第368話 第二章「監視同意票」後編

 支柱の下へ薄い革を一枚入れ、留め具を二穴緩める。

 子どもは起きない。

 登録済み列が一人進む。

 職員は、男の登録札を読み取った。

《協力点数・高》

《受領優先》

 薬袋と配給箱が出る。

 男は受け取り、真琴へ言った。

「俺は監視に賛成だ」

「受領しました」

「脅されてない」

「それも受領しました」

「でも、娘が大きくなって嫌だと言ったら」

 男は言葉を探した。

「その時、昔の映像を消せるのか」

 窓口職員が口を開く。

「保存期限は安全評価により――」

「あなたへ聞いてない」

 男は真琴を見た。

「今の制度では、一括削除を本人だけで決められません」

「じゃあ、賛成した俺が、娘の後まで決めるのか」

「そうなる危険があります」

「先に言え」

「票には――」

「小さい字で?」

 スエが鼻を鳴らした。

 男は薬袋を持ったまま、登録札を返さない。

「今日は使う。明日は考える」

「登録は一日単位ではありません」

 窓口職員。

「じゃあ、何日単位だ」

「実証期間終了まで」

「いつ」

「未定です」

「未定を期間って呼ぶな」

 真琴は、同意票の下端へ赤鉛筆で線を引いた。

《終了日なし》

 登録拒否列の一人は、波佐間啓吾だった。

 南環市場の硝子店主。

 片目へ透明な保護片を掛け、荷車に割れ止め布を積んでいる。

「市場の窓を守るため、夜間だけ監視は欲しい」

「拒否列にいます」

 真琴。

「住宅の窓まで映す常時監視は拒否した。票には、一部同意の欄がない」

「口頭では」

「窓口が閉じてる」

 波佐間は十一時の札を指した。

「夜に来れば、一部同意を聞いてくれる?」

 職員は答えにくそうにする。

「登録か拒否か、どちらかです」

「硝子は全部透明か、全部不透明かの二種類しかないと思う?」

「私は硝子店では」

「知ってる。だから訊いた」

 波佐間は荷車から三枚の小板を出した。

 一枚目は透明。

 二枚目は片側からだけ透ける。

 三枚目は上半分だけ曇っている。

「見せるなら、向きと時間と高さを選べる。店は夜に見せたい。住人は窓を見せたくない。盗難時だけ遡りたい。これを一枚の署名で済ませるな」

「それを票へ書きます」

「書くだけ?」

「規則案へ入れます」

「いつ使える」

「決まっていません」

「正直で腹は膨れないけど、嘘よりは噛める」

 スエが笑う。

「何を噛むんだい」

「但し書き」

「枕の次は食い物か」

 午後三時四分。

 配給所の職員が、拒否列の窓口を一時的に開けた。

 命令ではない。

 混雑を見た現場判断。

「拒否の人へ配るの?」

 登録済み列から声が飛ぶ。

「不公平だ」

「時刻変更を試験します」

 職員。

「登録した俺たちの優先は」

「維持します」

「じゃあ、拒否は後ろへ」

 列が揺れる。

 監視端末が群衆密度を検知し、黄色い警戒枠を出す。

《口論の可能性》

 迅はいない。

 拳もない。

 真琴が前へ出た。

「登録した人から権利を奪いません。拒否した人へ生命維持配給を昼に渡すことは、登録者への罰ではありません」

「俺たちは見られた」

「その負担へ対価を求める権利はあります」

「なら、同じ物をやるな」

「見られた対価と、食べる権利を同じ袋に入れないでください」

「簡単に言うな」

「簡単ではありません」

「じゃあ、何をくれる」

 真琴は答えを急がなかった。

「監視協力の対価を、配給順ではなく、賃金か減税か、公開された別の形へ移す案を出します」

「いつ」

「今、約束できません」

「役に立たない」

「はい」

 真琴は認めた。

「ただし、役に立つまで食事を止める権限も、私にはありません」

 職員が最初の拒否者へ箱を渡した。

 端末の黄色い枠は赤へならなかった。

 暴力がなかったからではない。

 職員が、警戒順位を手動で下げたからだった。

 真琴はその操作を見る。

「今、誰が変更しましたか」

「私です」

 職員。

「理由」

「会話が続いている。身体接触なし。出口が二つ確保されている」

「記録に」

「入力欄がありません」

 真琴は小さく息を吐いた。

 正しい現場判断さえ、名前を残す場所がない。

「紙で残してください」

「制度外です」

「制度外の判断をしたなら、制度外の紙が要ります」

 職員は一枚の受領票を裏返した。

《午後三時五分》

《警戒順位を黄から白へ変更》

《理由:会話継続、接触なし、退路あり》

《変更者――》

 名前を書く。

 配給箱が一つずつ渡る。

 見られることへ賛成した者も、反対した者も、同じ豆と塩を受け取った。

 同じ列ではなかった。

 同じ理由でもなかった。

 それでも、食事は投票用紙ではなかった。

 配線室の向こうで、何かが落ちた。

 次に、短い警報。

 廊下の端末へ表示が出る。

《監視員一名・体調異常》

《救護対応中》

 真琴たちが扉へ向かうと、錠が閉まっていた。

《関係者以外立入禁止》

 真琴は管理札を当てる。

《権限なし》

 イオが扉を叩く。

「水科イオ。元能力者生活相談。中の人と話したい」

 返事はない。

 轟が蝶番を見る。

「外せる」

「外さないでください」

「三十秒」

「壊さずに?」

「戻せる」

「待って」

 イオが扉へ耳を当てた。

 中から、女の声。

「開けないで」

 細く、乾いている。

「救護は」

 イオ。

「いる」

「名前」

「言わない」

「仕事を続けたい?」

「今、聞く?」

「今しか聞けないことじゃない。だから後でもいい」

 沈黙。

「監視を止めに来た?」

「調べに来た」

「止めたら、私たちの配給補助も止まる」

「知った」

「いつ」

「七分前」

「遅い」

「そう」

 イオは認めた。

「だから、中へ入る前に聞く。画面を見ない仕事があったら、移りたい?」

 扉の向こうで、椅子が一つ動く。

「そんな仕事、あるの」

「今はない」

「じゃあ、聞くな」

「作る前に、欲しいか聞いた」

「作ってから見せて」

「受けた」

 救護担当が扉を開けた。

 担架は出てこない。

 十八歳ほどの女性が、自分の足で立っていた。

 短く切った髪。左目の下へ濃い隈。右手の人差し指だけ、爪を青く塗っている。

「過換気。倒れてない」

 彼女は言った。

「名前は、坂下ユウ。三十八番席。画面を見ない仕事が本当にできたら、その時もう一回聞いて」

「分かった」

 イオ。

「記録する?」

 真琴が訊く。

 ユウは眼鏡越しに真琴を見る。

「名前だけ。病状は書かないで」

「救護記録には必要です」

「公開票に」

「分けます」

「監視してる側の病気は、誰も見たがらないから」

 ユウは配線室へ戻る。

 扉が閉まる前に、轟が椅子を一つ見た。

 座面は高すぎた。

 足台はない。

 ユウの踵は、床へ届いていなかった。

「椅子からだ」

 轟が言う。

「制度からです」

 真琴。

「両方」

 イオは答えた。

 水色の監視同意票が、机の上で二百十三枚重なっている。

 署名の下には、見られる人の生活がある。

 壁の向こうには、見る人の足が床へ届いていなかった。