第298話 第三章「最初の崩落」後編

 塔を守るか。

 道路を開けるか。

 午後零時までに決める必要があった。

 折れた給水管を止めれば、塔の上層は貯水槽だけになる。

 止めなければ、道路下の空洞が広がる。

 轟は塔の構造図を広げた。

「十四階以上は残れる」

「何人」

 久我。

「設備と水を考えると十四。介助者込み」

「誰が決める」

「残る本人」

「警備は」

「希望階だけ」

「私が残るとは言ってない」

「残れとも言ってない」

 水巻が腕を組む。

「塔を管理できるのは」

「水巻、ノノ、上階の設備当番」

「轟は」

「道路へ出る」

「塔を捨てる?」

 塔の住民が言った。

 轟はその言葉へ、すぐ答えなかった。

 捨てるという言葉は、残る人の前で使うと刃になる。

「塔を、塔の人へ返す」

「壊れたまま?」

「直す手順を残す。俺がずっと支える形にはしない」

「支えられるのに」

「支え続けたら、俺が離れた日に落ちる」

 久我が小札を一枚、轟へ見せた。

《南外周閉鎖・六月十二日午前九時十分》

 裏には、開き直す条件が書いてある。

《給水管停止。路面支保。住民点検三名。外部技師は助言のみ》

「住民三名」

 久我が言う。

「もう決めた」

「誰」

「水巻。ノノ。チカの母」

「チカの母は設備を」

「知らない。だから、使う人の目が要る」

 轟は久我を見る。

「おまえ、変わったな」

「鍵を減らした」

「性格は」

「狭い場所なら話す」

「ここ、空が広いぞ」

 久我の呼吸が少し浅い。

 轟はそれ以上、見なかった。

「南外周は塔へ任せる。俺は道路の先へ行く」

「どこへ」

「壊れてるところ」

「多い」

「仕事には困らん」

 轟は長い支柱を肩へ載せようとした。

 左肩が上がらない。

 右へ持ち替える。

 章吾が反対端を取った。

「一人で持てる」

「持てるかじゃない」

 章吾が言う。

「誰が戻す」

 守屋峻の言葉が、章吾の口から出た。

 轟は少し笑った。

「橋番に似てきたな」

「嫌だ」

「本人も嫌がる」

 二人で支柱を運ぶ。

 塔の入口では、水巻たちが給水停止の時刻を決めていた。

 轟の名は、責任者欄の一番上にはなかった。

 午後零時七分。

 給水管の元弁を閉じる時刻が来た。

 塔の一階には、住民が四列に並んでいる。

 移る。

 残る。

 まだ決めない。

 質問がある。

 久我は列を作らせたのではない。

 床へ四種類の札を置いただけだ。

 以前の久我なら、列を作った。

 並ばない者を不明と呼び、不明を危険と呼んだ。

 今は、質問の札の前がいちばん長い。

「水を止めたら、何階まで出る」

 十三階の老人が訊いた。

「十二階の共用蛇口まで」

 水巻。

「十四階以上は」

「貯水槽。飲用は一人一日二・四リットル。洗浄は別。透析用は診療室へ優先」

「優先って誰が決めた」

 サナが答えた。

「患者本人と医療担当。ここでは名前を言わない。必要量だけ出す」

「残る十四人はもう決まったのか」

「決めてない」

「さっき轟が十四と言った」

「設備が持つ上限だ」

 轟は支柱の端から手を離した。

「人数の命令じゃない」

 老人は濡れた眉を寄せる。

「上限ってのは、十五人目を落とす言葉だろ」

「そうなる」

「言い方を変えないんだな」

「変えたら、十五人目が安全になるか」

「ならない」

「だから変えない」

 久我が横から言う。

「ただし、十四人は同じ十四人でなくていい。昼に残る者と夜に残る者を替える。北側歩廊が持つ時間だけ」

「鍵は」

「用途ごと。水巻が元弁。サナが診療室。ノノが索具。私は外周」

「全部持たないのか」

「持つと便利だ」

 久我は真顔で言った。

「便利は、だいたい後で誰かの首になる」

 質問列から、十七枚の《残る》札が出た。

 上限は十四。

 久我は札を数え、三枚を外さなかった。

「どうする」

 住民が訊く。

「三人を選ぶのか」

「選ばない」

 久我。

「でも十五人目は危険なんだろ」

「同時に上へいる上限が十四」

「言葉遊びか」

「勤務を分ける」

 水巻が設備表を床へ広げる。

 貯水槽の確認。

 北歩廊の亀裂。

 診療室。

 外周索。

 窓札。

「必要な仕事は、常時九人。介助を含めて十一。残り三枠」

