第454話 第九章「廊下の防衛」後編
午前十時三十八分。
本支保が入った。
轟は自分の身体を抜く前に、荷重計を読む。
「右、六百二十。中央、四百九十。左、三百」
「単位は」
真琴が回線へ戻って聞く。
「キロ」
「説明へ入れてください」
「後」
「今、記録中です」
「今、抜く」
轟は右足を半歩下げる。
左肩を上げない。
腰を支保から離す。
荷重計の針は安定。
新しい損傷はない。
右手の掌だけが赤い。
「医療確認を」
冬実が言う。
自分の左手は、副木で固定されている。
「先に、収容者」
轟が答える。
「あなたも作業者です」
「分かってる」
「なら、確認を」
「三分」
「今」
「所長命令?」
冬実が止まる。
「施設安全責任者として」
「指、折れてる」
「それとこれは」
「別。だから、医療へ行け」
「運用停止判断が」
「誰かに渡せ」
「副所長は鎮圧配置を」
「止める人、いない?」
冬実は廊下を見る。
盾。
短棒。
開いた扉。
退避した収容者。
崩れた配管架。
自分がいなければ止まらない制度を、自分は作った。
「審理官へ、安全運用判断を一時移管します」
外部審理官が答える。
「受領範囲は、審理指定区画の再開・停止のみ。収容運用全体は受けません」
「十分です」
「十分かは、後で確認します」
「はい」
冬実は初めて、鍵管理室ではなく医療室へ向かった。
檻が付き添わない。
「私は鍵」
「あなたは鍵を持っていません」
冬実が言う。
「監査」
「付き添いは?」
「青鍵担当」
医療担当看守が手を挙げる。
冬実は、その人と歩く。
自分が選んだ人ではなく、用途で決められた人と。
午前十時四十一分。
廊下の床へ、白布が四枚敷かれた。
医療確認の場所。
負傷者を一列へ並べない。
冬実。
左小指の変形と腫脹。
迅。
右肋部打撲。
イオ。
右膝前面の擦過傷と打撲。関節可動は、もともとの硬直を除いて保たれる。
職員一人。
転倒による左臀部打撲。
B-19。
過呼吸は収束。胸痛なし。
同じ《負傷者》でも、治療も責任も違う。
医療担当が冬実の左手を支える。
「画像確認が必要です」
「審理区画の安全判断後に」
「今です」
「五分」
久我檻が言う。
「五分で骨、まっすぐになる?」
「なりません」
冬実。
「なら今」
「所長権限で」
「指、所長じゃない」
冬実は左手を見る。
小指は、ほかの指から離れて曲がっている。
「青鍵担当へ、安全判断を」
「医療担当は、施設運用を受けません」
檻。
「審理官へ渡した」
冬実は思い出す。
「そうでした」
「覚えてない?」
「痛みで、順序が」
「それも記録」
冬実は頷いた。
担架を断らない。
自分で歩くが、医療担当の隣へ付く。
鍵束は黒一へ移ったまま。
「戻してください」
冬実が言う。
「用途」
檻。
「所長管理」
「今、医療」
「医療後に」
「戻す時、聞く」
冬実は少しだけ唇を固くした。
「あなたは、私から鍵を奪うつもりですか」
「奪わない。返す理由、確認する」
「所長だからです」
「所長が、今、正しい?」
冬実の視線が鋭くなる。
「負傷で判断能力を失ったとは認めません」
「失ってない。痛みで順序、忘れた」
「一件です」
「一件で全部取らない。全部返さない」
檻は黒一へ言う。
「黒鍵は黒一。青は医療。黄は面会。赤は封印。所長の鍵束、用途へ戻す」
「私物もあります」
冬実。
「私物だけ、袋」
鍵を、所長という人へまとめて返さない。
用途へ返す。
冬実は、その処理を拒まなかった。
「久我さん」
「何」
「あなたを監査へ呼んだのは、正しかったと思っています」
「褒める時?」
「今です」
「それで試験、正しくならない」
「知っています」
「知ってるなら、審理で言う」
「言います」
「守った人、数える?」
「数えます」
「閉じた人も」
「数えます」
「同じ数字にしない」
「はい」
冬実は医療室へ向かう。
檻は白布の上に残る。
迅の肋を診た医療担当が言う。
「笑わないでください」
「笑ってない」
「咳も控えて」
「それ、選べる?」
「咳は選べません。痛む動作を避けるという意味です」
「正確」
「仕事です」
迅は深く呼吸しない。
笠井がB-14の扉から聞く。
「私の拘束帯接触は、負傷者なしでよいですか」
「手指の痛みは」
「なし」
「記録上、負傷なし。接触行為は別」
「受領します」
七瀬の外部記録と、久我の可視ログと、医療表を照合する。
収容者七十二。
施設職員二十六。
外部作業員四。
審理関係者六。
所在確認、全員。
新規死亡、ゼロ。
構造退避二。
医療確認五。
数字がそろっても、審理は終わらない。
そろったのは、次に誰へ聞けるかだけだった。
午前十時四十五分。
鎮圧は停止された。
開いた扉は、勝手に閉じない。
一室ずつ、本人へ確認する。
「閉める」
「半分」
「開けておく」
