第273話 第三章「三本の伝令路」前編

五月二十一日 午前七時二分

 荷物は、届けば終わる。

 命令は、届いたという返事が戻るまで始まってすらいない。

 環玉樹は、青石台の旧計量所で、三百十二枚の札を床へ並べた。

「踏んだら配達料、三倍」

 戸口へ向けて言う。

 竜胆迅の靴が止まった。

「踏んでない」

「今から踏む足だった」

「足に未来を決めるな」

「札の未来は守る」

 迅は跨ごうとして、跨ぐ幅を測った。

 床一面に札がある。最初の一歩は空いていても、二歩目がない。

「出口が一つだ」

「だから入らないで」

「入った後に言うな」

「入口に書いた」

 迅が振り返る。

 扉の裏側に、《札作業中・足より先に口》と墨で書いてある。

「外から見えない」

「入った人が戻る時に見える」

「役に立ってない」

「戻る人には」

 タマキは緑のニット帽を押し上げた。

 床の札は三種類。

 丸い角の札。

 四角い角の札。

 三角に切った札。

 色は付けていない。

 紙の厚さも、穴の位置も違う。

「北は丸。西は四角。南は三角」

 迅が言う。

「読めるじゃん」

「見れば」

「暗かったら」

 迅はしゃがみ、一枚ずつ触った。

「丸は穴が一つ。四角は二つ。三角は三つ」

「雨で角が潰れたら」

「穴」

「穴が破れたら」

「結び目」

 札に通した紐を指で確かめる。

 北は輪結び一つ。

 西は平結び二つ。

 南は止め結び三つ。

「紙がなくなったら」

「言う」

「何を」

「北。西。南」

「声が出なかったら」

「指」

「手を怪我したら」

「足」

「両方」

「それは、札の問題じゃない」

 タマキは言った。

「医療へ渡す」

 迅は札を戻した。

「正解は一つじゃないんだな」

「一つで全部やろうとすると、壊れた時に全部なくなる」

「誰に習った」

「病院」

「病院は人?」

「大人みたいな質問するね」

「大人だ」

「十七歳」

「十四歳に言われたくない」

「十四歳だから言える」

 旧計量所の中央には、貨物秤が残っている。

 今は荷物ではなく、紙束の重さを量っていた。

 北路、六十四枚。

 西路、百七十三枚。

 南路、七十五枚。

 合計、三百十二。

 その横に、別紙が三枚。

 残置する大型設備、三基。

 北に井戸用手押しポンプ。

 西に固定式の酸素濃縮器。

 南に斜面監視の雨量計。

 人の札へ混ぜない。

 捨てる荷物の一覧へも混ぜない。

 どの設備を、誰が使い、誰が点検し、いつ再判断するかを別欄にする。

 現時点で運べない予備蓄二箱は、地図と再確認責任欄に残す。

 物を残す紙が増えるほど、その物を使う人の名前も増えた。

「三百十二枚、全部一人ずつ?」

 迅。

「一人ずつ」

「束でいいだろ」

「束が着いたら、誰が着いたか分からない」

「名簿は」

「ある。札と二つにする」

「二つともなくしたら」

「三つ目」

 タマキは壁を指した。

 三本の長い布帯。

 人名ではなく、番号と経路だけが縫い込まれている。

「個人札。経路名簿。壁の出発表。三つ」

「全部同じ情報?」

「違う。個人札は呼ぶ名と必要なこと。名簿は出発、通過、到着、返送。壁は番号と今どこまで」

「一つにしない?」

「一つにすると、持ってる人が全部持つ」

「なるほど」

「名言みたいに言わないで」

「言ってない」

「顔」

 床の向こうで、金属箱が三度鳴った。

 タマキの配達箱ではない。

 少女が結び目用の錫片を落とした音だった。

「ごめん」

 黄土色の短外套。銅色の切りっぱなしの髪。灰青の目。小柄な身体に、帯が左右で違う結び方をしている。

 少女は床へ散った錫片を、色ではなく形で拾った。

 丸。

 四角。

 三角。

「葦名」

 タマキが呼ぶ。

「はい」

「迅。葦名透子。十五歳。西採石路の伝令」