「十七人が残りたい」

「残りたい理由を、仕事へ変えなくていい」

 サナ。

「家を離れたくない。それでも理由になる」

「じゃあ、どう決める」

 チカの母が言う。

「時間」

 昼に残る者。

 夜に残る者。

 休憩のため下へ移る者。

 上層にいる人数を十四以下に保ち、十七人のうち誰も《退去させられた三人》にしない。

「下へ行く時、残る意思を撤回したことにされない?」

 女。

「しない」

 真琴が札へ追記する。

《一時移動は残留意思の撤回ではない》

「戻る保証は」

「北歩廊が使える間。設備状況が変われば再説明」

「保証じゃない」

「できない保証を出さない」

「嫌な法律家」

「ありがとうございます」

「褒めてない」

「よく言われます」

 十七人は、自分の時刻を選んだ。

 最初の夜は十四。

 翌朝、三人と三人が交代する。

 交代する者の一人は、透析患者の姉だった。

「弟を置いて下りるの?」

 住民が訊く。

「弟が、夜は一人でいいと言った」

「家族なのに」

「家族だから、本人の言葉を聞く」

 弟は診療室から札を出した。

《夜間の介助は医療担当。姉は六時間休む》

 姉は不満そうに札を見た。

「弟、字が上手くなった」

「そこ?」

「嫌だって言うと、余計に休ませたがるから」

 残ることは、ずっと立っていることではない。

 交代できることも、残る生活の一部だった。

 轟が鼻を鳴らした。

「誰に教わった」

「扉」

「喋る扉だったか」

「壊された時だけ」

 質問列の端で、チカが笑った。

 笑ってから、橋爪莉央がいないことを思い出した顔になった。

 笑いは止まった。

 罪ではない。

 止める必要もない。

 水巻が元弁へ手を掛ける。

「閉める。十二時九分。再開条件は」

 透子が形状札を上げる。

 丸。

 横線。

 三つの点。

「圧力安定。仮設管完了。住民三人の目視」

「外部技師は」

「助言のみ」

 轟は言った。

「助言は、断っていい」

「あなた、断られたら傷つく?」

 チカ。

「肩よりは軽い」

「どっちの肩」

「聞くな」

 弁が回った。

 給水管から噴いていた水が、細くなる。

 道路下の濁流はすぐには止まらない。

 遠くの故障を、目の前の栓一つで止められるほど、都市は親切に作られていない。

 圧力計の針が下がった。

 塔の上から、窓札が順に変わる。

 白い四角。

 移動できる。

 白い三角。

 介助が要る。

 黒い横線。

 今は動かさない。

 赤と緑を使わない札は、年末の八地区同時判断で作られたものだった。

 透子が形を読み、澪が無線で復唱し、病院側が触覚札へ置き換える。

 窓札は窓だけの道具ではなくなった。

 使った者の名前は変わらないまま、仕事だけが隣へ渡る。

「十四階、白四角四」

 透子。

《受けた。移動可能四。行先を確認》

「十五階、三角二、横線一」

《介助二。保留一。保留理由は聞かない》

「十六階――」

 塔の人数が、少しずつ数へ変わる。

 数は人を小さくすることがある。

 しかし、数えないことは、人を消すもっと簡単な方法だった。

 午後一時二十二分。

 崩落部の向こうへ残された道路作業員三人が、北側歩廊と住宅の外階段を使って塔へ入った。

 それは公式避難口ではない。

 住民が洗濯物を干し、子どもが近道に使い、久我が以前は巡回禁止にしていた細い階段だった。

「幅、七十二」

 章吾が測る。

「担架は縦」

 サナ。

「角で曲がらない」

「布担架なら曲がる」

「床が滑る」

「古い毛布を敷く」

「誰の」

 久我。

「九階共同室」

「返す日」

「洗って、六月十四日」

「遅い」

「乾かなきゃ返せない」

「十五日」

 久我が札へ書いた。

 轟は細い階段を見上げた。

 公式図面にはない。

 だが、使われてきた跡がある。

 手すりの下だけ塗装が剥げている。

 踊り場の隅に、片方だけの子ども靴。

 八階と九階の間に、誰かが貼った古い星の紙。

 建物は図面で作られる。

 道は、使った足が作る。

「これ、どこまでつながる」

 轟が訊く。

 チカが答えた。

「裏の水路まで。水路の先は保守線の柵」

「柵の向こう」

「線路。今は水」

「切符売場へ出るか」

「昔は。今は鍵が違う」

