第272話 第二章「退却を言えない将」後編
放送柱の下には、百人近くが集まっていた。
偽放送へ従って北門へ向かおうとする者。
負傷者を動かすなという声を信じ、診療棟の戸を塞ぐ者。
撤退の噂が敵の工作なら、荷を解くべきだと主張する者。
全員が愚かだから混乱したのではない。
命令の一部が、それぞれ別の恐怖へ正しく刺さった。
「本物だ」
誰かが凱を見て言った。
「陛下、命令を」
「凱と呼べ」
「今は呼び方の話では――」
「呼び方が命令の力を変える」
凱は放送柱の台へ上がらなかった。
地面に立つ。
高い場所から話せば、内容より先に姿が命令になる。
真壁が手動拡声器を差し出した。
凱は受け取らない。
「まず、診療棟の戸を塞いだ担当者」
灰色の帽子を被った男性が手を上げた。
「名前」
男が名を言う。
「なぜ塞いだ」
「放送が、負傷者を動かすなと」
「誰の声だと思った」
「あなたです」
「内容を正しいと思った?」
「負傷者を置いていくよりは」
「戸を塞いだ結果、医療者が入れない」
男が振り返る。
本当に、担架が二台止まっていた。
「開ける」
「俺の命令で?」
男は迷った。
「自分の判断で。医療者を通すため」
「なら、開けてください」
男が戸から人を退かせる。
凱は次に、荷を解き始めた車両担当を呼んだ。
「なぜ解く」
「撤退は敵の噂だと」
「誰から確認した」
「放送」
「放送者は」
「あなた」
「俺は発令していない」
「では、積み直す?」
「俺へ聞くな。あなたの担当範囲は」
「西第二隊の工具車」
「出発命令は誰から受けた」
「真壁副隊長」
「取り消しは」
「受けていない」
「なら、何をする」
「積み直す」
「時刻」
「今から」
「何分」
「十五」
「記録を」
真壁が十五分を記す。
人々は、凱が何も決めていないように見えたかもしれない。
実際には、決定を元の場所へ戻していた。
戻された人間は、安心しない。
自分で選ばなければならないからだ。
「凱」
広場の後ろから、白冠時代の救護員が呼んだ。
「あなたが一言、撤退すると言えばいい」
「俺が言えば、あなたは従う?」
「従う」
「理由は」
「あなたが、置いていく人間を知っているから」
「俺は全員を知らない」
「以前は知っていた」
「知っているふりをした」
「それでも、迷うより」
「俺が迷わなかったせいで、名簿から落ちた人がいる」
「その失敗を知っているから、今は正しく命じられる」
「失敗した人間が、正解を持つと思うな」
「では何を持つ」
「失敗を隠す言葉」
凱は偽放送の文を指した。
「『負傷者を動かすな』。守っているように聞こえる。実際には、誰を、どの設備へ、何人で残すかがない。『戦闘可能者は北門へ』。集めるように聞こえる。誰の指揮で、何時までかがない。『王は退かない』。責任者の名前を一人へ見せて、他の署名を消す」
救護員は黙った。
「だから本物の声で、逆を言えば」
「同じ形になる」
「声を使わないのか」
「事実の訂正には使う」
凱は、ようやく拡声器を受け取った。
胸の鐘へ触れない。
「青石台の全員へ。今流れた放送は、俺が発令したものではない」
広場が静まる。
「俺には青石台全体の撤退を発令する権限がない。現地指揮は真壁梓。医療移送の判断は時雨ミソラ。南区間は鷹取由良と巌門崇牙。住民の行先は、本人確認を行う。現時点で撤退命令案はある。署名は未完了。未完了の紙を、完了した王命として扱うな」
言い終えた後、誰も動かなかった。
以前なら、動かないことを命令の失敗と感じた。
今は、次の声を待つ。
診療棟の男が言う。
「戸を開ける。医療者を通す」
車両担当が言う。
「工具を積み直す。十五分後、真壁へ報告」
北門へ向かっていた兵が言う。
「集合命令の発令者を確認する。確認までは元の持ち場へ戻る」
それぞれの声は、凱より小さい。
小さいまま、動いた。
救護員はまだ立っている。
「これで、遅くならないか」
「遅くなる」
「敵は待たない」
「知っている」
「あなたが命じれば早い」
「早さが必要な時は、期限を置く。判断まで奪わない」
「できると思う?」
「分からない」
凱が保証できないと言うと、救護員は驚いた顔をした。
「王は、そんなことを言わなかった」
「だから王をやめた」
「やめれば、言える?」
「練習中だ」
救護員は少し笑った。
「下手だな」
「知っている」
凱は拡声器を真壁へ返した。
真壁は受領時刻を書いた。
「訂正放送、八時四十二分。現地責任を各担当へ復帰」
「効果は」
「未評価」
「命令が遅れたら」
「私の判断記録へ入れます」
「俺の訂正が原因なら」
「あなたの発言記録へ入れます」
「分ける?」
「集めません」
広場の人は散っていく。
一斉ではない。