「と、とう……葦名透子」

 自分の名前だけ、最初の音が少し引っかかった。

 迅は待った。

 代わりに言わない。

「竜胆迅」

「知ってる。七歩の人」

「今日は紙の人」

「弱そう」

「帰る」

「待って、仕事ある」

 透子が笑った。

「色じゃなくて形で言って」

「言ってない」

「顔が紺色だった」

「それは服」

「冗談」

「分かりにくい」

「七歩より?」

「だいぶ」

 タマキは二人の間へ錫片を置く。

「試験する。北の命令札。何が必要」

 透子は丸い札を取った。

「送り主」

「青石台撤退現場指揮」

「まだ決まってない」

「じゃあ空欄」

「空欄の命令を運ぶ?」

 透子の手が止まった。

「運ばない」

「どうして」

「変更が出た時、誰へ戻せばいいか分からない」

「受取人」

「北医療受領所の当直責任者。名前は未確認」

「それも駄目」

「役職なら」

「交代したら、受けた人の名前を返す。目的」

「六十四人の受入確認と、医療物資一箱の封確認」

「道」

「北医療路」

「変更できる?」

「できる。誰が変える」

「送り主と、経路責任者と、本人」

「三人全部?」

「人による」

「曖昧」

 透子は札の紐を一本解いた。

「変更、誰から誰へ?」

「それを札に書く」

「長い」

「短くして間違える?」

「長くて届かないよりいい?」

「どっちも駄目」

 二人は睨み合った。

 迅が言う。

「仲良さそうだな」

「どこが」

 二人の声が重なる。

「そこ」

 午前八時二十分。

 南野は、旧計量台の受付席で、紙の匂いを嗅いでいた。

 額の縫合痕は薄い線になった。頭部外傷から一か月近い。歩ける。話せる。けれど、運転は禁止されたままだ。

「油紙」

 南野が言う。

「古い」

「匂いで分かる?」

 タマキ。

「鼻で運転してたわけじゃない」

「じゃあ何で嗅ぐ」

「紙を渡されると、だいたい燃料か薬か命令の匂いがする」

「これは」

「命令になりたがってる紙」

「空欄だから?」

「空欄は、何にでもなりたがる」

 南野は椅子から立とうとし、机へ手をついた。

「めまい?」

「立ち方が悪かった」

「何秒」

「二秒」

「ミソラへ」

「言わない」

「記録」

 タマキは受領台の欄へ書いた。

《八時二十一分。南野、立位時ふらつき二秒。本人は否定》

「否定まで書くな」

「言った」

「運転手に戻れなくなる」

「今、受領台の人」

「肩書が駐車してる」

「車じゃなくても働けるって言ってた」

「夢は、もう少し遠くで叶うものだ」

「受領台、嫌?」

「嫌じゃない」

「じゃあ座って」

「命令?」

「転ぶ前の提案」

 南野は座った。

「頭が治ると、子どもに使われる」

「治ってないから使う」

「厳しい」

「運転してない南野さん、必要」

 冗談が止まった。

 南野は札を一枚取り、番号を確かめた。

「受けた」

 偽命令で車を奪われた男が、今は命令の往復を記録する。

 運転席の代わりに、受領台。

 前へ進まない仕事だ。

「札は四つ折りにする」

 南野が言う。

「どうして」

「一枚で四つの時刻」

 紙を折る。

「出発。区間通過。到着。返送」

「返送が戻った時は?」

「裏」

「濡れたら」

「油紙袋」

「汗」

「身体へ付けない。外套の内側へ吊るす」

 迅が口を挟む。

「走ると揺れる」

「運転手の意見としては、揺れる物は壊れる」

「じゃあどこ」

「肩甲骨の間。紐を左右へ分ける。身体に沿わせる」

「取れない」

「一人で取らない。受領者が外す」

「捕まったら」

「一人で隠せない」

「弱い」

「一人で隠せる札は、一人で書き換えられる」

 迅が黙る。

 南野は少し得意そうに鼻を鳴らした。

「車を降りても、道は知ってる」

「名言にするには、もう一台足りない」

