第271話 第二章「退却を言えない将」前編

五月十九日 午前八時十三分

 命令は、言った人間より速く遠くへ行く。

 獅堂凱は、それを便利だと思っていた時期がある。

 今は、恐ろしいと思う。

 青石台の最上段から中段へ下りる石段は、四十七段ある。左膝の装具を着けた凱には、上るより下る方が悪い。体重が前へ落ちるたび、古い手術痕の内側で鈍い熱が広がる。

 それでも手すりは使わなかった。

 手すりの横では、担架が上がってくる。

「右を空ける」

 凱が言うと、周囲の兵が一斉に右へ寄った。

「違う。担架の右ではなく、階段の右だ。下る者は左へ」

 列が直る。

 言葉を一つ省けば、人は違う方向へ動く。

 王だった頃は、周囲が意味を補った。

 補う者が優秀だと、自分の命令が正確だと錯覚する。

「凱」

 下から時雨ミソラが呼んだ。

 淡い水色の短髪。右に赤、左に青の手袋。折り畳み担架を肩へ掛けている。右脇腹から背へ残る反証痛のせいで、歩幅は一定ではない。本人は一定に見せようともしなかった。

「その人、歩ける」

 担架の男性が言う。

「歩かせたら、呼吸が悪くなる」

 ミソラ。

「本人は歩けると言った」

 凱。

「言った。歩くと悪くなるとも説明した。運ばれるを選んだ」

「受けた」

「それ、澪の言い方」

「便利だ」

「便利な言葉は、誰が何を受けたか消える」

 ミソラは担架の足側を持ち直した。

「本人が、担架搬送を選んだ。私は呼吸状態から推奨した。介助者二人が引き受けた。あなたは階段の右を空けた」

「長い」

「命令より遅い」

「だが、戻せる」

「そこは好き」

 ミソラは担架を上へ運んだ。

 凱は下りる。

 中段の会議小屋には、すでに十七人いた。

 共同境界警備。

 天環外環隊。

 剛嶺区間保全班。

 住民の水・厨房・車両担当。

 円卓はない。

 長机を三本、コの字に並べている。正面の席だけ背もたれが高い。誰かが凱のために用意したらしい。

 凱はそこへ座らず、入口に近い低い椅子を選んだ。

 左膝が曲がり切るまで、時間がかかる。

 誰も手を出さない。

 それは配慮だ。

 配慮を、哀れみと受け取らない練習はまだ難しい。

「獅堂凱」

 天環外環隊の年長指揮官が立った。

 名札は裏返されている。

「王命を願いたい」

 部屋が静かになる。

「俺は王ではない」

「旧白冠への影響力は残っている」

「影響力と権限は違う」

「今は違いを論じている場合ではない」

「今だから論じる」

「あなたが撤退を宣言すれば、部隊は動く」

「動いた後、誰が決めたことになる」

「あなたです」

「あなたの部隊が、あなたの判断で動いた記録は」

 指揮官の口が閉じた。

 凱は相手の名札を見た。

「裏返す必要はあるか」

「所属防護です」

「名前まで守る?」

「敗北命令へ署名した者は、戦後に責任を問われる」

「だから俺へ渡す」

「あなたには、その責任を負える立場がある」

「立場を失った人間へ、責任だけ戻すのか」

 声は低いまま。

 怒鳴れば、相手は怯える。

 怯えた相手の返事は、同意ではなくなる。

「これは責任の押しつけではない」

「では、あなたの名で言える」

「現場全体を見ているのは、あなたたちだ」

「全体を見ていないから、由良の地図を使っている」

「凱」

 真琴が眼鏡の左つるを上げた。

「相手の主張を先に定義させてください。今のままでは、あなたが勝つ会話です」

「会話に勝敗を持ち込んだのはおまえだ」

「私は職業です」

「悪い職業だな」

「元上司の影響です」

 指揮官が苛立った。

「時間がない」

「具体的に」

 真壁梓。

「敵先遣車の到着予測、十四時二十分から十五時。決定に使える時間は最大六時間」

「最大ということは、最小は」

「三時間四十七分」

「三時間四十七分で、三百十二人を動かす計画が要る」

 凱。

「だから王命が必要だ」

 指揮官。

「王命は計画ではない」

「命令がなければ計画は動かない」

「計画がなければ、命令は人を落とす」

「ではあなたが計画を」

「俺は物資と人員を並べる。撤退の判断は、現地指揮が署名する」

「署名すれば、私が敗北の責任者になる」

「なる」

 凱は言い切った。

 部屋の奥で、椅子が軋む。

「だから書けと言うのか」

「違う。書くか、守るか、別の案を出すか。選ぶ。俺は、あなたの代わりに選ばない」

「冷たいな」

「王命なら温かい?」

「少なくとも部下は迷わない」

「迷わないまま置いていかれる者が出る」

「全員を連れていける保証は」

「ない」

 凱が答えると、部屋の視線が集まった。

 保証できない。

 王だった頃、最も言えなかった言葉だ。

「ないから、三本に分ける。どの道へ誰を出すか、本人、医療、経路、受入の順で決める。順は変わる。名簿は戻す。最後に空欄があれば、撤退完了とは言わない」

「敵が来ても?」

「来る」

「空欄一つのために全体を危険へ晒すのか」

「空欄が人なら、そうなる」

「名簿の誤記かもしれない」

「確認する」

「時間が」

「時間がない時ほど、誤記で人を捨てる」

 凱は胸の割れた鐘へ触れそうになり、手を止めた。

 命令前の癖。

 触れれば、周囲は次の言葉を命令として待つ。

 凱は両手を机の上へ置いた。

「俺は、十二歳の時に退却を言えなかった」

 誰も動かなかった。

