第297話 第三章「最初の崩落」前編
六月十二日 午前九時四分
道路は、壊れる前に音を出す。
大きな音ではない。
伏見轟が聞いたのは、雨の下で砂糖菓子を割るような音だった。
ぱき。
次に、深い腹の中で石を擦る音。
環水三号塔の南側道路が、三センチ沈んだ。
「全員、端から離れろ」
轟は叫ばなかった。
叫ぶ前に、右手で路面へ白墨を引いた。
亀裂から二メートル。
雨で消える前に、榎並章吾が黄色い安全帯を張る。
「下、空けて」
章吾の声は太いが小さい。
地上では聞き返される声だった。
「何がある」
久我檻が壁際から問う。
格子縫いの黒い短衣。
鍵束はない。
用途別の小札だけが腰へ並んでいる。
「空洞」
轟。
「どれくらい」
「今から見る」
「それは答えじゃない」
「地面へ聞いてる途中だ」
轟は右拳で路面を叩いた。
一度。
二度。
音が違う。
白墨線の内側は硬い。
外側は、薄い板の下へ水が走っている音だ。
環水三号塔は、久我檻の占拠事件でも倒れなかった。
倒れなかったから、壊れていないわけではない。
あの時に残した構造診断記録には、外周道路の下へ旧給水管が二本、使われていない排水路が一本、住民が独自に補強した木杭が九本あると書かれていた。
九本。
行政図面では、零本。
「水巻!」
轟が呼ぶ。
塔の入口から、短い銀髪の女が出てきた。
水巻ハツ。住民技師。
「木杭、増やしたか」
「一本減った」
「なぜ」
「腐ったから抜いた」
「代わり」
「入れてない」
「記録」
「した。塔の中の板に」
「外の台帳へ」
「持っていかれたら困る」
「今、道路が持っていく」
「嫌味は後」
「後があればな」
久我が四角い小札を一枚持ち上げる。
《外周歩廊》
「歩廊を閉じる」
「誰の判断」
轟。
「警備」
「今の委任、続いてるのか」
「正面と屋上と、希望階外周だけ。三月十五日で一度切れた。住民ごとに更新した」
「全階じゃない」
「十四階から十七階。外周は九階以上」
「道路側は」
「住民設備。水巻」
久我は小札を水巻へ渡した。
以前なら、鍵も判断も自分で持っていた。
水巻が札を裏返す。
「閉じる。ただし北側歩廊は避難に使う。南だけ」
「受けた」
久我は復唱した。
閉じることを許可する声ではない。
決めた者を残す声だった。
路面が、もう一度鳴った。
ぱき。
今度は長い。
「下がる!」
轟が腕を広げた。
左肩を上げない。
術後の肩は、雨の日に古い火のような痛みを返す。
道路の端にいた若い女が、一歩遅れた。
折り畳んだ路線時刻表を手にしている。
「橋爪!」
水巻。
女の足元が落ちた。
道路は穴になるのではない。
まず傾いた。
傾いた板の上を、雨水と砂利と人が同じ方向へ滑る。
轟は右手を伸ばした。
指先が女の雨具の肩へ触れる。
布が裂けた。
女は見えなくなった。
その後で、道路が落ちた。
崩落幅、七・四メートル。
深さは、最も浅い場所で三・二。
旧排水路へ抜けた場所は、測れない。
給水管の一本が折れ、水が横から噴いている。
環水三号塔の登録一二六人。
塔内に八十九。
道路と外周に三十七。
崩落時、白墨線の内側に三十四。
外側に三。
一人は橋爪莉央。
二十四歳。
塔の配給所で路線時刻を書き写す仕事をしていた。
残る二人は、亀裂の向こうにいる。
一人は右腿を挟まれている。
一人は、給水管へ掴まっている。
「管を止める」
水巻が言う。
「塔の給水が落ちる」
阿久津サナ。
白衣の上へ灰色の防寒着を着ている。胸元の細い鍵は、警備ではなく診療室の物だ。
「止めなきゃ道路が落ちる」
「止めたら上階の透析用水は」
「貯水槽、二時間」
「二時間で復旧できる?」
「できない」
「なら代替水を先に上げる」
「道路が二分持つか分からない」
轟は崩落面を見た。
「一分四十」
「根拠」
サナ。
「音。亀裂の伸び。水量」
「外れたら」
「俺の名で外れる」
「名前で道路は持たない」
「だから急ぐ」
久我が捕縛枠を外した。
「索を向こうへ渡す」
「退路を閉じるなよ」
轟。
「使わない」
「能力を?」
「閉じていいか聞く暇がない。今は開けたまま引く」
「なら枠だけ使え」
久我が四角い金属枠を連結し、短い梯子へ変える。
ノノが布索を通す。
磯良ノノ。索具修理工。
「赤索じゃないよ」
由良が崩落の向こうから言った。
いつの間に渡ったのか、胸の赤索を橋脚へ掛けている。
「見れば分かる」
ノノ。
「色を言ったんじゃない。張り方」
「剛嶺式は石へ食い込む。これは給水管へ傷を付けない」
「滑る」
「濡れても戻せる」
「戻す前に落ちる」
「喧嘩は人を渡してから」
透子が言った。