「迅、おまえは歩いて帰れ」

「いつもそうしてる」

 午前十時十一分。

 三本の経路を、同じ歩幅で試すことはできない。

 北医療路は、タマキが荷車へ乗った。

 車椅子の車輪と同じ高さで、路面の段差を見るためだ。

 南野は運転しない。

 助手席にも乗らない。

 受領台に残る。

 代わりに瀬尾直が、手押しの空担架を押した。三本の水筒が腰で鳴る。

「水、いる? いるなら」

「今はいらない」

 タマキ。

「後で、いる?」

「後で聞いて」

「分かった。後で聞く」

「忘れない?」

「水のことは」

 北路は幅がある。

 だから安全に見える。

 道の左は崖。

 右は雨水溝。

 車輪を溝から避ければ、崖へ寄る。

 崖から離せば、溝の蓋が一部ない。

 三百メートル先に、白い反射板。

 敵の観測から見える。

「担架、ここで止まる」

 瀬尾が言う。

 路面に、砲片で開いた穴。

「回る?」

「車輪一個ずつなら」

「患者が傾く」

「板を置く」

「誰が戻す」

 背後から守屋。

「置いた板」

「帰りの車が拾う」

 瀬尾。

「帰りがなければ」

「最後の北殿」

「二人。誰が板を持つ」

「決める」

「今」

 守屋は白墨で路肩へ印を付けた。

「板二枚。固定索一。設置七分。撤去三分。北殿二人のうち一人が回収。もう一人は警戒」

「追撃が来たら」

 タマキ。

「板を捨てる」

「橋は残すのに」

「板は戻せる。人は戻らない」

「捨てた板、誰が拾う」

「残置一覧」

「名前」

「俺」

 守屋は自分の名を書いた。

 北路の試験は、早く終わらなかった。

 坂の角度。

 車輪の幅。

 酸素瓶の固定。

 敵から見える区間の通過時間。

 休止点。

 雨宿り。

 戻る札の受渡し。

 安全な広い道は、説明する項目が多い。

 正午前に西へ移る。

 西採石路は、透子が先頭。

 迅が後ろ。

 由良は崖上を並走する。

「丸角、北。四角、西。三角、南」

 透子が復唱する。

「色は?」

 迅が訊く。

「言わない」

「外套、黄土色」

「それは自分で選んだ」

「見える?」

「黄色は見える。でも、見えるから色だけでいいにはならない」

「分かった」

「すぐ分かると、嘘っぽい」

「じゃあ分かってない」

「それも嫌」

「面倒だな」

「色じゃなくて形で言って」

「面倒の形って?」

「迅さん」

 由良が崖上から笑う。

「伝令に嫌われると、道が長くなるよ」

「最短路を使う」

「受け入れがなければ最短でも着かない」

 赤索の一回目が崩れたことを、由良は隠さない。

 西路は石壁に挟まれている。

 見つかりにくい。

 声も届きにくい。

 百七十三人が一列になれば、先頭と最後尾の差は二十分を超える。

「札は前から後ろへ?」

 迅。

「駄目」

 透子。

「どうして」

「途中で抜けた人が分からない。十七人ずつの小束。十組と三人」

「百七十三、十七で割れない」

「だから最後は二十人」

「適当」

「適当じゃない。介助が多い組を二十人。伝令一人、補助二人」

「殿八人は」

「百七十三の中」

「別札?」

「途中までは普通。役割だけ裏に。最後まで残ったからって、帰還人数へ後で足さない」

 透子は四角札の裏へ、小さな横棒を刻んだ。

「これ、殿」

「敵に分かる」

「紐の内側。受けた人だけ開く」

「捕まったら」

「札を取られた時点で全部分かる。殿だけ隠しても意味ない」

「判断するんだな」

「伝令は内容を判断しない」

「今した」

 透子の指が止まる。

「……札の作り方は、伝令の仕事」

「要約も?」

「命令を短くするだけ」

「削った物は」

「削ってない」

「さっき色を削った」

「代わりに形を足した」

「じゃあ、判断してる」

「迅さん、走って」

「議論に負けたら運動させる?」