自分の持ち場を思い出した順に、別々の方向へ。
凱は最後まで地面に立った。
高い台は、空いたままだった。
広場が散った後、真壁は会議小屋へ戻らなかった。
放送柱の横へ、三つの白線を引いた。
「拒否訓練をします」
「今?」
凱。
「今だからです。偽放送の内容を止めても、次の命令が来れば同じことが起きる」
「誰が参加する」
「現在ここにいる担当者全員。三分」
「三分で何を」
「命令を受けた時、発令者、担当範囲、拒否条件を言う」
「訓練で敵は止まらない」
年長指揮官。
「訓練しない部隊も止まりません」
真壁は自分の名札を表へ向けた。
真壁梓。
年長指揮官は、まだ裏返したまま。
「第一。私が命令します。全員、北門へ集合」
車両担当が答える。
「発令者、真壁梓。私は西第二隊工具車担当。北門集合は担当外。拒否。工具車の現位置と出発命令を確認する」
「受領」
「第二。負傷者を動かすな」
診療棟の戸を塞いだ男が、今度は早く答えた。
「発令者、真壁梓。私は診療棟外周警備。医療移動判断は担当外。戸を塞ぐ命令なら、患者搬送と医療者通行への影響を確認する。確認まで拒否」
「受領」
「第三。橋を落とせ」
爆破係が言う。
「発令者、真壁梓。私は起爆担当。爆破範囲、通過済み人数、残留生活路、署名者を確認。未確認なら拒否」
「受領」
「私の命令でも?」
「発令者が誰でも」
「今の返答を記録します」
凱は白線の外で聞いていた。
「俺にも」
「参加しますか」
「必要だ」
真壁は凱へ向き直った。
「獅堂凱。最後の門を、敵が尽きるまで守れ」
命令の形は美しかった。
凱の胸の鐘が、鳴らないまま重くなる。
「発令者、真壁梓。俺は――」
そこで言葉が止まる。
「担当範囲」
真壁。
「まだ決まっていない」
「では命令を受けられません」
「最後の門を守る」
「誰が決めた」
「俺が希望する」
「希望と担当指定を分けてください」
凱は苛立った。
「今、細かい話か」
「あなたが細かくしなかった命令を、他人が補ってきた話をしたばかりです」
凱は口を閉じた。
「獅堂凱。担当範囲は未指定。命令を拒否する。最後の門の遅滞担当を希望し、現地指揮へ判断を求める」
「受領」
「拒否条件は」
「敵が尽きるまで、という終了条件が不明。撤退時刻と交代条件を要求する」
「受領」
真壁は白線を靴先で消した。
「三分二十二秒」
「超えた」
「必要な超過です」
凱は年長指揮官を見た。
「あなたは」
「私は訓練に参加しない」
「理由」
「部下の前で、命令拒否を教えれば統率が崩れる」
「拒否を教えず、偽放送へ従った」
「声が似ていた」
「内容の確認は」
「緊急時だった」
「今も緊急時だ」
「だから統率が必要だ」
堂々巡り。
以前の凱なら、相手の指揮権を奪った。
今は、期限を置く。
「午前十時までに、あなたの担当範囲と撤退判断を出してくれ」
「命令か」
「提案。拒否するなら、拒否と理由を真壁へ残す」
「あなたは私を臆病者として記録する」
「署名を避けた事実は記録される。臆病かは、俺が決めない」
「世論は決める」
「世論へ名前を隠すかは、あなたが決める」
年長指揮官は名札へ手を置いた。
表へはしない。
ただ、外しもしなかった。
診療棟へ戻る途中、凱はミソラと並んだ。
並ぶと言っても、歩調は合わない。
凱の左膝は下りで遅い。
ミソラは反証痛で右側の歩幅が短い。
二人が並ぶと、一定でない足音が二種類になる。
「九床を残す」
凱。
「さっき言った」
「命令へ書く言葉を確認したい」
「『病院機能を残す』は大きすぎる」
「『診療点』」
「床数、設備、担当時刻、受入条件」
「敵が来た場合」
「患者なら診る。武器は預かる。預けないなら距離を取る」
「攻撃されたら」
「退くこともある」
「残ると署名した後でも?」
「医療は墓守じゃない」
「残る患者は」
「一緒に選び直す」
「選び直せない状態なら」
「事前意思と、その時いる二人で決める」
「責任者は」
「時間ごとに変わる」
「一人にできない?」
「凱は、一人にすると安心する」
「責任が明確になる」
「責任者が倒れたら空白になる」
「代行を置く」
「代行がずっと責任者を待つ」
「では、交代制」
「最初からそう言ってる」
「同意した」
「今のは誰が何を」
「獅堂凱が、時雨ミソラの九床診療点の時間交代責任へ同意した」
「同意権ある?」
凱は止まった。
ミソラも止まる。
「ない」
「じゃあ」
「理解した」
「理解を同意って言うと、あなたの許可が要るみたいになる」
「訂正する。理解した。異議が出た場合は、現地指揮の安全判断だけを出す」
「長い」
「戻せる」
ミソラは少し笑った。
「流行ってる」
「便利だ」
「便利な言葉は――」
「誰が何を受けたか消える」
二人の声が重なった。
