第369話 第三章「撮る者、撮られる者」前編
九月十六日 午前六時五十八分
監視室には、窓がなかった。
窓の代わりに、百九十二枚の画面がある。
九十六節点。
一つにつき二画面。
左は現在。
右は十二秒前。
事故が起きた時、見逃した自分と、見逃す前の自分を並べるためだと説明された。
水科イオは、その説明が嫌いだった。
「十二秒前の私へ、何を頼めるの」
坂下ユウは三十八番席へ座りながら答えた。
「もう一回見ろって」
「戻って見てる?」
「見てる」
「間に合う?」
「間に合わない時もある」
「その時は」
「右の画面を、もっと見る」
ユウの踵の下には、昨日までなかった木の足台が置かれていた。
伏見轟が夜のうちに作った。
持ち主の許可を取らず置いたため、真琴から紙が一枚貼られている。
《試用設備》
《使用拒否可》
《高さ変更は本人が行う》
《設置者:伏見轟》
ユウは紙の上へ鉛筆で書き足した。
《角が痛い》
轟は今朝、角を丸く削り直した。
次にユウは書いた。
《丸すぎて靴が滑る》
今、轟は三度目を作っている。
「本人へ先に寸法を聞けば、一回で済んだ」
イオが言う。
「聞かれたら、たぶん《何でもいい》って言った」
ユウ。
「どうして」
「足台一個で、面倒な監視員って思われたくない」
「もう二回書いてる」
「置かれた後なら、文句は無料」
「最初の希望も無料」
「希望は高い」
ユウは右手の人差し指を画面下の確認板へ置いた。
青い爪だけが、黒い机の上で目立つ。
「勤務開始。坂下ユウ。三十八番席。午前七時から午後七時。休止予定、七時四十八分から八時」
確認板が光る。
《受領》
ユウの右隣は、四十代の男だった。
能力喪失者ではない。元は夜間警備。腰を痛めて監視室へ移った。
左隣は十六歳の少年。
誓痕はまだあるが、反証で片目の焦点が揺れるため、能力を使わない職へ回された。
同じ画面。
違う身体。
「全員、元能力者じゃない」
イオ。
「多いだけ」
「何人」
「今日の一班、三十二人。能力喪失が二十一。減衰中が六。能力なしが五」
「昨日の契約は《能力喪失者優先》」
「優先は、限定じゃない」
「面接で何を聞かれた」
「能力名。喪失日。反証歴。座っていられる時間」
「見たいかは」
「聞かれない」
監視室の正面に、薄墨影治の姿はない。
運用責任者の席もない。
壁の上部へ、細い帯表示が流れている。
《閲覧優先度は中央運用により自動調整されます》
「中央運用って、誰」
イオが訊く。
「誰でもない」
ユウが答えた。
「端末」
「端末が雇用契約へ署名した?」
「しない」
「優先度を変えた時、名前は残る?」
「管理権限の番号」
「人の名前は」
「見たことない」
午前七時一分。
三十八番席の左画面に、東部十二街路が映る。
店を開ける女。
犬を散歩させる男。
早朝配給から戻る子ども。
右画面には十二秒前の同じ通り。
ユウは視線を画面中央へ固定した。
「全部見るの」
「全部は無理」
「どこを見る」
「動いたところ」
「全員、動く」
「普通じゃない動き」
「普通は誰が決める」
「朝から真琴みたい」
「褒めてない」
「私も」
ユウは画面右下へ目を移した。
配給袋を持つ子どもが、路地へ入る。
優先枠が黄色へ変わる。
《年少者単独》
《登録外経路》
ユウは拡大しない。
子どもは路地の壁際で立ち止まり、靴紐を結んだ。
十二秒後の画面でも、靴紐を結んでいる。
優先枠が消える。
「今、顔まで見られた」
イオ。
「拡大してない」
「元の画角に入ってる」
「入る場所を歩いた」
「それを本人は知ってる?」
「街に札がある」
「全部読める高さ?」
「知らない」
「子どもの目の高さは」
「知らない」
ユウの声が硬くなる。
「私、監視員。標識係じゃない」
「仕事を分けた結果?」
「分かれてる方が楽」
