第370話 第三章「撮る者、撮られる者」後編
ユウ。
「足りない?」
「誰が優先度を変えたか」
イオは五つ目を書く。
《優先度変更者》
端末は、管理番号しか返さない。
人の名は出ない。
「ここから」
イオが言う。
「誰が見るかを、見る」
綺理が訂正する。
「見ないで」
「難しい」
「だから仕事になる」
午前七時三十四分。
監視室の朝食は、画面の下から配られた。
固いパン。
豆の塩煮。
目薬。
目薬は食事ではないが、同じ盆に載っている。
「一日三回」
配膳係が言った。
「食前?」
イオ。
「勤務前、勤務中、勤務後」
「食事より多い」
「食事は二回」
「十二時間で?」
「夜勤は三回。起きてる時間が長いから」
「計算が逆」
「規則は、胃より時計を見ます」
坂下ユウはパンを半分に折り、片方を机の引き出しへ入れた。
「後で食べる?」
イオ。
「帰り」
「夕食は」
「宿舎」
「量」
「相談員は飯まで見るの」
「見ないで訊いた」
「もっと嫌」
ユウは引き出しを閉めた。
隣の伏木レンは、目薬を差さない。
腰痛で夜間警備から移った男。瞬きをするたび右目だけ遅れる。
「使わない?」
綺理が訊く。
「眠くなる」
「目薬で?」
「差すために上を向くと、首が痛い。首が痛いと眠れない。眠れないから眠い」
「目薬が悪い?」
「椅子が悪い」
「椅子は足台だけ直した」
イオ。
「一人直すと、全員が文句を言う」
伏木はパンを噛む。
「文句、無料」
ユウ。
「希望は高い」
「真似しないで」
「勤務室で流行った」
イオは空いている四十一番席へ座った。
座面が前へ傾いている。
長く座れば、身体は画面へ近づく。
「見たい人用?」
「寝ない人用」
伏木。
「腰が壊れる」
「先に目が壊れる」
「どっちが早い」
「競争じゃない」
綺理は机の下へしゃがみ、配線束を見た。
映像線。
警報線。
勤務評価線。
配給優遇線。
四本が同じ管へ入っている。
「切ると、全部止まる?」
「切るなよ」
伏木が初めて声を強めた。
「質問」
「能力者は、分からないものをすぐ止める」
「私は使わない」
「使わなくても、持ってる」
「何を」
「止められる立場」
綺理は膝を伸ばした。
「あなたは、止められない?」
「勤務中に席を立てば、評価が下がる。評価が下がれば、宿舎の更新が遅れる。三回で配給補助を失う」
「契約に」
「書いてある」
「読んだ?」
「読んだ。だから、ここにいる」
「同意した?」
「署名した」
「同じ?」
「給料日は、同じ」
伏木の言い方に笑いはなかった。
画面の一つで、露店の女が箱を運んでいる。
別の画面では、同じ女が昨日、箱を落とした映像。
《転倒傾向》
注意枠が出る。
伏木が枠を消した。
「どうして」
イオ。
「昨日は雨。今日は乾いてる」
「記録」
「ない」
「変更理由」
「入力欄がない」
「さっきも」
「何が」
「現場判断を残す欄がない」
「残すと、判断が遅れる」
「残さないと、誰が助けたかも間違えたかも分からない」
「助けるのに、名前が要る?」
「次に同じ人が枠を付けられた時、終わらせる人が要る」
伏木は露店の女を追う画面を一度見た。
「終わらせたら、次に転んだ時、俺の責任だ」
「続けても、店へ来なくなったら」
「俺の画面には出ない」
「だから責任じゃない?」
「だから、評価されない」
イオは答えを飲み込んだ。
監視員が冷たいのではない。
評価表が、見える事故だけを数えている。
見られたくなくて遠回りした足。
警戒枠を嫌って店を閉じた日。
検索されたくなくて薬を受け取らなかった人。
画面から消えた結果は、監視室では成功に見える。
午前七時四十一分。
優先度三の通知が、四十七件同時に入った。
《危険人物との類似》
