第453話 第九章「廊下の防衛」前編

一月四日 午前十時十九分

 扉が開く音には、二種類ある。

 出すための音。

 出たことにするための音。

 竜胆迅は、後者を先に聞いた。

 黒鍵が回る前に、戸当たりが外れた。

 金属が一度、軽く跳ねる。

 続いて、独房扉が三センチ開いた。

 開錠ログは動かない。

 迅は寝台から立った。

 右足を床へ。

 左足を半歩引く。

 踵で床を擦らない。

 数えない。

 扉の向こうで、同じ音が続いた。

 一室。

 二室。

 三室。

 B棟の北側から南へ、波のように。

 黒鍵の音ではない。

 内側の非常解放板が、まとめて抜ける音だ。

「出るな」

 迅は言った。

 誰へ、とは付けない。

 隣室から、イオの声。

「命令?」

「観察」

「主語、逃げた」

「俺は出ない」

「受領」

 さらに向こうで、B-22が笑う。

「外から開けてくれたぞ」

「贈り物にしては、包みが悪い」

 迅は扉へ近づいた。

 三センチの隙間。

 冷気。

 廊下灯。

 床の黄色い線は、独房の内側二十センチに引かれている。

 その線を越えなければ、少なくとも映像上は、迅が廊下へ出たとは言いにくい。

 言いにくいだけだ。

 施設は、扉を押した動作を逃走準備と呼べる。

 扉の外を見た視線を経路確認と呼べる。

 立ち上がったことを抵抗と呼べる。

 人間は、危険を予測するとき、未来へ好きな動詞を付ける。

「B棟、全収容者へ」

 施設放送が鳴った。

 賀茂冬実の声ではない。

 男性職員。

 速い。

「複数独房において不正開扉を確認。被収容者は寝台上へ戻り、両手を頭上に置いてください。従わない場合、逃走企図として制圧します」

 迅は放送器を見る。

「両手を上げろだと」

 隣のイオが言う。

「上がる?」

「右は上がる。膝が嫌がる」

「寝台に座れ」

「命令?」

「提案」

「受領しない」

「好きにしろ」

「それ、最初から提案じゃない」

 迅は自分の両手を胸の高さへ出した。

 頭上へは上げない。

 視認できる位置。

「放送記録」

 七瀬の声が外部回線から入った。

「午前十時十九分四十八秒。不正開扉を施設が確認。開錠ログに記録なし。寝台上・両手頭上の命令。違反時の逃走企図認定を通知」

「七瀬、回線を切れ」

 冬実の声が割り込む。

「安全運用中です」

「公開回線を切る判断者名を」

「賀茂冬実」

「理由」

「鎮圧配置と職員個人情報の保護」

「受領。切断時刻を記録します」

 音が途切れた。

 代わりに、廊下の奥で靴音がそろう。

 硬い靴底。

 八人。

 盾が四。

 短棒が四。

 白い拘束帯。

 抑制区画で能力者を制圧するための装備ではない。

 人間を狭い廊下へ押し戻す装備だ。

 迅の扉が、もう五センチ開いた。

 誰も触れていない。

 戸当たりの奥で、細い索が引かれている。

 扉が開きやすく作られていた。

 開けた人間は、廊下の端にいる。

 あるいは、壁の中にいる。

「扉を押さえろ」

 迅は言った。

 各室から、木と金属の擦れる音。

 寝台を寄せる者。

 手で引く者。

 触らない者。

 そろわない。

 そろえない。

 鎮圧隊の先頭が来た。

「B-01から順次確認。扉へ近づくな」

 盾の縁が、一つ目の扉を押す。

 中から声。

「俺は閉めてる!」

「寝台へ戻れ!」

「閉めるなら手が要るだろ!」

 盾が扉を全開にする。

 看守二人が入る。

 床へ伏せろ。

 腕を出せ。

 頭を動かすな。

 命令が一室ずつ同じ形で入っていく。

 迅は、靴音を聞く。

 四室。

 三室。

 二室。

 自分の前。

 盾の白い面が、隙間へ入った。

「後退!」

「ここより後ろ、壁だ」

「寝台へ!」

「寝台は右」

「口答えをやめろ!」

 盾が押し込まれる。