「道の確認」

「命令?」

「仕事」

 迅は走った。

 西路の中ほどで、雨水が細い滝になっていた。

 昨夜より水量が増えている。

 幅一・二メートルの保守路へ、斜めに落ちる。

 迅は一度、手を伸ばして水へ触れた。

 冷たい。

 勢いは強くない。

 けれど、札を胸へ入れれば汗と雨で濡れる。

 透子が油紙袋を背へ吊った。

「ここで試す」

「中身は」

「白紙」

「白紙を運ぶ?」

「濡れたら分かる」

「誰から」

「私」

「誰へ」

「向こうの由良さん」

「何のため」

「袋の試験」

 タマキの三問を、透子が先に答える。

「受けた」

 迅が袋を背負った。

 水の下へ入る。

 一歩。

 二歩。

 靴底が苔で滑る。

 右手を壁へ付く。

 環指と小指の感覚が薄い。

 左手へ重心を移す。

 七歩の形にはしない。

 暴力の源は水ではない。

 水を殴っても、札は乾かない。

 六歩で滝を抜けた。

 由良が袋を外す。

「外、濡れ。中、乾いてる」

「背中は」

 迅。

「汗」

「袋の裏」

「少し湿ってる」

「吊り方を変える」

 透子が追いつき、紐を交差から平行へ直した。

「肩甲骨へ付けない。隙間を作る」

「走ると叩く」

「布を二枚」

「重くなる」

「紙より?」

「軽い」

「じゃあ決まり」

 迅が言う。

「俺の背中で決めた?」

「試験した人の背中」

「料金」

 タマキが後ろから来た。

「迅が払う」

「どうして」

「汗が多い」

「それで料金変わる?」

「包装追加」

 迅は赤い紐を押さえた。

「配達は戦いより高い」

「戦い、料金取ってないでしょ」

「地下試合は取ってた」

「昔の仕事」

「今も殴れば食える」

「今日は紙」

 透子が言う。

「弱そう」

「二回目だぞ」

「届くまで弱い」

 午後一時二十六分。

 三本の札は、明るい場所では間違えなかった。

 だからタマキは、明かりを消した。

「何してる」

 迅。

「夜」

「昼だぞ」

「夜にしてる」

 旧計量所の窓へ毛布を掛け、扉の隙間へ泥布を詰める。室内は、手を伸ばしても指が見えない暗さになった。

 透子が右手へ三本の札を持つ。

「色を言う人、失格」

「誰が試験する」

「札がする」

「紙が返事する?」

「間違えた時だけ」

 タマキは床へ、北、西、南の三箱を置いた。

 北は丸い穴。

 西は四角。

 南は三角。

「目を閉じる必要ある?」

 瀬尾。

「暗いから同じ」

「閉じた方が怖くない」

「閉じていい」

 一人ずつ、札を触って箱へ入れる。

 最初の十人は全問正解。

 十一人目が、西の札を南へ入れた。

「何で」

 透子。

「角が三つに感じた」

「欠けてる」

 札の一角が、濡れて柔らかくなっていた。

 四角の一つが潰れ、触れば三角に近い。

「失敗」

 タマキが言う。

「作った人?」

「使う仕組み」

「誰の責任」

「今決める」

 透子は四角札の中央へ、短い横棒を縫い付けた。

「角が潰れても、棒がある」

「殿の印と同じ」

 迅。

「殿は裏。これは表」

「暗いと裏表」

「紐の結び位置を変える」

 透子は上辺へ一つ、下辺へ二つの結びを付けた。

「形が壊れた時の二番目」

「三番目は」

 澪。

「声」

「高音は届かない」

「低い復唱」

 透子が北札を持つ。

「一つ結び、丸穴、北」

 澪が低く繰り返す。

「一つ、丸、北」

「西」

「二つ、横棒、四角、西」

「南」

「三つ、切欠き、三角、南」

「短く」

「削ると」

「伝令は息が切れる」

 透子は考えた。

「一丸北」

「二角西」

「三欠南」

 澪が繰り返す。

「意味、共有」

「笛にする?」

「しない。声」

「能力を」

「使う前提にしない」

 暗闇の中で、次の試験を始める。