第127話 第二章「舞台裏の嘘」前編
十一月二十日 午前九時三分
安全な嘘は、本当の怪我より手間がかかる。
紅葉カナタは、その手間で食べていた。
「刃は腹へ入れない」
舞台中央で言う。
朱と群青の面は、まだ着けていない。稽古場では、顔を見せて説明する。相手がどこを見ているか分からなければ、怪我をするからだ。
「腹へ入ったように見せる」
カナタは銀色の短剣を自分の脇腹へ押しつけた。
刃が柄へ沈む。
同時に、左手の袖を開く。内側に仕込んだ赤い液が、薄い管を通って白い稽古着へ広がった。
竜胆迅が眉を寄せる。
「遅い」
「何が」
「刺してから血が出るまで」
「〇・四秒」
「本物はもう少し早い」
「刺されたことある?」
「刺したことはない」
「訊き方が悪かった」
「両方ある」
「訊き方は合ってた」
カナタは短剣を投げた。
迅は左手で受けた。右手ではない。舞台用の軽い柄なのに、受けたあと一度だけ右小指を開閉する。
「次。君が刺す」
「嫌だ」
「役だから」
「安全稽古だろ」
「安全に刺して」
「言葉が壊れてる」
「舞台ではよくある」
客席の最前列から、火群七瀬が言った。
「記録上、午前九時五分。紅葉カナタは《安全に刺す》と発言」
「そこだけ切ると殺人教室だね」
「切りません」
七瀬の手回し撮影機は腰の高さの三脚へ載っている。レンズは舞台全景。左肩を使わず、右手で一定にクランクを回す。
「だから怖い」
カナタは笑った。
笑い声は舞台用だった。
七瀬の目が少し細くなる。
彼女は二種類を聞き分ける。あるいは、聞き分けられると思っている。
「刺せ」
迅が言った。
「君が刺す側」
「見本」
「今見せた」
「俺が受ける」
「本物の受け方をする?」
「偽物の受け方を知らない」
「覚える稽古だよ」
カナタは短剣を取り戻した。
迅の正面へ立つ。
距離、一歩半。
右足を前に出し、刃先を胸の下へ向けた。
「目は刃を見ない」
「見てない」
「肩を見てる」
「先に動く」
「舞台では、肩を遅らせる」
カナタは右肩を残したまま、腰だけで一歩入った。
迅の左手が動く。
手首を外へ払い、肘を取る。
本気の反射だった。
カナタは肘を抜いた。袖布が迅の指へ絡み、短剣だけが床へ落ちる。銀色の刃が二人の間で跳ねた。
「今、俺の肘を壊しかけた」
「刺された」
「刺してない」
「身体は刺す気だった」
「舞台は身体の気持ちまで契約に入るのか」
「安全には入る」
迅は踵で床を一度擦った。
カナタは、その音を覚える。
喧嘩の前にする癖。
稽古で出たなら、次は本気に近い。
「二人とも止まれ」
獅堂凱の声が飛んだ。
大声ではない。
それでも、舞台袖で梯子を運んでいた団員まで止まる。
凱は客席通路に立っている。白い外套の下、左膝に黒い装具。片手には台本、もう片手には劇場の安全配置表。
「迅、受け身の稽古へ戻れ。カナタ、反射を誘う距離へ入るな」
「俺が悪い?」
迅。
「両方だ」
「王は公平だ」
カナタは舞台声で言った。
「その呼び方をやめろ」
「凱は公平だ」
「名前へ替えればいいわけではない」
「難しい」
「おまえが難しくしている」
カナタは短剣を拾った。
凱の声は、よく通る。
通りすぎる。
舞台に必要な声というのは、本人が一番聞きたくない時にも届く声だ。
安全稽古は、壊れ方の一覧から始まった。
折れる剣。
抜ける手すり。
潰れる瓶。
倒れても軽い石壁。
落ちるように見えて、腰の帯で止まる奈落。
伏見轟は、一つずつ触った。
壁を二度叩く。
手すりへ体重をかける。
瓶の破片を指で曲げる。