 迅は黄色い線の内側で、左足を斜めへ置いた。

 盾を受けない。

 盾の上端へ左前腕を載せる。

 力を下へ流す。

 看守の視界が一瞬、白い板で塞がる。

 右手が短棒へ伸びる。

 迅は手首を取らない。

 肘の内側へ掌を当て、肩の向きを扉枠へずらす。

 短棒は抜けない。

 もう一人が入る。

 膝。

 腰。

 肩。

 先に動く肩が見える。

 迅は半歩、横へ退いた。

 一歩ではない。

 数えない。

 看守の両手が空を抱く。

 迅は背中を押す。

 押す先は床ではなく、寝台。

 看守は膝から寝台へ座る。

「座った方が、命令に近い」

「抵抗するな!」

「してる」

 盾の看守が体重を乗せる。

 狭い。

 迅の右肋へ盾角が当たった。

 鈍い衝撃。

 息が一度、抜ける。

 骨の音はない。

 痛みは、息を吸う時だけ深くなる。

 迅は盾を押し返さない。

 右足を、盾の内側へ入れる。

 看守の足と平行。

 腰を回す。

 盾と看守を、一つの扉みたいに向きを変える。

 白い面が廊下へ向いた。

 迅は黄色い線を越えない。

 看守二人だけが、独房の中へ入っている。

「退室しろ」

「命令権はおまえにない!」

「俺の部屋だ」

「拘置施設です!」

「なら、目的を書け。何を確認する」

「逃走防止」

「俺は中」

「扉が開いている」

「外から」

「確認中だ!」

 盾の向こうで、看守の呼吸が荒い。

 迅は力を抜いた。

 押し続ければ、相手も押し続ける。

「一人ずつ出ろ」

「武器を返せ」

「短棒、抜いてない」

「手を離せ」

「離す。先に一人」

 後ろの看守が寝台から立つ。

 迅は道を空ける。

 黄色い線の内側で。

 一人が廊下へ戻る。

 盾の看守は、まだ動かない。

「次」

「おまえが下がれ」

「壁」

「寝台」

「今、相棒が座った」

 看守の口元が、わずかに動いた。

 笑いではない。

 怒りでもない。

 自分が同じ命令を繰り返していると気づいた顔だ。

 盾が半歩下がる。

 迅は短棒から手を離す。

 盾が廊下へ出る。

 扉はまだ開いている。

 迅は閉めない。

 閉めれば、外の装置がまた開ける。

 その映像だけを使われる。

 扉へ触れず、黄色い線の内側へ立つ。

「B-16!」

 廊下の向こうで声が上がった。

 イオの部屋。

 午前十時二十五分。

 B-22は、出ていた。

 上半身だけ。

 扉の隙間から肩を抜き、廊下の短棒へ手を伸ばしている。

 鎮圧隊の一人が、B-16の前で転んだ。

 短棒が床へ落ちた。

 B-22の指先まで、四十センチ。

 イオの扉も開いている。

 彼女は床へ座ったまま、右足を廊下へ出した。

 能力強化のない脚。

 膝は、冷えると固い。

 足裏で短棒を踏む。

「どけ!」

 B-22が叫ぶ。

「私の棒じゃない」

「なら、どけ」

「あなたのでもない」

「殴られる前に取るんだよ!」

「取ったら、何する」

「殴る」

「正直」

「おまえも出ろ。全員で行けば止められない」

「どこへ」

「外だ!」

「外のどこ」

「知るか!」

「家は」

「ない!」

「仕事」

「クビだ!」

「薬」

「要らねえ!」

「昨日、手が震えてた」

「うるせえ!」

 B-22が腕を伸ばす。

 イオは短棒を蹴らない。

 踏んだまま。

 B-22の手首を、両手で押さえる。

 力では負ける。

 だから、指を開かせない。

 肘を伸ばし切らせる。

「離せ!」

「あなた、三番目」

「何が」

「今日の審理」

「そんなの、もう終わりだ!」

「棒を取ったら、順番変わる」

「危険だから最後にするって?」

「違う。殴った事実を先に審理する」

「俺はもう殴ってる!」

「知ってる」

「なら同じだ!」

「一回と二回、同じじゃない」

「鼻を折ったのも、今殴るのも」

「相手が違う。理由も違う。責任も増える」

