第367話 第二章「監視同意票」前編

九月十五日 午前九時三分

 朽葉真琴は、同意票を三つに分けた。

 読んで署名したもの。

 読まずに署名したもの。

 読んでも、署名しないと困るもの。

 紙の色は全部同じだった。

 薄い水色。

 右上に目の印。

 下端に小さな文字。

《監視協力へ同意しない場合も、生命維持に必要な配給を拒否しない》

 但し書きは、その一行で終わらない。

《ただし受領時間帯、窓口、配達順、本人確認手段は、監視協力状況および地域安全評価により調整されることがある》

「拒否しても、もらえる」

 真琴は言った。

「夜十一時に、反対側の窓口まで歩けば」

 浅海スエは、机の向こうで鼻を鳴らした。

 南区共同浴場の弁番。

 髪を濡らしたまま布で巻き、太い両腕へ火傷避けの油を塗っている。監視実証区の住民ではないが、共同浴場の裏路地へ新しい節点を付ける申請が出たため、当事者代表として呼ばれていた。

「夜十一時なら、裸の客はいない」

「配給窓口です」

「浴場の弁を閉めるのが十時半。配給は十一時。行って戻れば十二時。朝は四時半に火を入れる」

「睡眠が短くなります」

「文字で寝られるなら、但し書きを枕にする」

 真琴は眼鏡の左つるを上げた。

「私は但し書きを枕にすることを推奨していません」

「冗談だよ」

「分かっています」

「顔が分かってない」

「顔へ法的効果はありません」

「だから嫌われる」

「把握しています」

「そこは傷つけ」

 スエは水色の票を指先で弾いた。

「私は、浴場の裏へ目を付けるのは反対だ。裸で歩く人間はいない。でも湯上がりで息を整える人はいる。喧嘩した夫婦が別々に帰るまで座る場所もある。誰に見せる必要がある」