「誰に」
「質問多い」
「仕事」
「相談員は、人が働いてる時に隣で責めるの?」
「責めてるように聞こえた?」
「聞こえた」
「受けた。質問を止める。七時十二分まで」
「十二分?」
「右の画面と同じ」
「嫌な真似」
「今のは責めた?」
ユウは一瞬、口元を緩めた。
「半分」
イオは三十八番席から二歩離れた。
質問を止める。
見る。
監視員を見ることも、監視だった。
七時十二分。
ユウの画面右上へ、細い白枠が出た。
《急速運動》
《住居内・危険の可能性》
路地に面した二階窓。曇り硝子の向こうで、影が何度も上下している。
「拡大しますか」
端末が訊く。
ユウは押さない。
「人が倒れてるかも」
隣席の男。
「窓の中」
「だから見えない」
「見えないから、拡大?」
「危険なら」
白枠が黄色へ変わる。
《判断遅延》
ユウは現地呼出だけを送った。音声は室内へ入れず、窓下の公衆端末を三回鳴らす。
影が止まる。
窓が細く開いた。
濡れた布が一本、外へ出る。
女の手が物干し竿へ掛けた。上下していたのは、寝具から水を絞る動きだった。
端末は警告を消さない。
《危険なしと判断しますか》
「しない」
ユウ。
「危険だった?」
イオ。
「分からない。布だった」
「危険なしを押さない理由」
「家の中、見てないから」
「未確認になる」
「そうする」
ユウは《現況未確認・公衆呼出へ反応あり》と入力した。
《未確認件数は勤務評価へ反映されます》
画面の端へ、赤い点が一つ増える。
「見なかった罰」
イオが言う。
「見て間違えた罰は?」
「通報過多」
「点、付く?」
「安全熱心って点が付く」
ユウは赤い点を、青い爪で隠した。
「全部見る人が、よく働く人になる」
「全部を見られる?」
「無理」
「じゃあ、無理を隠せる人が、よく働く人?」
ユウは答えなかった。
曇り硝子の窓へ、二枚目の布が掛かる。
今度は枠が出ない。
同じ動きを端末が覚えたのか、担当者が優先度を下げたのかは表示されなかった。
ユウは、七時十二分の判断と、七時十四分の無反応を別々に記録した。
「端末が学んだ時、先生の名前は残る?」
イオ。
「残らない」
「生徒だけ残る」
「誰が生徒」
「見られた人」
ユウの休止時刻まで、あと三十四分。
質問は止めても、画面は止まらなかった。
午前七時十五分。
石英綺理は、画面へ背を向けていた。
透明な雨衣の内側へ、小瓶が並ぶ。
右目に六角形の保護眼鏡。
白と黒を一本ずつ編んだ長い三つ編み。
監視室の見学者用椅子を、入口近くへ移して座っている。
「見ないの」
イオが訊く。
「頼まれてない」
「保管の相談」
「内容を見ないで、保存状態を確かめられるか」
「できる?」
「記憶瓶なら」
「映像は違う?」
「瓶は、一人が預ける。一つの名前と条件が付く。監視映像は、歩いた人全員が入る。誰も預けてない」
綺理は空の小瓶を指先で回す。
「同じにしたら、私が街を預かることになる」
「嫌?」
「怖い」
「どっち」
「両方」
監視室の奥で、短い警報が鳴った。
《優先度二》
《転倒の可能性》
ユウの画面ではない。
十四番席。
高齢の男が、階段下で座り込んでいる。
監視員が拡大し、呼出を入れる。
男は手を振る。
《応答あり》
近くの案内員が到着する。
男は立たない。
薬袋を見せる。
案内員が水を渡す。
監視室の空気が、一度緩む。
「助かった」
イオが言う。
「たぶん」
綺理。
「見たから」
「見た後、誰かが行ったから」
「見るのは要らない?」
「要る場面もある」
「嫌な答え」
「便利な答えの方が嫌」
綺理は画面を見ないまま、警報の時刻だけ手帳へ書いた。
「何を記録した」
「十四番席。七時十七分。転倒疑い。内容は見てない」
「役に立つ?」
「後で、保存された時間と削除された時間を確認できる」