 B-22が腕を引く。

 イオの膝が扉枠へ当たる。

 顔が歪む。

 それでも、能力は戻らない。

 時間を止める腕もない。

 あるのは、固い膝と、両手。

「おまえ、能力なくなったんだろ!」

「なくなった」

「じゃあ、何で閉じ込められてる!」

「それ、審理で聞く」

「答え分かってるだろ!」

「分かってる答えだけ聞くなら、法廷いらない」

「法廷が俺を救うか!」

「知らない」

「じゃあ離せ!」

「順番、守る」

「何でそこまで」

 イオは一度、息を吸った。

 心拍を数える。

 速い。

 不整脈の飛びはない。

「あなたが殴ると、施設が正しかったことにはならない」

「なら殴っていいだろ!」

「あなたが殴ったことは、あなたの責任になる」

「正しい施設にするよりましだ!」

「二つ、別」

 B-22の腕が止まる。

 正しい施設。

 殴った自分。

 どちらか一つへまとめれば、楽だった。

 悪い檻へ逆らった暴力。

 危険な人間を止めた檻。

 二つを分けると、誰も英雄にならない。

 イオの足の下で、短棒が転がろうとする。

 看守が近づく。

「両手を離せ!」

「棒、先に取って」

「命令に従え!」

「棒」

 看守が短棒へ手を伸ばす。

 B-22も伸ばす。

 イオは足を上げない。

 別の看守が、床へ膝をついた。

「今、取ります」

「名前」

「職務番号、黒二」

「受領」

 黒二が短棒を引き抜く。

 イオはB-22の手首を離す。

 B-22は廊下へ出なかった。

 扉枠へ額を付ける。

「三番目、消すなよ」

「消さない」

「棒のことも」

「書く」

「俺が取ろうとした」

「書く」

「おまえが止めた」

「書く」

「看守が落とした」

「書く」

 黒二が言う。

「私が落としたのではありません」

「誰」

「前の担当です」

 イオが聞く。

「名前」

「職務番号、白四」

「書く」

 短棒一本に、四人の動作が付く。

 誰か一人の正義へならない。

 午前十時二十六分。

 B-14の扉も、三センチ開いていた。

 笠井透は、扉の内側へ立っている。

 両手は肩の高さ。

 紙燕護送隊で覚えた、相手へ余計な理由を渡さない姿勢だった。

 鎮圧隊の一人が、扉の隙間へ拘束帯を通す。

「手首を出せ」

「目的を」

「安全確保」

「誰の」

「全体だ!」

「私の手首が、全体をどう安全にしますか」

「質問するな!」

「命令へ反対します。私の名で」

 職員が帯を引く。

 扉の縁へ、白い布が食い込む。

 笠井は腕を出さない。

 代わりに、帯の輪へ指二本だけを掛けた。

 引かれる方向へ半歩。

 扉枠へ肩を当てない。

 帯を奪わず、張力だけを横へ逃がす。

 鎮圧隊員の身体が扉へ寄る。

「抵抗するな!」

「出していません」

「帯を掴んだ!」

「私の独房へ入れた物を、扉から外します」

 迅が二室向こうから声を投げる。

「帯、離せ」

「私に?」

 笠井。

「両方」

「命令権は」

「ない。提案」

「受領します」

 笠井が指を開く。

 鎮圧隊員は、急に張力を失って後ろへ下がった。

 背後の盾へ踵が当たる。

 迅が言う。

「そっちも離せ」

「被収容者の拘束が必要だ!」

「何をした」

「扉前へ立っている」

「部屋の中だ」

「命令に従わない」

「何の命令」

「手首を出せ」

「出さないと危険な理由」

 職員は答えない。

 笠井が言う。

「私の既往記録には、護送中の身体制止があります。手首を出せば、その記録を理由に強く固定すると説明されましたか」

「説明の義務はない」

「審理中です」

「今は安全対応だ!」

「安全対応を、審理の外へ置かないでください」

 廊下の向こうから、久我檻が来る。

 黒鍵は持っていない。

 可視ログの紙帯と、方眼板だけ。

「B-14、開放記録なし」