「申請理由は、燃料盗難と夜間転倒です」

「燃料庫へ付ければいい」

「転倒は」

「呼び鈴と手すり。見ないと助けられないのか」

「助けを呼べない状態なら」

「だったら、倒れたかどうかだけ分かる床にしろ。顔まで見るな」

 真琴は票の余白へ書いた。

《映像以外の転倒検知》

《燃料庫限定》

《浴場裏ベンチは非撮影》

「勝手に決めるなよ」

「案です」

「案って書いた?」

「今、書きます」

《案》

「字が小さい」

 真琴は二重線で消し、本文と同じ大きさで書き直した。

「それなら読める」

 スエは満足したように水筒を飲む。

 次の席に、波佐間啓吾が座っていた。

 南環市場の硝子店主。

 彼は監視を歓迎している。

「店の前に二つ欲しい」

「現在一つです」

「裏口にも」

「何を守るためですか」

「硝子」

「人ではなく」

「人も。硝子は割れれば音がする。人は殴られても声が出ない時がある」

 啓吾の店では、昨月、夜間の強盗があった。

 店員の少年が棚の間へ押し込まれ、声を出せなかった。向かいの公設カメラが犯人の靴を記録し、三時間後に拘束された。

「映像がなければ、捕まらなかった」

「可能性は高いです」

「だったら、付けろ」

「店員は同意していますか」

「聞いた」

「書面は」

「働く時に見られて困ることはないって」

「雇用主へ、困ると言えますか」

「俺が圧力を掛けたって?」

「掛けていないと証明する質問ではありません。拒否した時に勤務や賃金へ影響しない仕組みがあるかを訊いています」

 啓吾は眉を寄せた。

「店を守るためだ」

「店員も店の一部として守られるのか、店を守るために見られるのかを分けます」

「言葉で強盗は止まらない」

「硝子でも止まりません」

「割れたら分かる」

「では、閲覧を事件時だけに限定できます」

「普段見なければ、怪しい動きが分からない」

「何を怪しいとするかは、誰が決めます」

「見れば分かる」

「第十六回です」

「何が」

「昨日から《見れば分かる》と言われた回数です」

「数えるな」

「数えないと、同じ言葉が規則になります」

 啓吾は腕を組んだ。

「少年は今も、裏口を通る時に震える」

 声が少し低くなる。

「映っていると分かれば、安心すると言った」

「では、本人が映像の利用範囲を選べる票を別に作ります」

「面倒だ」

「恐怖に合わせた仕組みは、面倒です」

「面倒だから、守れない奴が出る」

「簡単だから、守られない奴も出ます」

 啓吾は水色の票を折りかけ、やめた。

「店員を連れてくる」

「個別に聞きます」

「俺の前で?」

「別室で」

「信用されてないな」

「あなた個人ではなく、雇用関係を信用だけで処理しません」

「それ、慰めになると思ってる?」

「慰めではありません」

「知ってる」

 啓吾は票を持ち帰った。

 午前十一時四十二分。

 監視同意票は二百十三枚。

 署名あり、百七十八。

 拒否、十九。

 保留、十六。

 しかし、配給時間を同じにしたうえで選ばせた票は一枚もない。

「全票、無効ですか」

 真琴の隣で、環玉樹が訊いた。

 緑のニット帽。

 胸より大きな鉄箱。

 今日は配達ではなく、票の返却先確認をしている。

「法律上は、有効と判断される可能性があります」

「自由じゃないのに?」

「困窮と強制の境界は、法文で一本には引けません」

「じゃあ、何のための法」

「線を引いた者の名を残すためです」

「守るためじゃない?」

「守るためにも使います」

「先に言わない?」

「先に言うと、法が必ず守るように聞こえます」

「面倒」

「本日、四人目です」

「数えてる」

「同じ言葉が規則になるので」

 タマキは机の水色の束を見る。

「返す?」

「誰へ」

「書いた人」

「何のために」

「配給の時間を同じにして、もう一回選ぶ」

「それだけでは足りません」

「何が」

「署名したことで既に撮られた映像があります。新しい票で拒否しても、過去の記録は残る」

「消す?」

「事件記録、交通記録、医療搬送、商店防犯。全部を一括削除すれば別の権利を損ないます」

「じゃあ、分ける」

「簡単に言いますね」

「真琴がやる」

「誰が決めました」

「今、頼んだ」

「報酬は」

「空白の旗の法務費」

「私は構成員ではありません」

「協力者」

「案件ごとです」

「今、案件」

 真琴は眼鏡のつるへ触れた。

「依頼内容を文書に」

「長い」