同じ灰色の帽子。
同じ長さの上着。
同じ方向へ歩く。
検索対象は、昨夜、食料庫の鍵へ触れた男だった。
四十七の枠が、四十七人の生活を止める。
監視員が一人ずつ外していく。
「帽子を脱いだ」
「左手に杖」
「子ども連れ」
「歩幅が違う」
「昨日の映像と靴底が違う」
判断の声が重なる。
薄墨の自動順位は、若い男を上へ置く。
走っている者。
顔を隠した者。
監視装置を見上げた者。
「見上げると怪しい?」
イオ。
「レンズ位置を確認するから」
ユウ。
「知らない人は見上げない?」
「見られてることを忘れてる」
「忘れた方が安全評価、高い?」
「そうなる」
四十七番目の画面に、白髪の老人がいる。
灰色の帽子。
上着。
歩幅。
一致率八十三。
ユウが除外しようとして、止まる。
老人の右手に、食料庫の鍵と同じ型の金具。
「近い」
伏木。
「顔が違う」
「帽子で半分隠れてる」
「昨日の男は右耳が出てた。今は左」
「反転映像かもしれない」
「誰が決める」
残り二秒。
ユウは通報を押さない。
一秒。
老人が金具を使い、共同井戸の蓋を開けた。
中から布袋を取り出す。
監視室の赤枠が濃くなる。
「盗難」
伏木。
「待って」
老人は袋から塩を一握り取り、井戸の縁へ撒いた。
濡れた苔。
滑り止め。
次に蓋を閉める。
鍵は井戸番の物だった。
ユウが枠を消した。
自動端末が警告する。
《高一致対象を除外しますか》
「する」
《理由》
選択肢。
一、誤認。
二、対象喪失。
三、危険解消。
「四、仕事中」
ユウは手書き欄を探す。
ない。
「一でいい」
伏木。
「誤認したのは顔だけ。金具は合ってた」
「三」
「危険じゃなかった」
「じゃあ、何」
「分からない」
ユウは選ばない。
端末が十五秒後、自動で《対象喪失》へ分類した。
「嘘になった」
「誰の」
イオ。
「私の」
「選んでない」
「席の番号が付く」
「反対を書ける?」
「別紙なら」
「書く?」
ユウは右人差し指の青い爪を見た。
画面へ映る色。
勤務番号より先に、人から覚えられる色。
「書く」
紙へ記す。
《七時四十二分》
《高一致対象を除外》
《行為は共同井戸の滑り止め作業》
《端末分類・対象喪失に不同意》
《三十八番席・坂下ユウ》
名前を書く手が、少し震えた。
「初めて?」
イオ。
「何が」
「端末と違うことを、名前で残す」
「事故の時は残せなかった」
ユウの声が低くなる。
そこから、火傷した二人の話へつながった。
見えたのに見なかったこと。
能力が消えた後も、見続ける仕事を選んだこと。
イオは、慰める順番を選ばなかった。
見続けても戻らない、と言った。
仕事を変えても消えない、と言った。
ユウは怒らなかった。
許しもしなかった。
監視室の時計が、午前七時四十七分へ進む。
休止予定まで、一分。
午前七時四十八分。
ユウの休止予定時刻。
警報が一つ鳴る。
ユウは立ち上がらない。
「休止」
イオ。
「優先度一」
「交代は」
「遅れてる」
「誰が決める」
「私」
「休むか」
「見る」
「受けた。繰越時刻を書く」
イオは紙へ記録する。
《七時四十八分開始予定》
《本人判断で延期》
《理由:優先度一》
《代替者未到着》
優先度一は、火災ではなかった。
集合住宅の窓から、白い煙。
監視員が拡大する。
湯気。
住民が鍋を窓際へ置いただけだった。
警報は解除される。
ユウが立つ。
「休む」
「何分」
「十二」
「延びた二分は」
「後へ回さない。今、十四」
ユウは自分で決めた。
監視室の勤務表には、まだ十二分としか書かれていない。
イオは十四分と記録した。
たった二分。
能力のない明日は、大きな制度より先に、二分の椅子から始まることがある。