凱は珍しく、先に笑った。
「澪がいない所で広がるな」
「いると訂正される」
「何を」
「澪の言葉じゃないって」
「では誰の」
「使った人の」
診療棟の前では、偽放送で一度止まった担架が、もう動いていた。
誰も凱の次の命令を待っていない。
それを寂しいと思った自分を、凱は否定しなかった。
寂しさを理由に、命令を取り戻さない。
偽放送は四度目の「王は退かない」を途中まで流し、真壁の停止班によって切られた。
胸の割れた鐘が、声を聞いたように微かに震えた。
凱は触れなかった。
「俺は退く」
誰へともなく言う。
「ただし、俺の命令で全員を退かせない」
凱自身も、本物の声なら正しいという考えから、完全には退けていなかった。
四十二人への説明は、質問が尽きたところで終わらなかった。
凱は資材庫の床へ、三本の紐を置いた。
一本結びが北。
二本が西。
三本が南。
「自分の札を、今決める必要はない」
凱が言う。
「ただ、同じ四十二人だから同じ道へ行く、はやめる」
元警備員の一人が、一つ結びを取った。
「我々が分かれれば、護衛が薄くなる」
「護衛だけで決めると、酸素の二人が死ぬ」
「なら全員北へ」
「北は見つかる。歩ける者を全員入れれば、担架の間隔が詰まる」
「王が先頭なら、敵は王を狙う」
「俺を囮にする案か」
「陛下なら」
「凱だ」
「凱なら、耐えられる」
「俺が耐えられることを、四十二人の経路へ使わない」
「なぜ」
「俺が倒れた時、道まで倒れるからだ」
元警備員は納得しない顔をした。
凱は紐を一つずつ持たせた。
「試す」
「何を」
「今から、北と言われた者だけ隣の部屋へ移る。俺は命令しない。説明者は三人」
ミソラが一つ結びの前へ立つ。
守屋が二つ結び。
由良が三つ結び。
凱は壁際へ座った。
最初の説明だけで、三人が動けなかった。
酸素を使う男は北へ行けるが、妻は長距離歩行が難しい。北へ二人で行くには介助者が一人増える。
縫製係の女性は西を選んだが、持ち出したい足踏みミシンが荷重を超える。
子ども二人は南を選んだ。風が怖いと知らなかった。
説明が一巡すると、札の半分が置き直された。
「混乱している」
元警備員。
「今、混乱が見えた」
凱。
「戦闘中にやれば死ぬ」
「だから今やる」
「王命なら、一度で動く」
「一度で間違う」
酸素の男が手を上げた。
「妻と北へ行きたい。介助者が足りないなら、俺を置いて妻を」
ミソラが首を振る。
「どちらも、今の条件なら北へ行ける。介助者の割当を変える。あなたが自分を置く判断は、介助不足を前提にしてる」
「その不足は誰の責任」
「医療配置は私。護衛配置は現場指揮。あなたが埋める穴じゃない」
「でも、他の人が」
「他の人へ負担が出る。だから書く。あなたが消えることで、負担がなかったことにしない」
凱は、その応答を聞いた。
王だった頃なら、男の自己犠牲を褒め、妻を守ると約束したかもしれない。
美しい言葉は、足りない介助者を増やさない。
足踏みミシンの女性は、機械を残すことにした。
「戻れる?」
守屋が訊く。
「戻したい」
「戻れる、ではない」
「分かってる」
「所有者札を付ける。油を抜く。脚を畳まない。誰が再回収判断をする」
「私」
「一人で来るな」
「命令?」
「構造上の注意」
「言い方がずるい」
「橋より軽い」
南を選んだ子どもには、由良が風の音を聞かせた。
扉を少し開ける。
細い唸りが資材庫へ入る。
一人がすぐ耳を塞いだ。
「南、やめる」
「受けた」
「怖がり?」
「怖いと分かった」
「悪い?」
「経路を選ぶ情報」
もう一人は南のままにした。
「僕は平気」
「途中で変えていい」
「変えたら迷惑?」
「変更を伝える仕事が増える」
「迷惑だ」
「仕事と迷惑は違う」
凱は、思わず口を挟んだ。
「誰かの仕事が増えることを理由に、自分の危険を選ぶな」
全員が凱を見る。
命令に聞こえた。
凱は言い直す。
「俺の意見だ。決めるのは、説明を聞いた本人と担当者」
「同じじゃないの」
子ども。
「俺が言うと、同じに聞こえる」
「じゃあ喋らない方がいい?」
「必要な時は喋る。誰の言葉かを付ける」
「面倒」
「王よりは」
四十二人の仮札が並んだ。
北十九。
西十七。
南六。
確定ではない。
薬と荷車と風で変わる。
それでも、四十二という一つの塊ではなくなった。
老人が、凱の隣へ座った。
「王が全部持たないと、ずいぶん時間がかかる」
「そうだな」
「敵は待たない」
「待たない」
「それでもやる?」
「速さだけで選んだ結果を、俺は知っている」
「岳のことか」
「岳だけではない」
凱は三本の紐を見た。
「遅く決める権利を、戦争が最初に奪う。全部は守れない。でも、奪われたままを正しいとは言わない」