「短くします」

「できる?」

「失礼ですね」

「第何回?」

「数えません」

 タマキは笑った。

 笑ったまま、会議室の床へ二本の縄を置いた。

 左に《同意》

 右に《拒否・保留》

「同じ条件で、並んでみる」

 配給所から借りた空箱を、二本の縄の先へ置く。左の窓口は入口から十二歩。右は廊下を曲がって四十七歩。本人確認の端末は左に一台、右にはない。

「紙には、拒否しても受領できるとあります」

 真琴。

「できる」

 タマキは右の列へ立った。

「歩ければ」

 スエが弁棒を杖のように突き、同じ列へ入る。右足を悪くした老人役は、彼女が買って出た。曲がり角で一度座り、本人確認役へ口頭で名前を伝える。

「聞こえないふり」

 タマキ。

「何だって?」

 スエは本気で大声を出した。

「演技が強い」

「湯気の中で三十年、客の文句を聞いてる」

 左の列では、波佐間啓吾が空箱を受け取っている。十二歩、二十秒。右は、照合用の紙を探し、立会人を呼び、配給番号を読み直して三分四十八秒。

「これでも、同じ受領ですか」

 真琴が訊いた。

「箱の中身は同じ」

 啓吾。

「時間も身体も違う」

「窓口を二つとも入口へ出せばいい」

「人員は」

「俺の店から一人出す」

「店員が監視を拒否しても?」

 啓吾は答えず、空箱を見た。

 監視へ同意する店主が、拒否窓口の人手を出す。矛盾ではない。矛盾と呼べば、何もしなくて済むだけだった。

「賃金は払う」

「拒否票を出したことは、あなたへ知らせません」

「誰を出せばいい」

「本人が選びます」

「勤務時間は」

「店と相談します。配給のための無償奉仕にはしません」

 真琴は縄の間へ、新しい欄を書いた。

《同じ物を受け取るまでに必要な時間》

《介助》

《賃金》

《拒否を誰へ知られるか》

「票の文字より、列の方が長い」

 スエ。

「だから票へ書きます」

「紙が長くなる」

「折ります」

「人生も?」

「折ってはいけない部分を、先に決めます」

 タマキが、二本の縄を同じ長さへ切った。

 窓口までの距離が同じになっても、選ぶ理由までは同じにならない。

 それでよかった。

 午後一時十五分。

 水科イオと伏見轟が、会議室へ入った。

 イオは左右違う靴を履いている。

 左は灰色。右は青緑。

 右腕の装具には、止まった小さな時計が六つ縫い付けてある。以前なら強化された右腕で持ったであろう工具箱を、今日は身体の中央へ寄せ、両手で運んでいた。

 轟は工具箱を取ろうとしない。

「持てる?」

「持てる」

 イオ。

「重い?」

「七・四キロ」

「答えが違う」

「持てる。重い。両方」

「受けた」

 轟は先に扉を押さえた。

 真琴は二人へ監視同意票の集計を渡す。

「相談は法的同意だけでは終わりません」

「終わると思って呼んだ?」

 イオ。

「思っていません」

「顔が思ってた」

「最近、顔へ責任を負わせる人が多い」

「監視の流行」

 イオは票を読む。

 署名欄より、配給時間欄を先に見る。

「監視員の雇用票は」

「別紙です」

「別にした理由」

「住民の同意と、労働者の契約を混ぜないため」

「混ざってる」

「どこが」

「監視に反対したら、監視員の仕事が消える。住民は知らないまま選ぶ」

「知らせれば、雇用維持の責任まで住民へ負わせます」

「知らせないと、改革した側が失業を見なかったことにできる」

 真琴は答えず、紙を一枚増やした。

《制度変更による雇用影響》

「案?」

 スエが言った。

 まだ帰っていなかった。

「案です」

「字は」

「本文と同じです」

「学んだな」

 轟は会議室の壁を二回叩いた。

 鈍い音。

「薄い」

「何が」

 真琴。

「壁。向こう、配線室」

「図面では倉庫です」

「図面、古い」

 轟は床へ耳を近づける。

 左肩を上げない。

 右手で壁の下部へ触れる。

「ファン、六つ。人、十以上」

「監視室?」

 タマキ。

「小さい」

 イオが時計を一つ外し、壁へ当てた。

 振動を秒で測る。

「交代休憩室。椅子が一定間隔で動く。十二分ごとに一人立つ」

「何で分かる」

「床の脚音。十二分は、目の休止だと思う」

「十二時間勤務で?」

「十二分」

 イオの口元が笑わない。

「長い数字の中に、短い休みを入れると優しく見える」

 真琴は監視員の契約書を開いた。

《標準勤務 十二時間》

《画面休止 一時間あたり十二分》

