「おまえが線を引いた場所から読むと、おまえの答えになる」
カナタの手が止まる。
「七瀬みたい」
「嫌?」
「怖い」
「同じ」
迅はむすびの中央を食べた。
カナタが券を引っ込める。
「俺、客が拍手するの好きだよ」
「見れば分かる」
「嫌いなふりに見える?」
「してない」
「乱馬を嫌うなら、拍手も嫌えって顔をされる」
「誰に」
「正しい人」
「主語が逃げた」
「君の言い方、便利」
「具体的だ」
「じゃあ具体的に。巴。真琴。たぶん七瀬。拍手を政治へ使うなと言う人は、俺が拍手を欲しがると少し困る」
「欲しがればいい」
「いいの?」
「取るな」
「違い」
「欲しいは、おまえの中。取るは、相手の手」
カナタは、面の箱へ置いた小さいパンを取る。
「名言?」
「ただの場所」
「舞台で使っていい?」
「使うな」
「惜しい」
カナタが足を組んだ時、右靴の爪先が口を開いた。
底革が三センチほど剥がれている。
迅は箸を置いた。
「貸せ」
「食事中に靴を脱がせる人、初めて」
「舞台で脱げるよりいい」
「そこは演出で使える」
「転んで顔から落ちる」
「顔も演出で使える」
「一個しかない」
カナタは靴を脱いだ。右足首の古傷を覆う薄い布が見える。迅は靴底を指で曲げ、剥がれた範囲を確かめた。
「糊だけじゃ本番まで持たない」
「縫える?」
「左で」
「右は」
「押さえる」
「さっき蹴ったから?」
「前から」
「ごめん」
「謝る場所が違う。蹴りは稽古。痛いのは古い」
迅は工具袋から太い針と蝋引き糸を出した。食卓の端を布で拭き、靴だけを載せる。針を左手で押し込み、右の親指で底を支える。
右小指が一度、勝手に開いた。
カナタは見て、見なかったふりをしなかった。
「休む?」
「糸を引く時だけ」
「俺が引く」
「強さが違う」
「四回結ぶのは得意」
「靴紐と縫い糸は違う」
「舞台と喧嘩くらい?」
「もっと」
迅は三針進め、手を休めた。カナタは待つ。早くと言わない。舞台では次の三手を宣言する男が、今は一針先も決めなかった。
「縫い目、見えるね」
「隠すと浅くなる」
「客は見ない」
「おまえは履く」
「見えない所の方が、本人には長いか」
「さっき轟も言ってた」
「借りた?」
「同じ床にいると、たまに同じこと考える」
縫い終わった靴を返す。
カナタは履き、爪先を床へ当てた。補修線は舞台衣装で隠れる。歩く本人には、糸の硬さだけが分かる。
「代金」
「本番後」
「拍手で?」
「他人の手を財布にするな」
「じゃあ現金」
「それでいい」
カナタは笑った。
「君、金言より料金表の方が似合う」
「払ってから言え」
食堂の反対側で、凱が立ったまま汁物を飲んでいた。左膝を曲げず、机の端へ片手を置く。真琴が椅子を蹴って寄せる。
「座れ」
「命令か」
「健康上の助言」
「主語がない」
「私が、あなたへ、座るよう助言する」
「理由」
「膝が腫れると、私の安全計画が増える」
「おまえの都合か」
「最も誠実な理由です」
凱は座った。
椅子を出口へ正対させる。
迅は二人を見て言う。
「仲直り?」
「違う」
同時に返る。
食堂の何人かが笑う。
舞台上より小さい笑いだった。誰も次の台詞を待っていない。
カナタは、その音が好きだった。
好きだと認めると、舞台から降りたくなる。
「次は」
口に出た。
迅が見る。
「何」
「宣伝用の撮影」
「聞いてない」
「俺も今朝聞いた」
「七瀬は」
「稽古記録の一部を広場で流す」
「一部?」
「無編集の一部」
迅の目が細くなる。
「それ、変だろ」
「一つの撮影は切らない。前後へ別の映像を付ける」
「七瀬は知ってる?」
「契約には公開広報って」
「知ってるかを聞いた」
「知らない」
「何で言わない」
「今、言った」
「俺じゃなくて」
カナタは答えられない。
言えば止まる。
止まれば、宣伝が一つ消える。
公演が弱くなる。
乱馬が別の映像を使う。
そこまで考えて、結局何も決めなかった。
「おまえ、次の三つは言えるのに、その次は全部黙るな」
迅が立つ。
「七瀬を探す」
「俺が」
「遅い」
「まだ食べてる」
「じゃあ食え」
迅は食堂を出た。
カナタの手には、半分のパンが残った。
次の一口は決められる。
食べ終わった後、誰へ話すかは決められなかった。
午後五時二十八分。
劇場正面の投影幕に、迅が七度退く映像が流れた。
七瀬の撮った稽古記録だった。
ただし、その前後には別の映像が付いている。
黒い雨。
白い王。
逃げ惑う人々。
迅が一歩退くたび、字幕が一語ずつ出る。
《恐れ》
《孤独》
《反逆》
《迷い》
《逃走》
《敗北》
《帰順》
七つ目のあと、凱の声。
《退路は、俺が与えるものではない》
そして題名。
『白王と退路の獣』。
画面の隅に、《稽古記録・無編集》とある。
七瀬は投影機の電源を抜いた。
正面広場から、宣伝音が消える。
「何をする」
乱馬は怒鳴らない。
声が艶を失うだけだ。
「午後五時二十八分十四秒。許可範囲外の宣伝使用を停止しました」
「記録映像は切っていない」
「前後へ演出映像を付けています」
「あなたの映像の内部は一齣も切っていない」
「《無編集》という表示が、全体の保証に見えます」
「見えるだけだ」
「見せています」
七瀬の敬語が増える。