第128話 第二章「舞台裏の嘘」後編

 悪い座長なら、嫌えば済む。

 良い瞬間が多い人間は、降りる足へ手をかける。

「カナ」

 乱馬の私語は短い。

「何」

「二幕の拍手、足りない」

「まだ本番前」

「稽古の想定値だ。凱が王を演じ切れば伸びる。だが獣が反抗を魅力に変える。おまえが流れを取れ」

「どこへ」

「最大へ」

「何の最大」

「拍手だ」

「何のため」

「民意の可視化」

 その言葉を、乱馬は嫌いな役名のように発音した。

 カナタは見た。

「嫌いでしょ」

「何が」

「観客を民意って呼ぶの」

「上の連中がそう呼ぶ。なら、俺たちは一番面白い民意を作る」

「作ったら、民意じゃない」

「観客は自分で笑う。自分で手を叩く。俺は笑う場所を明るくするだけだ」

「出口も暗くする?」

 乱馬の金茶の目が細くなる。

「安全のためだ」

「その言葉、便利」

「おまえが言うか。危険な跳躍へ《安全な殺陣》と札を付けてきた」

「違う」

「違いを見せろ。拍手を取れ。取ったあと、政治に使う奴が悪いと言えるだけの、自由な拍手を」

「使うって知ってる」

「知っている」

 乱馬は長羽織の内側から、入場券の見本を出した。

 厚い赤紙。

 表には座席番号と公演名。

 裏には、祝祭実行局の条件が十九行で印刷されている。

 文字は小さくない。

 難しいだけだ。

 カナタは十四行目を読む。

《本券の使用者は、拍手、唱和、起立その他の肯定的反応を、本演目ならびに本演目が示す統治案への支持として収集・集計・提出することに同意する》

「いつ入った」

「昨日の最終印刷」

「聞いてない」

「今、聞いた」

「客は」

「券面にある」

「読めると、分かるは違う」

「黒板会の言い方だな」

「巴の言い方」

「なら、あの通訳に読ませろ。客にも読ませろ。堂々と書いてある。隠していない」

「隠すより悪いこともある」

「難しい字を使った実行局へ言え」

「座は断れる」

「断れば、八旗の祝祭から紅牙が外れる。冬の巡回路が三つ消える。役者二十六人、裏方四十一人、家族を数えれば百を超える」

「主語が大きい」

「実際に大きい」

 乱馬の声は、今だけ舞台用ではなかった。

 借金。

 冬の寝床。

 子どもの薬。

 衣装の修理。

 拍手を票へ変える文は、それらと同じ紙に縫い込まれている。

「おまえが最大にしろ」

「断ったら」

「代役を置く」

「誰」

「おまえが一番嫌う、上手い役者」

「俺」

「そうだ」

 乱馬は笑った。

「断ったおまえを、代役のおまえで演じる」

「できない」

「観客はできると思う」

「兄ちゃん」

 呼んでから、カナタは後悔した。

 乱馬の顔から、一瞬だけ座長が消える。

「何だ」

「拍手は、座のものじゃない」

「知ってる」

「なら取るな」

「取らない。もらう」

「もらった後、渡す」

「生きるには換金が要る」

 乱馬は拍子木を腰へ戻した。

「おまえの綺麗な退出権で、団員へ冬を越させられるか」

 カナタは答えられない。

 自分で作品全体を決めたことがない。

 興行費を組んだこともない。

 次の三動作なら言える。

 右へ跳ぶ。

 面を返す。

 敵の肩へ踵を止める。

 その先の三か月は、台本にない。

「できないなら、舞台でできることをしろ」

 乱馬は言った。

 それは命令であり、仕事の依頼であり、養兄の忠告でもあった。

 混ざっているから、断ちにくい。

 午後四時四十八分。

 券面の十九行は、舞台袖より明るい印刷室で作られていた。

 輪転機が一定の音を立てる。

 赤い紙が一枚ずつ吐き出され、裁断刃の下へ進む。千席分。予備を含めて千百二十枚。

 カナタは一枚を持ち、印刷係へ訊いた。

「十四行目、どういう意味?」

 印刷係は三十代の女だった。腕に赤い紙粉が付いている。彼女は作業を止めず答えた。

「拍手を数えるってことでしょ」

「何に使う?」

「人気の集計」

「統治案への支持」

「そう書いてある?」

「書いてある」

 女は一枚を取った。

 声に出して読む。

 十四行目の途中で、輪転機が紙を噛んだ。彼女は反射で手を伸ばし、電源を切る。文章は《本演目ならびに》で止まった。

「直してから読む」

「先に読まない?」

「紙が詰まってる」

「券はもう千枚出た」

「原稿を決めたのは実行局。私は印刷」

「印刷した人は、内容に同意した?」

「仕事に同意した」

 彼女はローラーを開き、破れた赤紙を引き抜く。

 正しい。

 正しいことが、問題を小さくしない。

 カナタは破れた券を受け取った。十四行目が二つに裂けている。

「捨てる?」

「不良券」

「もらう」

「番号を潰して」

 女は穴を三つ開けた。

 使えない券になった。

 カナタは面の箱へ入れる。失敗したポスターと同じ場所だ。

 印刷室の外には、招待客向けの試演を待つ五人がいた。

 祝祭実行局が選んだ《一般観客代表》

 市場の菓子売り。

 北工区の旋盤工。

 十二歳の姉弟。