「人が倒れた理由は」
「見た人が記録する」
「見た人が嘘をついたら」
「別の人が、見る?」
「戻った」
「そう」
綺理はガラス棒を一本鳴らした。
「見ないだけじゃ、守れない」
「預かり物、使う?」
「使わない」
「どうして」
「誰も、私に監視映像を預けてない」
答えは早かった。
「能力で隠せば、決めたのは私になる」
「じゃあ技術で」
「技術も、決める」
「何が違う」
「技術は、他の人が止められるように作れる」
イオは綺理を見る。
「能力も止められる」
「私が止める」
「技術は」
「鍵を分けられる」
「誰へ」
「まだ決めない」
綺理は空瓶へラベルを貼った。
《内容を見ない保管・試験》
「名前、長い」
「短くすると、見ないだけになる」
「見ない当番」
ユウが、画面を見たまま言った。
聞いていた。
「当番なら、交代する」
「見ないだけで給料が出る?」
「出して」
「誰へ頼む」
「見る仕事を作った人」
「薄墨?」
「名前は契約にない」
ユウの青い爪が、確認板を一度叩いた。
優先表示が赤へ変わる。
《危険行動》
《東部三街路》
画面に、男が二人。
一人がもう一人の胸倉をつかんでいる。
ユウは拡大した。
音声はない。
掴まれた男が笑う。
掴んだ男も笑う。
肩を叩く。
「友達?」
イオ。
「分からない」
ユウは通報を保留する。
赤枠が点滅する。
《三秒以内に判断》
一。
二。
掴んだ男が、相手の襟を離す。
相手はよろける。
笑っていない。
三。
ユウは通報を押した。
「遅い?」
「分からない」
男たちは路地へ入る。
次の節点へ映るまで、七秒。
画面が切り替わる。
一人だけが出てきた。
「もう一人」
ユウが検索を掛ける。
路地の入口。
出口。
近隣三節点。
見つからない。
「案内員」
イオ。
「通報済み」
「近い人」
「端末が選ぶ」
「誰が近いか、画面で分かる?」
「登録案内員だけ」
「住民は」
「勝手に行かせない」
ユウの声が速くなる。
七秒。
十二秒。
二十秒。
案内員が到着する。
路地の奥で、男が倒れていた。
胸倉をつかまれた方。
頭から出血。
もう一人はいない。
監視室の優先度が一斉に上がる。
《負傷者》
《加害疑い》
《対象検索》
九十六節点が、灰色の上着を探し始める。
昨日の少年も灰色だった。
似た上着の人間が、二十七人枠へ入る。
「違う」
ユウが一人ずつ外す。
歩幅。
身長。
靴。
肩。
右画面の十二秒前へ戻る。
「速い」
イオ。
「前は、もっと速かった」
「能力」
「熱が残ってた」
ユウは初めて、自分の能力を話した。
「人が通った後、三秒だけ床の熱が線に見えた。壁の向こうは見えない。名前も分からない。でも、どっちへ行ったかは分かった」
「いつ失った」
「三月二日、午前十一時四分」
イオは時刻を覚える。
「見落とした事故は」
ユウの指が止まる。
「誰から聞いた」
「契約に《事故後適応支援》ってあった」
「契約は、人の中身まで書かない」
「聞いていい?」
「勤務中」
「後で」
「後でも、答えるか分からない」
「分からないまま予約する」
ユウは二十七人目を外した。
加害疑いの男は見つからない。
薄墨の声が、監視室の帯表示から流れた。
『優先度を更新する』
誰も呼んでいない。
『東部三街路の全住民履歴を、過去七十二時間まで展開』
ユウの手が止まる。
「必要ない」
『加害者が生活圏へ戻れば、次の被害を防げる』
「今の服と歩幅で探す。家族まで要らない」
『三十八番席。判断遅延、二十二秒』
「二十二秒で、人を二十七人外した」
『一人が倒れた』
ユウの顔から色が引く。
薄墨は、責める声を出さない。
事実だけを置く。
『閲覧範囲を拡張する』
画面へ、家の出入りが並ぶ。
灰色の上着の人間。
家族。
食料。
帰宅時刻。
診療所。
「止めて」
ユウ。