「審理まで閉める」
「空気が悪いから十センチ」
同じ答えにならない。
開錠ログには、最初の開放記録がない。
機械による鍵操作ではない。
非常解放索。
檻が索の始点を調べる。
南制御室。
職員用の保守盤。
操作札は抜かれている。
「誰が開けた」
迅が扉の中から聞く。
「記録、ない」
「ないのを、収容者の逃走にした」
「した人、いる」
「所長?」
「まだ分からない」
「分からないを、所長にするな」
「知ってる」
迅は右肋を押さえる。
医療担当が触診する。
「深く吸って」
吸う。
痛い。
「もう一度」
「一度で分からない?」
「骨折の確認です」
「二回で折れるかもしれない」
「深く」
迅は吸う。
鋭い痛み。
呼吸音に異常なし。
皮下気腫なし。
「打撲。骨折所見なし。固定はしません。咳、息苦しさ、痛み増悪があれば」
「どこへ」
「医療配膳口」
「扉、開かなくても」
「青鍵担当が来ます」
「時刻は」
「申告から十分以内」
「書いて」
医療担当が記録へ書く。
迅は右肋を押さえたまま、廊下を見る。
開いた扉。
戻った盾。
血の付いていない床。
石灰の質問。
《いつまで》の文字だけが、落ちた粉塵で半分隠れていた。
イオが隣から言う。
「三番目、まだ?」
「B-22?」
「本人、待ってる」
B-22が言う。
「待ってねえ!」
「大声、待ってる人」
「殺すぞ!」
「その台詞も記録」
「しろ!」
迅は笑うと肋が痛むので、笑わない。
「審理、再開できるか」
外部審理官が答える。
「安全確認後です」
「何分」
轟が荷重計を見る。
「二十二」
「長いな」
「建物に急げと言え」
「聞かない」
「人より賢い」
迅は寝台へ座る。
逃げなかったことを、勝利だと思わない。
扉は外から開いた。
暴力も外から入った。
中にも、棒を取ろうとした手があった。
外と中を、善悪の線では分けられない。
床の黄色い線だけが残る。
迅は、その内側で待った。
午前十一時七分。
審理が再開された。
最初は、B-22。
予定より二時間早い。
イオが言う。
「棒の件、先に増えたから」
「順番守ってねえじゃねえか」
「守るため、変えた」
「便利だな」
「変更した人、私。理由、書いた」
B-22の扉は開いている。
本人は、内側に座る。
短棒はない。
拘束具もない。
審理官が聞く。
「今日、短棒を取ろうとしましたか」
「した」
「目的は」
「看守を殴る」
「なぜ」
「殴られると思った」
「実際に殴られましたか」
「前に、別の施設で」
「今日、この施設で」
「盾で押された」
「短棒で?」
「まだ」
「取った後、誰を殴るつもりでしたか」
「近いやつ」
「特定していない?」
「してない」
「あなたを止めたのは」
「イオ」
「イオさんを殴るつもりは」
「ない」
「なぜ」
「……三番目、守ったから」
審理官は記録する。
B-22が続ける。
「俺が受付の鼻を折ったのも、書け」
「既に記録されています」
「薬、妹に出さなかった」
「受付が?」
「規則だって」
「受付個人の判断ですか」
「知らねえ」
「あなたは、受付個人を殴った」
「そうだ」
「薬の拒否責任と、殴打責任を別に審理します」
「俺だけ悪くするな」
「別にするとは、あなただけにしないことです」
B-22は扉の内側へ拳を付いた。
「今日、逃げなかった」
「はい」
「棒も取れなかった」
「取ろうとした」
「イオが止めた」
「はい」
「じゃあ、俺は危険か」
審理官はすぐ答えない。
「具体的な暴力の危険はあります」
「なら閉じとけ」
「無期限にはしません」
「出したら殴るかもしれねえ」
「だから、どこへ移るか、何を制限するか、いつ再審理するかを決めます」
「自由じゃねえ」
「自由は、何も制限されないことだけではありません」
「それ、閉じ込めるやつの台詞だ」
冬実は医療室から戻っていない。
審理官が言う。
「そう聞こえます。だから、制限する私の名と、期限と、あなたが変更を求める窓口を残します」
「名前、公開しねえんだろ」
「あなたへは照合できます」
「ずるい」
「はい」
審理官は否定しなかった。
「職務上の危険を理由に公衆公開を拒否しながら、あなたへ制限を課します。その不均衡も記録します」
B-22は、長く黙った。
「外じゃなくていい」
「どこへ」
「殴っても止められるとこ」
「医療、訓練、拘禁、どれを望みますか」
「知らねえ」
「今日決めない選択もあります」
「いつまで」
「一月六日までに、候補を三つ提示。あなたが選ぶ。選ばなければ、現施設残留は一月十日まで。その前に再審理」
「ここに残るの、同意ってことにすんな」
「しません」
「書け」
記録板へ、大きく書かれる。
《残留は収容制度への同意ではない》
B-22は、扉を自分で十センチ閉めた。
全部は閉じない。
「寒い」
理由は、それだけだった。