「不正開扉です」

 鎮圧隊員。

「誰の不正」

「収容者が」

「扉、内側から操作してない」

「確認中です」

「確認前に拘束?」

「逃走防止です」

「逃走、どこ」

 笠井は黄色い線の内側にいる。

 檻は方眼板へ書く。

《10:26:31 B-14。非常解放による扉三センチ開放。本人は室内。職員が拘束帯を差入れ。本人は帯を外すため接触後、提案を受けて離す。床線越境なし》

「提案者」

 笠井。

「迅」

「記録へ」

「本人名、公開範囲」

 迅が答える。

「中だけ」

 檻は職務記録へ名前を入れ、廊下公開板には《隣室収容者》と書いた。

 鎮圧隊員が苛立つ。

「記録している間に逃げたらどうする!」

「逃げた人、まだゼロ」

「これからだ!」

「これからを、今の事実にしない」

 檻の声は小さい。

 狭い廊下では届く。

 別の扉から、激しい呼吸音がした。

 B-19。

 扉が開いたことで、過呼吸を起こしている。

「青鍵!」

 檻が呼ぶ。

 医療担当が来る。

 扉を全開にしない。

 配膳口から本人へ聞く。

「中へ入りますか。扉外で話しますか。呼吸袋を渡しますか」

 B-19は声が出ない。

 指で三つ目を示す。

 紙袋が渡される。

 同じ開いた扉が、一人には逃走機会で、一人には過去の侵入を思い出させる。

 扉の幅だけでは、危険を測れない。

 賀茂冬実が南側から現れた。

 所長服。

 左手の鍵束。

 右手の折り畳み定規。

「鎮圧隊、独房内へ入らないでください」

 職員たちが振り向く。

「所長命令ですか」

「施設安全責任者として。床線内にいる被収容者へ、扉外から拘束を試みない。具体的暴力がある区画だけ、個別に判断する」

「一斉逃走の可能性が」

「現在、床線越境三名。武器取得企図一名。その他は室内または扉前です。全員を同じ行動へ入れない」

「昨日までと違う」

「今、判断を変えます」

 冬実は、自分が仕掛けた試験だとは言わない。

 まだ公開審理前だからだ。

 けれど、現場の危険を増やす命令は止めた。

 正しい停止は、最初の開始を消さない。

「開いた扉の頭数」

 冬実。

 檻が答える。

「十六。室内十二。床線内三。B-22、半身。廊下到達ゼロ」

「職員負傷」

「転倒一。本人申告、打撲」

「被収容者」

「イオ、膝打撲の可能性。B-19、過呼吸。迅、右肋へ盾圧」

 冬実が言う。

「医療確認を優先。鎮圧隊は盾を床へ置かず、短棒を鞘へ戻す。退路を塞がない」

「全隊、従え!」

 現場指揮が叫ぶ。

 冬実が振り向く。

「復唱は短くしてください。怒鳴る必要はありません」

 現場指揮は口を閉じた。

 その直後、南側の防火隔壁が動き始めた。

 午前十時二十八分。

 南側の防火隔壁が降り始めた。

 警報音。

 低い。

 一定。

 迅の胸へ、盾角の痛みが残っている。

 息を吸うたび、右肋が狭い。

 隔壁は、旧配膳室とB棟を分ける。

 閉じれば、審理官と収容者の回線が切れる。

 北側回線も、鎮圧隊の制御盤へ移る。

 轟の声が、外部放送ではなく廊下から聞こえた。

「止めろ!」

 大きい。

 怒鳴る時でも、危険指示は完全な文になる。

「南隔壁を止めろ! 上の梁が追ってない!」

 看守が操作盤へ手を伸ばす。

「非常封鎖です!」

「隔壁、下がる。梁、横へ引く。壁、割れる!」

「規則では閉鎖を」

「建物は規則読まん!」

 隔壁が半分まで降りる。

 金属の歯が、床レールへ向かう。

 天井で、乾いた音。

 一度。

 二度。

 迅は数えない。

 音の位置だけを見る。

 中央の配管架。

 昨日、排煙改修で棚を半分撤去した区画。

 仮支保は入っている。

 だが、隔壁が引いた振動で、古い煉瓦壁の上部がずれた。

「下がれ!」

 轟が廊下へ入る。

 左腕は頭上へ上げない。

 右手で支保材を取る。