「この壁、右から押すと倒れる」
「そういう仕掛け」
「左から押したら」
「人が倒れる」
「表示」
「裏に赤」
「暗転で見えねえ」
「触れば溝」
「手袋したら」
カナタは答えに詰まった。
轟は壁の裏へ白い布を一本結ぶ。
「これなら見える」
「客席からも」
「客は裏を見ねえ」
「回転したら見る」
「なら短くする」
轟は布を指二本分に切った。
左腕を肩より上へ上げない。右手で結び、身体を壁へ寄せて高さを補う。
「身体、便利?」
カナタが訊いた。
「道具より高い」
「出演料?」
「修理代」
「舞台の人みたい」
「現場は全部、舞台みてえなもんだ」
「嘘が多い?」
「見えない所で支えてる」
轟は回転床へ耳を当てた。
「ただ、舞台は客がいる分、嘘に番号が要る」
「倒れる音も番号に入る?」
迅が訊いた。
「最重要」
カナタは薄い稽古敷物を舞台中央へ広げた。
「本当に痛い人は、案外静かに落ちる。舞台で静かに落ちると、客は見逃す。見逃した客は、次の派手な動きだけを本当だと思う」
「痛くないのに音を出す?」
「手で床を叩く。腿でもいい。頭と背骨は守る」
「嘘だ」
「安全な嘘」
「さっき言ってたやつ」
「手間がかかる方」
カナタが立った姿勢から後ろへ落ちた。
顎を引く。
片足を半歩下げる。
腰、背、右の掌。
ばあん、と大きな音がして、身体は敷物の上へ柔らかく止まった。
迅が覗き込む。
「うるさい」
「怪我してない」
「客に分かる?」
「分からせるための音」
迅は同じ位置へ立った。
後ろへ落ちる。
足裏で床を探し、腰を切り、音もなく肩の外側へ転がった。次の瞬間には片膝で起きている。
「格好いいけど不合格」
「立てた」
「倒れた場面なのに」
「立てるなら立つ」
「それを本番でやると、相手役が君を殺したと思って振り返った時、もういない」
「遅い方が悪い」
「殺陣は、相手が遅れる権利を最初から買ってる」
「変な権利」
「舞台の大半は、変な権利を安全に分ける仕事だよ」
轟が敷物の端を足で伸ばした。
「床、二枚ずれてる」
「音には影響ない」
「足首にはある」
カナタはしゃがみ、継ぎ目を触る。わずかな段差。客席からは見えない。
「見えない怪我は、拍手もくれない」
迅が言った。
「だから先に直す」
轟は右手で敷物を上げ、下の板を締め直した。
誰も見ていない時間の方が、本番より長い。
安全は、その長さで作られる。
カナタはその言葉を演出ノートへ書いた。
右から書き始め、途中で左側の余白へ移る。字の方向は一定しない。
環玉樹が覗く。
「読みにくい」
「俺しか読まない」
「事故のあと、誰が読む?」
カナタは鉛筆を止めた。
タマキは責めていない。
鉄箱を抱え、配達先の名を確認する顔で言っている。
「清書する」
「いつ」
「今日」
「何時」
「稽古後」
「稽古後って何時」
「十七時」
「受領」
タマキは自分の帳面へ書いた。
「監督?」
「配達」
「何を」
「事故のあと読む人へ、読める字を」
「料金」
「取るの?」
「書いたら考える」
カナタは少し笑った。
今度は、舞台用ではなかった。
七瀬のクランクが半回転だけ逆へ戻る。
彼女も笑う前にそうする。
似た癖は、仲間という意味ではない。ただ、相手の嘘がどの方向へ開くか分かりやすくなる。
午前十一時二十二分。
回転舞台が《雨室》へ変わった。
天井板から細い水が落ちる。
本番では照明に色を入れ、黒雨に見せる。今は透明な水だ。
床の排水溝には滑り止めがあり、役者は白い印だけを踏む。
「雨の中で七歩」
カナタが言った。
「やらない」
迅。