《緊急時は休止繰越可》

「繰越上限がない」

「終業時にまとめて休める?」

 タマキ。

「終わった後の休みを、勤務中の目へ返せません」

 イオが言った。

「返せるのは賃金だけ。返してないけど」

 監視員の時給は、倉庫荷役の七割。

 配給優遇を現物賃金として加え、最低基準を満たす計算だった。

「能力喪失者優先雇用」

 真琴が契約の見出しを読む。

「優しい」

 イオ。

「皮肉ですか」

「半分。仕事があるのは必要。座ってできる。能力証明を求めない。医療費補助もある」

「残り半分」

「辞めたら補助が切れる。見ることが苦しくても、座り続ける」

 轟が椅子の脚を見た。

「高さ、全部同じか」

「規格品です」

「身体、同じじゃない」

 イオは自分の左右違う靴を机の下へ出した。

「能力を失った人は、失い方も同じじゃない。片腕の筋力差、平衡感覚、視野、反証痛。十二時間、同じ椅子で画面を見る設計が先に失敗してる」

「監視を止める前に、椅子を直すのですか」

 真琴が訊く。

「止めるかどうか、働いてる人抜きで決めない」

「設備改善が制度維持の口実になります」

「だから、直した椅子へ縛り付けない」

「具体的には」

「見ない仕事を作る」

 イオは壁の向こうへ目を向ける。

「保守。案内。削除時刻の監査。緊急呼出の確認。画面を見なくても必要な仕事がある」

 轟が頷く。

「通路も」

「何の」

「見られず歩ける路」

 真琴は紙から顔を上げた。

「監視区域内に、意図的な死角を作る?」

「死角じゃない」

 轟。

「何です」

「まだ名前ない」

「名前がない物を規則へ書けません」

「先に作る」

「作ってから規則を既成事実化するのは、あなたの悪癖です」

「悪い?」

「はい」

「でも、段差は紙で消えない」

「段差の位置を確認してから案を作ります」

「一緒」

「順序が違います」

「床は順序で平らにならない」

「規則も、床だけでは公平になりません」

 イオが二人の間へ工具箱を置いた。

「喧嘩は、現地で」

「喧嘩ではありません」

 真琴。

「壁の音、上がった」

 轟が言う。

 午後二時二十六分。

 監視同意票の自由を確かめるには、署名机より配給窓口へ行く方が早かった。

 東部第二区配給所には、列が三つある。

 監視協力登録済み。

 登録保留。

 登録拒否。

 看板の幅は同じ。

 列の長さは違う。

 登録済みは九人。

 保留は二十七人。

 拒否は一人。

 拒否列の窓口は閉じていた。

《午後十一時から受付》

 真琴は看板の時刻と、同意票の但し書きを並べた。

「生命維持配給を拒否しない。事実です」

「今は、もらえない」

 浅海スエ。

「受領時刻を調整できる、とあります」

「調整って、夜まで飯を待たせることかい」

「文面上は」

「腹は文面で夜にならない」

 登録済み列の先頭にいた男が振り返った。

 左脚に金属支柱のある補助具。

 腕には幼い子どもが眠っている。

「俺は登録した。昼にもらえる。悪いか」

「悪いとは言っていません」

 真琴。

「その顔で?」

「顔へ法的効果は」

「ある。役所の顔ってのは、だいたい人を遅くする」

 男は登録札を見せた。

「娘の薬を夜まで待てない。先月、配達袋を盗られた時も、監視で戻った。見られるくらいで薬が早くなるなら、見せる」

「娘さんの同意は」

「三歳だ」

「あなたが代理できます。ただし、どこまで見せるかは別です」

「歩道で寝た顔まで隠せって?」

「隠すかどうかを選べるように」

「選んでる暇がない」

「暇がない人ほど、選択肢が減っています」

「選択肢で熱は下がらない」

 男の声には怒りより疲れがあった。

 真琴は票を畳まない。

「今日の薬を遅らせるつもりはありません」

「じゃあ、登録を取り消しても今もらえる?」

 窓口の職員がこちらを見る。

 答えない。

 男は笑った。

「それが答えだ」

 イオが列の脇へしゃがんだ。

 子どもの補助具を見る。

「左の支柱、膝裏に当たってる」

「昨日から」

「直していい?」

「監視の話は」

「今、痛い方から」

 男は一秒迷い、子どもを抱き直した。

「外すと起きる」

「外さず、角度だけ」

 轟が工具袋を出す。

「私が頼んだんじゃない」

 イオ。

「見た」

「見る仕事、好きだね」

「物は、見られても困らん」

「人は?」

「訊く」

 轟は男へ向く。

「触っていいか」

「早く」

「受けた」