左手首の固定具を胸へ寄せ、右手だけで形状札を掲げる。
三角。
《索、一本》
四角。
《人、一人ずつ》
切れた輪。
《途中停止なし》
「復唱」
澪の声が無線から届く。
《索一本。単独。停止なし》
「違う」
透子。
《何が》
「一人ずつ。単独じゃない。引く人がいる」
一瞬の沈黙。
《訂正。通過者一人。引き手二人以上》
「受けた」
言い直しは、命令の傷ではない。
傷を隠さない手当てだ。
轟は白墨線へ足を置いた。
崩落側へ体重を掛ける。
「轟、行くな」
由良。
「向こうの支点が足りん」
「私がいる」
「動く支点だろ」
「動ける」
「今は動くな」
「命令?」
「お願い」
「似合わない」
「俺もそう思う」
轟は倒れた街路灯の根元へ、布索を二重に回した。
左腕は胸の高さより上げない。
右手と腰で締める。
榎並章吾が反対側へ赤いボルトを一本打った。
「切る場所、決める」
「何を」
「道路。全部落ちる前に、崩れる板だけ切る」
「橋爪が下にいる」
水巻。
「いる場所、分からない」
「切ったら」
「下へ落ちる範囲を狭める」
「生きてたら」
「だから先に二人を上げる」
章吾はカラビナを三回鳴らした。
緊張している。
地上では言葉が途切れる男が、高所では迷わない。
「俺が決めた」
章吾が言う。
轟は頷いた。
責任を励ます言葉は言わない。
決めた者の手を止めるのは、慰めより簡単だからだ。
最初の一人を上げるまで、二分十九秒。
予定より三十九秒遅い。
右腿を挟まれた男は、引かれる途中で叫んだ。
「足が抜ける!」
サナが崩落縁へ膝をつく。
「数字でなくてもいい。痛み、何に似てる」
「犬!」
「噛む?」
「骨を持ってく!」
「では止める。引くのを止める。骨は置いていく」
「途中停止なしだろ!」
透子。
「医療停止。変更」
サナ。
「誰から誰へ?」
「阿久津サナから、引き手全員へ。十五秒停止。腿の圧迫を外す」
「形は」
「四角の中に横線」
透子が札を作る。
命令は届けば終わりではない。
変わった命令が戻って初めて、往復になる。
轟は索を緩めず、荷重だけを腰へ逃がす。
左肩が熱い。
「十五」
サナが数える。
十四で圧迫材が外れた。
「再開」
男が上がる。
サナは患部を見て、短く言った。
「骨折疑い。入院」
「歩ける」
「歩くと、入院が手術へ変わる」
「仕事が」
「仕事へ戻りたいなら、今は歩かない」
「命令?」
「説明。拒否してもいい。拒否した名も残す」
男は歯を食いしばる。
「担架」
「受けた」
二人目は給水管へ掴まったまま、指が開かなかった。
恐怖で固まっている。
久我が壁際から呼ぶ。
「出口、見た?」
男が頷く。
「どこ」
「あっち」
「閉じない。今日は閉じない。手を離しても、そこにある」
「信用できるか!」
「できない」
久我は平坦に言った。
「だから、出口をおまえの目で見たまま下がれ。私が追わない」
「追わないって」
「名を言う。久我檻。追わない」
男の右手が給水管から離れた。
左手はまだ。
由良が赤索を一センチ引く。
「近道はない。三歩、後ろ」
「後ろは穴だ!」
「索がある」
「見えない!」
「見るな。足へ当てる」
ノノが布索を男の踵へ触れさせる。
一歩。
二歩。
三歩。
男は四角い枠へ乗った。
引き上げる。
二人目、救出。
その瞬間、路面の亀裂が白墨線を越えた。
「切る!」
章吾がレンチを振る。
赤いボルトを抜く。
住民補強の木杭へつながった鋼板が外れる。
道路の崩落部だけが、低い唸りとともに落ちた。
塔側の路面は残った。
向こう側の道路は、完全に切れた。
救助経路も切れた。
成功と不便は、同じ音で来た。
午前十時三十八分。
橋爪莉央は、崩落した鋼板の下で見つかった。
深い排水路へは流されていなかった。
水巻が折り畳まれた路線時刻表を確認した。
サナが身体を確認した。
七瀬は撮影機を下ろした。
死亡確認時刻、午前十時四十一分。
推定死亡時刻は、崩落直後。
画面へ映った時刻と、死亡した時刻は同じではない。
七瀬は両方を書いた。
水巻が路線時刻表を開く。
雨で文字が滲んでいる。
「今日、塔の子を学校へ送る便を書いてた」
「家族」
サナ。
「姉が十二階。今、点呼中」
「誰が伝える」
水巻は答えない。
久我も答えない。
轟は崩落面を見た。
「俺が」
「あなたは家族を知らない」
水巻。
「崩落を見た」
「だからって、全部の責任者にならないで」
「道路を開ける判断は俺だ」
「莉央の暮らしは私たちだ」
水巻は時刻表を畳んだ。
「私が伝える。轟は、何が落ちたかを説明して」
「受けた」
死を伝える仕事も、専門が一つでは足りない。