「今日は三歩」
「数の問題じゃない」
「滑り方の問題」
「能力は使わない」
「使わなくていい。退く形だけ」
「形にすると、数えられる」
「観客は数えるよ」
「勝手に」
「勝手に数えた数で、君を決める」
「それも勝手にすればいい」
「本当に?」
迅の顔から、薄い笑いが消えた。
カナタは続けない。
観客が人を決める怖さを、彼は知らないわけではない。むしろ、知っているから嫌っている。
「まず歩く」
「命令?」
「提案」
「断る」
「理由」
「靴底が新品」
「衣装靴は昨日、古い底へ替えた」
「誰が」
「靴係」
「会わせろ」
「礼を言う?」
「調整を見る」
「礼も言って」
「料金次第」
タマキが口を挟む。
「僕の台詞」
「著作権」
「三円」
「高い」
迅は雨室へ入った。
水が学ランの肩へ落ちる。
右手首の赤い紐は濡らさないよう、袖の中へ入れている。
「一歩目、右斜め後ろ」
カナタが指す。
「床板の継ぎ目を踏まない」
「見えてる」
「二歩目、回転に合わせて左」
「床が動く」
「本番は秒速〇・六メートル」
「速い」
「遅く見せる」
「嘘」
「安全な嘘」
迅は一歩退いた。
水を踏まない。
二歩目。
回転床が動く。
彼は床の動きより半拍早く重心を移し、見た目には同じ場所へ残った。
カナタは思わず息を止めた。
それは、舞台で最も映える動きだった。
退いているのに、逃げて見えない。
「もう一回」
口から出た。
迅が止まる。
カナタも止まった。
舞台袖にいた団員が、何人かこちらを見た。
その言葉は、紅牙座〈レッド・ファング〉では軽くない。
「今のは稽古指示」
カナタは言い直す。
「なら回数を言え」
「一回」
「最初から言え」
迅は同じ動きをした。
今度は少しだけ足をずらす。
「変えた」
「同じだと身体が嘘になる」
「舞台では同じに見せる」
「同じなら録画でいい」
カナタの足指が、靴の中で動いた。
録音の拍手。
録画の成功。
同じ動き。
その三つを嫌う理由を、迅へ説明する必要はない。
説明すれば、また一つ演目になる。
「次は受け身」
カナタは言った。
「逃げた」
「進行」
「同じ」
「違う」
舞台裏の声になった。
迅はそれ以上追わなかった。
昼休み、カナタは楽屋の床に座った。
朱と群青の面の箱を壁へ寄せ、枕代わりにする。弁当は焦がし砂糖を塗った硬いパンと、冷めた茶。出演料は高いが、食事を選ぶ時間がない。
靴紐をほどく。
右。
一度目。
二度目。
三度目。
四度目。
結び直す。
左。
一度目。
二度目。
三度目。
四度目。
同じ強さ。
同じ輪の長さ。
左右の端を並べる。
右足首の古い傷は、冷えると硬くなる。本番前に紐の圧が違うと、跳躍の着地で軸がずれる。
それが理由だ。
理由としては正しい。
四度である必要はない。
「五回目は?」
楽屋口に凱が立っていた。
「入るなら声」
「ノックした」
「聞こえなかった」
「おまえは聞こえる」
「考えてた」
「なら、入るなと言え」
「もう入ってる」
凱は椅子を一脚動かし、出口へ正対させて座った。座る前に列を直す。楽屋には一脚しかないのに、壁と平行でないことが気になるらしい。
「五回目は」
「しない」
「なぜ四回だ」
「左右同じなら何回でも」
「質問へ答えていない」
「王様みたい」
「俺は――」
「王じゃない。知ってる」
カナタはパンをかじった。
凱の膝装具が、座った姿勢では目立つ。舞台衣装はそれを隠すよう作られている。
「おまえは、人に見えない場所で話し方が変わる」
「役者だから」
「言い訳になるのか」
「仕事」