 肩ではなく、腰と背で押す。

 天井の配管架が落ちた。

 鉄枠。

 放送管。

 石灰片。

 迅の扉の前へ。

 鎮圧隊の一人が、盾を捨てて逃げる。

 盾が床線を滑る。

 その後ろに、冬実がいた。

 所長服のまま。

 左手に鍵束。

 右手に定規ではなく、隔壁停止楔。

「操作盤を離れて!」

 冬実が叫ぶ。

 看守の手を押しのけ、楔を非常槽へ入れる。

 隔壁の降下が止まる。

 同時に、上の鉄枠が落ちる。

 冬実の左手が、楔と金具の間に挟まれた。

 小さな音。

 指の骨が折れる音は、建物より静かだ。

 冬実の顔が白くなる。

 鍵束を落とさない。

 檻が廊下の端から叫ぶ。

「鍵、離して!」

「非常扉が」

「鍵、左!」

「動かせます」

「小指、曲がってる!」

 冬実は左手を見る。

 初めて、自分の身体が命令より先にあると気づいた顔。

 鍵束を床へ置く。

 檻が拾わない。

「誰、持つ」

「黒一」

 近くの看守が名乗る。

「受領、時刻」

「十時二十九分十一秒」

「用途」

「非常退避確認」

「持って」

 鍵が移る。

 冬実は右手で左小指を支える。

「轟さん、梁は」

「三分」

「持ちますか」

「持たせる。人、出せ」

「収容者を?」

「下の部屋、二つ。天井落ちる」

「開ければ」

「潰すよりましだ!」

 冬実が黒一へ言う。

「B-14、B-15。構造退避。開錠理由を記録。被収容者へ選択を」

「選択?」

「北側待機区画へ移るか、扉外の床線内へ出るか。拒否時は寝台を壁から離す」

 轟が低く言う。

「拒否時も、時間ない」

「説明は短く」

 冬実は痛みで息を切りながら、命令を言い直す。

「天井落下の危険。二分以内。北へ移動、廊下待機、寝台移動。三つ」

 開錠される。

 B-14は北へ。

 B-15は廊下待機。

 扉が開いても、二人は逃げない。

 逃げないことを証明するためではない。

 天井から退くためだ。

 迅の上で、配管架がさらに沈む。

 轟の右膝が床へ落ちる。

 左腕は胸より上へ上げない。

 支保材を右肩へ当てず、背中と壁の間へ差し込む。

「迅!」

「何」

「おまえの扉、枠使う!」

「使え」

「中、下がれ!」

「壁」

「寝台の下!」

 迅は寝台へ潜る。

 轟が独房扉を半分閉める。

 扉枠を、斜め支保の受けにする。

 開けるための扉が、天井を支える。

 迅は寝台の下から、支保材の足を押さえる。

 右肋へ痛み。

 金属が沈むたび、胸へ圧が返る。

「轟、あと」

「二分」

「さっき三分」

「一分使った」

「正直」

「建物に嘘つくと死ぬ」

「人にも」

「法務に言え」

 外で真琴が咳き込む声。

「聞こえています!」

 粉塵。

 排煙窓がまだ一つしか開いていない。

 真琴は外部側で吸入器を使い、回線から離れる。

 七瀬が記録を続ける。

「十時三十分五秒。南隔壁停止。B-14、B-15を構造退避。冬実所長、左手負傷。轟、仮支保。迅、独房内。鎮圧隊、後退中」

「撮るな!」

 誰かが叫ぶ。

「顔は撮っていません」

「構造情報だ!」

「崩れている構造を秘密にすると、直りません」

 鉄枠が一度、跳ねた。

 支保材がずれる。

 迅は右手で押さえる。

 環指と小指が痺れる。

 左手へ替える。

 盾角を受けた肋が、呼吸のたびに刺す。

 能力はない。

 七歩もない。

 あるのは、床へ置いた両足と、扉枠と、轟の背中。

「右へ二センチ」

 轟が言う。

「俺の右?」

「建物の右!」

「建物、向き言わない」

「北!」

 迅は支保材を北へ二センチ動かす。

 鉄枠の重さが、扉枠へ落ちる。

 轟の背が少し上がる。

「入った」

「いつまで」

「本支保、来るまで」

「何分」

「七」

「数えるな」

「おまえが言うな」

 轟が、短く笑った。

 欠けた前歯で空気が鳴る。