『捜索中だ』
「私の席で見るな」
『席は運用網の一部だ』
「私が見てる」
『だから責任を持て』
「責任って、全部見ること?」
『見なかった一人が、次を殴る』
イオが帯表示へ近づいた。
「見た二十七人が、明日殴られたら」
『比喩は記録できない』
「生活を見られて仕事を失う。家族へ疑われる。診療を避ける。それは数える?」
『起きたら』
「起きる前に見るのはいいのに?」
薄墨の声が止まる。
ユウは画面を一枚閉じた。
すぐ自動で開く。
もう一枚閉じる。
開く。
「手動停止権限なし」
ユウが笑った。
笑いは乾いていた。
「見る責任はある。見ない権限はない」
綺理が画面へ背を向けたまま訊く。
「何を見たくないの」
「家」
「誰の」
「関係ない人の」
「何を守りたい」
「仕事」
「返してほしい」
「画面を閉じる権限」
綺理はラベルへ書く。
《見る人が閉じる》
イオは時計を見る。
午前七時二十九分。
「ユウ。今から、質問する」
「十二分、終わった?」
「終わった」
「聞いて」
「この仕事を残したい?」
「給料は」
「今と同じを要求する」
「要求だけ?」
「まだ」
「医療補助」
「残す」
「座る仕事」
「ある」
「画面を見ない」
「選べる」
「事故が起きたら」
「誰が見なかったかだけじゃなく、何を見ないと決めたかを記録する」
「責任は」
「分ける」
「逃げる言葉」
「そうなることもある」
「ちゃんと言うんだ」
「言わないと、後で自分が困る」
ユウは青い爪を確認板から離した。
「見ないで済む仕事へ、移りたい」
「いつから」
「今日」
「今日、制度はない」
「じゃあ、明日」
「明日も、たぶんない」
「たぶんは嫌いな人がいる」
「私じゃない」
「知ってる」
ユウは右画面の十二秒前を見る。
そこには、まだ自分が青い爪を確認板へ置いている。
「三月二日。能力を失った日」
ユウが言う。
「事故は、その前」
イオは黙る。
「二月二十六日。工場の見学会。私は熱の線を見せる係だった。子どもが喜ぶから、同じ道を三回走って、線を濃くした」
「熱の線は濃くなる?」
「ならない。私が上手く見せた」
ユウの青い爪が、机を一度掻く。
「その間、裏の配管が裂けた。熱は見えてた。見学の線と重なって、私は演出だと思った。二人、火傷した」
「あなたが裂いた?」
「違う」
「止める担当だった?」
「違う」
「見えた?」
「見えた」
「だから、全部あなたの責任?」
「違うって言ってほしい?」
「何を言ってほしいかは、ユウが決める」
「嫌な相談員」
「七時三十一分。初回面談の評価に書く」
ユウは笑った。
今度は、少し音があった。
「見えたのに、見なかった。だから、能力が消えた後も、見続ける仕事を選んだ」
「罰?」
「給料も出る」
「罰は給料が出ない?」
「出たら仕事」
「仕事なら、辞められる?」
「辞めたら、見なかったことになる」
「ならない」
イオは即答した。
自分にも言う。
「能力を失っても、使った記録は消えない。仕事を変えても、火傷した二人は消えない。見続けても戻らない」
「何をすればいい」
「私には決められない」
「相談員なのに」
「相談員だから」
イオは工具箱を開けた。
止まった時計。
配線札。
色灯。
遮光板。
「見ない仕事を一つ作る。ユウがやるかは、その後決める」
「今日?」
「今日、試す。終業は午後七時」
「そこまでに?」
「時間を言うと、能力だと思う?」
「思う」
「今日は使わない」
「できなかったら」
「できなかった時刻を書く」
ユウは三十八番席の右画面を消せない。
十二秒前の自分が、ずっと見ている。
イオは画面の横へ、小さな板を立てた。
《閲覧せず監査できる項目》
《保存開始時刻》
《削除予定時刻》
《閲覧者番号》
《閲覧目的》
《画面内容は見ない》
「四つ」