 中央区の退職教師。

 全員、カナタの顔を見ると笑った。

「片面王子!」

 十二歳の姉が言う。

 カナタは面を着けていない。

 それでも身体が先に役へ入る。

「お待たせしました、五人の最初の客人。舞台は空腹ですが、噛みつく前に避難口をご案内しましょう」

 華やかな声。

 弟が拍手する。

 姉も続く。

 カナタは自分では叩かない。

 五人を客席へ案内し、八つの通路を示す。装飾壁の裏にある二つは、幕を少し持ち上げないと見えない。

「公演中に帰れますか」

 退職教師が訊いた。

「幕間なら主扉。緊急時は非常口」

「途中で飽きた時は?」

「係へ声を」

「声をかけたくない時は?」

 カナタは答えを用意していなかった。

「手を上げる」

「目立ちますね」

「……うん」

「劇を止める?」

 弟が訊いた。

「止めないよ」

「僕が帰っても?」

「続く」

「じゃあ帰っていい」

 簡単な理屈だった。

 自分がいなくても続くと分かれば、人は帰れる。

 自分がいないと壊れると思えば、客席も役になる。

 試演は十五分だった。

 雨室が回り、偽の崩落が起き、カナタが三手を予告して姉弟の前へ着地する。五人は笑った。本当に面白がった。

 終わったあと、カナタは赤い券を見せた。

「裏、読んだ?」

 菓子売りが言う。

「字が多いから、あとで」

 旋盤工。

「祝祭の注意書きだろ」

 姉。

「食べ物を客席へ持ち込まない」

 弟。

「飴は食べた」

「おまえのポケットに入ってただろ」

 退職教師だけが、眼鏡をかけて読んだ。

「肯定的反応を統治案への支持として提出する」

「どういう意味?」

「拍手したら、芝居の中の政治案にも賛成したと扱われる」

「賛成?」

 弟が首を傾げる。

「悪い王様を倒すのに?」

「この芝居の王は良い王だよ」

 姉が言った。

「じゃあ賛成でいい」

「王が本当に良いか、まだ芝居を見てない」

 教師。

「今見た」

「十五分だけ」

「面白かった」

「面白いことと、決め方が正しいことは別です」

 教師は説明した。

 姉は分かったような、分からないような顔をした。

 弟はもっと単純だった。

「拍手を二種類にすればいい」

「二種類?」

「面白い拍手と、賛成の拍手」

「音が違う?」

「面白い方は手。賛成は足」

 弟は床を踏んだ。

 どん。

 回転舞台の下から、太い反響が返る。

 旋盤工が笑った。

「それじゃ地震だ」

「分かりやすい」

 カナタは言った。

 言ってから、その案が実行局に採用されないことも分かった。

 欲しいのは区別ではない。

 混ぜた数字だ。

「本番、拍手する?」

 カナタは五人へ訊いた。

 菓子売りはする。

 旋盤工は面白ければする。

 姉はカナタが蹴ればする。

 弟は足でやる。

 教師は考える、と答えた。

「考えている間、何もしない?」

「沈黙します」

「沈黙は、何に数える?」

「数えないでください」

 教師の答えは短かった。

 カナタは赤い券の余白へ書いた。

《沈黙を勝手に配役しない》

 自分の字は右から左へ曲がった。

 清書が要る。

 だが、どの台本へ入れればいいか分からなかった。

 乱馬は、初日の台本を一頁だけ燃やした。

 舞台袖の小さな鉄皿。

 頁番号、一。

 題名と配役だけが印刷された紙へ火を付ける。

「舞台神へ?」

 タマキが訊いた。

「観客より先に、失敗を一つ渡す」

 乱馬。

「燃やしただけで失敗?」

「読めなくなった」

「控えがある」

「子ども、儀式を会計監査するな」

「紙代」

「俺持ちだ」

「ならいい」

 炎は題名を黒くし、白王と獣の名を同じ灰へした。

 カナタは見ていた。

 燃えた頁は、二度と同じ形に戻らない。

 なのに公演は、毎晩同じ成功を求める。

 乱馬が拍子木を一度打った。

 カナタは面を着け、舞台中央へ出る。

「次は、三つ」

 舞台上の声へ変わる。

「右の灯を点ける。白い幕を落とす。王の道を開く」

 稽古場の座員が手を叩いた。

 十人。

 二十の掌。

 観客が予告を覚え、次を待つほど、カナタの身体は正確になる。誓痕〈ヴァウ・スカー〉の熱が足首から背へ走り、《予告拍手〈コール・アンド・クラップ〉》が舞台の三手を一本の線にする。

 右の灯。

 白い幕。

 王の道。

 一つ目。

 カナタは跳んだ。

 右手で照明紐を引く。

 朱の光が点く。

 二つ目。

 着地しながら左袖を払う。白幕の留め金が外れ、風を含んで落ちる。

 三つ目。

 幕の縁を踏み台にし、回転舞台の中央へ滑る。床板が開き、白い立ち位置まで道が伸びた。

 全部、予告どおり。

 拍手が増える。

 身体が軽い。

 怖さが消える。

 カナタは、その感覚を愛していた。

 愛しているから、乱馬の命令が嫌だった。

 空の客席で、乱馬が一人だけ拍手しなかった。

 代わりに、入場券の赤い紙を指で弾く。

 乾いた一音が、拍手より小さく、カナタにはよく聞こえた。