「正確には、言った。遅く言った。道を一つにし、十二人を点呼から落とした。後で、その責任を岳へ押しつけた」

 迅は部屋にいない。

 それでよかった。

 迅の前で言えないからではない。

 迅がいると、周囲が兄弟の物語として聞く。

 これは、現場指揮の話だ。

「だから、今は早く言えると思うか」

 年長指揮官。

「思わない」

「では経験は役に立たない」

「失敗した人間は、正解を持つんじゃない。失敗を隠す手口を知っている」

 真琴が紙へ何か書いた。

「それは使えます」

「名言として?」

「反対尋問として」

「まだ審理じゃない」

「だから役に立つんです」

 扉が開いた。

 巌門崇牙が、頭を少し下げて入る。

 百九十三センチの巨体。石灰色の外套。腰に、失われた家の鍵。静止した床が苦手なため、椅子へ座る前に脚を一センチだけ揺らした。

「我が――」

 由良がいないのに、言葉を止める。

「剛嶺側の区間は、南稜線まで保全する」

「撤退に同意する?」

 凱。

「区間の明け渡しには同意する。剛嶺住民の移動先は、私が決めない」

「署名は」

「南稜線の安全、障害撤去、残置設備。そこまで」

「全体へは」

「署名しない」

「責任を避ける?」

 年長指揮官。

「範囲を偽らない」

 巌門の声は低く、部屋の床を震わせた。

「一人の責任者が必要だと言うなら、あなたがなるといい」

「剛嶺の城主に言われたくない」

「城主職は満了した」

「影響力は残る」

 凱が、ほんの少し口角を動かした。

「同じことを言われたな」

「便利な立場だ」

 巌門。

「便利だから、使わない」

「使えば早い」

「おまえも使わないだろ」

「私は区間へ署名する」

「俺には区間がない」

「なら作れ」

「王区間?」

「不名誉な名前だ」

「おまえの『我が民』よりましだ」

 巌門の手が腰の鍵を握った。

「今は言っていない」

「言いかけた」

「記録した?」

 七瀬が撮影機を回していないのを見て、巌門が訊いた。

「書面記録のみ。公開時刻は未定」

「私の発言は公開してよい」

「由良の区間情報と重なる部分は、本人確認後」

「私の言葉だ」

「道はあなた一人の言葉ではありません」

 巌門は反論しかけ、床へ掌を置いた。

 静かな石。

「受けた」

 彼が言うと、凱は目を細めた。

「澪の言葉が流行っている」

「便利だ」

「便利な言葉は――」

 ミソラが入ってきた。

「誰が何を受けたか消える」

「聞いてたのか」

「壁が薄い」

「医療移送は」

 凱。

「全部は無理」

 部屋がまた静かになる。

「患者三十八。歩行十六、座位九、臥位十三。介助、医療、運転で二十六。北医療路へ六十四」

「全員、移す?」

「撤退対象は移す。青石台の地元患者は別」

「何人」

「今は四。診療点は九床残す」

「敵前に病院を残すのか」

 年長指揮官。

「病院じゃない。九床の診療点。サナと佐渡を含む交代。患者が残るを選んだ。移す方が悪化する人がいる」

「防衛できない」

「防衛を医療条件にしない」

「敵に利用される」

「治療へ利用されるなら、使わせる」

「負傷兵が戻る」

「負傷者が来る」

「敵兵だ」

「症状がある」

「中立を理由に戦争を長引かせる気か」

 ミソラの右手袋が、左と逆になっていた。

 怒っている。

 それでも声は低い。

「私は戦争を終わらせる権限を持ってない。治療を止める権限も、あなたには渡さない」

「撤退命令には従うのか」

「医療区間へ署名する。移す三十八。残す四。残置物。交代時刻。全部書く。軍の完全撤退へは署名しない」

「皆、自分の範囲だけだ」

「あなたも自分の範囲を書けばいい」

 指揮官の顔が赤くなった。

 その時、外の放送柱が鳴った。

 正午でも、警報時刻でもない。

 ざらついた音。

『青石台の全員へ告ぐ』

 凱の声だった。

 正確には、凱に似せた声。

 低い。

 主語が明瞭。

 語尾を落とす。

『現地部隊は負傷者を残し、戦闘可能者を北門へ集結させよ。撤退の噂は敵の離間工作である。王は退かない』

 部屋の全員が凱を見る。

 凱は立たなかった。

 立てば、声に対抗する王の形になる。

『繰り返す。負傷者を動かすな。戦闘可能者は北門へ。王は退かない』

「偽放送」

 真壁。

「声紋は」

「照合しない」

 凱が言った。

「なぜ」

「俺の声ではないと証明しても、内容を受けた者がいる。偽物だったで終わらせれば、従った責任まで消える」

「止めます」

 梓が受信時刻を書く。

「止めるだけでは、もう聞いた人がいる」

 七瀬。

「訂正放送を」

 年長指揮官。

「凱の声で?」

「本物が否定すれば」

「また王命になる」

 真琴。

 外で足音が増えた。

 北門へ向かう者。

 診療棟へ戻ろうとする者。

 荷を積み始める者。

 命令は、言った人間より速く遠くへ行く。

 偽物なら、さらに速い。

 責任を持たないからだ。

 凱は低い椅子から立った。

 左膝が伸びるまで、一拍。

「訂正する」

「王命として?」

 真琴。

「違う。偽放送の事実と、俺に撤退発令権がないことを言う」

「それだけでは人は動かない」

「動かさない。現場責任者へ戻す」

「混乱します」

 年長指揮官。

「もう混乱している」

「あなたが命じれば、止まる」

「止まりすぎる」

 凱は扉へ向かった。