「仕事なら、役を下りれば終わる」
「終わらない」
答えが早すぎた。
カナタはパンを噛む。
焦がし砂糖が苦い。
「なぜだ」
凱は待った。
命令しない努力をしている。努力していることが、声の端へ出ている。
「昔、舞台裏で倒れた人がいた」
カナタは靴紐の端を揃える。
「公演中?」
「うん」
「止めなかった」
「うん」
「誰が決めた」
カナタは答えなかった。
拍手が聞こえる。
今ではなく、昔の。
幕の向こうで、誰かが三度目の見得を切った。客が笑い、手を叩き、床が震えた。楽屋では、倒れた人の腕が冷えていった。
「役者」
やっと言う。
「名前は」
「言わない」
「理由は」
「あなたの台本に入るから」
凱の眉が動く。
「俺は台本を書かない」
「人は、聞いた話に自分の役を足す」
「おまえも俺へ王役を足している」
「そう」
「やめろ」
「難しい」
「努力しろ」
「王様みたい」
「今のは命令だ」
「自覚があるなら少し安全」
凱は胸の割れた鐘へ触れた。
「幕を止めると、人が消えるのか」
カナタの手が止まる。
凱は、答えを要求しなかった。
要求しないことを、正しさにもしなかった。
「午後の稽古で、俺が台詞を止めた場合の安全手順を作れ」
「止めるの?」
「作れと言った」
「答えてない」
「おまえに返す」
カナタは小さく息を吐いた。
「作る」
「期限」
「十六時」
「分かった」
凱は立つ。
椅子を元の位置へ戻す。戻す前より、壁と平行になった。
「紐は、左右で違っても歩ける」
「知ってる」
「なら、何を揃えている」
カナタは答えない。
凱が出ていったあと、右の靴紐をもう一度ほどいた。
左もほどく。
一度。
二度。
三度。
四度。
同じ回数で結び直した。
午後四時十七分。
紅城乱馬は、開演前でも舞台へ登場する。
暗赤色の長い髪。右側だけ剃り、古い火傷を隠さない。顔半分の金箔化粧。赤黒の長羽織。腰には拍子木。
客席に誰もいなくても、一礼してから中央へ進む。
「遅い」
カナタが言った。
「時計は四時十二分だ」
「五分遅い」
「なら俺は正しい」
「世界が早い」
「世界はいつも終演を急ぐ」
乱馬は二本の拍子木を合わせた。
甲高い音が円天井へ走る。
空の劇場なのに、座員の背が伸びた。
「さあ、御覧じろ。元王は声を持ち、獣は足を持つ。そして我が片面王子は――」
「安全手順」
カナタは遮った。
乱馬の見得が半分で止まる。
「今、俺の紹介だった」
「凱が台詞を止めた場合」
「止めない」
「止めた場合」
「台本は続く」
「人の話」
「人は台本より遅い」
凱が舞台袖で聞いている。
カナタは分かっていた。
乱馬も分かっている。分かったうえで、観客へ向ける声を使う。
「王が沈黙したら、案内人が場をつなぐ。照明を落とし、音楽を三十二小節延長。舞台を半周させ、王を袖へ」
「退出は」
「役者の?」
「観客も」
「公演中の一斉退出は危険だ。安全のため、主扉は幕間まで閉じる」
轟が客席後方から言う。
「非常口は」
「開く」
「装飾壁の裏」
「表示はある」
「回転中は見えねえ」
「本番照明では見える」
「停電したら」
「非常灯」
「装飾壁が噛んだら」
「おまえは舞台を壊しに来たのか」
「壊れ方を聞いてる」
乱馬は笑った。
「いい。柱は、倒れる前に疑われる方が長持ちする。追加灯を付けろ」
座員が動く。
迷いがない。
乱馬は団員の名を覚えている。照明位置も、道具の不足も、誰が昼を食べていないかも。カナタが声帯を痛めた時は、公演順を三分で入れ替えた。火事の時には、燃える幕へ自分から入った。
だから厄介だった。