 久我が小札を二枚見比べる。

「塔の鍵では開かない」

「開けられる者を探す」

「中央へ?」

「住民へ」

 轟は階段の幅をもう一度測った。

 七十四メートル。

 塔の裏階段から住宅棟の背後まで。

 この時点では、ただの近道だった。

 避難口ではない。

 名前もない。

 だから使えた。

 名前が付く前の道は、まだ誰の権威にもなっていない。

 午後二時五分。

 橋爪莉央の姉が、一階へ下りてきた。

 濡れた髪を結ばず、十二階の窓札を握っている。

 水巻が先に話した。

 サナが死亡確認の範囲を話した。

 轟が崩落の順序と救助判断を話した。

 誰も「仕方がなかった」と言わない。

 それは説明ではない。

 説明を終わらせる言葉だ。

「妹は、どこにいたんですか」

「白墨線の外側です」

 轟。

「白墨は見えた?」

「引いてから、崩落まで約二十秒。声は掛けた。届いたかは分からない」

「あなたの手、触れたんですよね」

「雨具へ」

「掴めなかった」

「はい」

 轟は敬語を使った。

 普段の彼には、重い工具より扱いにくい言葉だった。

「もっと早く止められた?」

「前の診断で道路下の空洞を確定できていれば。給水管の漏れを昨日止めていれば。木杭を抜いた記録が外へ共有されていれば」

「誰のせい」

「一人にはできません」

「一人にしてくれた方が、殴れる」

 迅がここにいれば、何と言っただろう。

 轟は考えた。

 考えて、借りないことにした。

「俺も、そうしたい時があります」

「殴るんですか」

「殴るより、支える方が長い」

「答えになってない」

「はい」

 姉は路線時刻表を受け取った。

 開こうとして、やめた。

「これ、乾かせますか」

「七瀬が紙の保全を知ってる」

「映像は」

 七瀬が撮影機を上げないまま答えた。

「崩落前後の固定映像があります。見る、見ない、保管だけ、公開範囲を決める。今日決めなくていいです」

「妹が落ちるところは」

「画面の端です。身体は映っていません」

「じゃあ、見ます」

 七瀬はすぐ再生しなかった。

「いま?」

「いま。決め直してもいい?」

「途中で止められます」

「止めるのは誰」

「あなたです」

 姉は頷いた。

 塔の一角に、小さな囲いが作られた。

 雨音を消せる場所ではない。

 他人の視線だけを少し遠ざける布だった。

 轟はそこへ入らなかった。

 道路へ戻る。

 崩落の寸法を測る。

 支柱の返却先を書く。

 仮設管の重量を計る。

 悲しんでいる家族の隣で仕事を続けることは、冷たいように見える。

 仕事を止めて一緒に泣けば、次に落ちる道路が待ってくれるわけではない。

 都市は残酷なのではない。

 待つ機能を持っていないだけだ。

 午後三時十一分。

 環水三号塔の移動集計が出た。

 登録、一二六。

 外周と北歩廊から移動、一一一。

 上層へ残る選択、十四。

 死亡確認、一。

 合計は合う。

 水巻は、合った数字を見ても安心しなかった。

「一一一の行先」

 轟。

「東門三十七。旧食堂四十二。北工区二十。病院十二」

「受領」

「東門三十七、受領済み。食堂三十九、三人は途中。北二十。病院十、二人は診療待ち」

「途中三、診療待ち二を、到着へ入れるな」

「入れてない」

「顔が入れたがってる」

「顔に帳簿を付けるな」

 水巻は紙を四つに分けた。

 移動開始。

 経路上。

 受領。

 医療確認。

「十四人は」

 久我。

「十四階四。十五階三。十六階二。十七階五」

「警備希望」

「十七階二世帯だけ」

「外周巡回、十七階だけ」

「十四階は拒否」

「行かない」

「水の確認は」

「水巻」

「医療」

「サナ」

「久我は」

「外周の開閉」

「一つだけ?」

「一つで足りる」

 久我は腰の小札を見た。

 以前は、鍵束が重いことを権力の重さだと思っていた。

 今は、札が一枚であることを確認する。

「閉じていい?」

 十四階の住民へ訊く。

「南歩廊だけ。北は開けて」

「理由」

「隣の婆さんが、夜に息苦しくなる。北から診療室へ」

「受けた」

 南歩廊だけを閉じる。

 一枚の鍵で塔全体を閉じない。

 午後三時二十九分。

 仮設給水管を通すため、崩落した道路の縁へ支保材を入れた。

 轟が最初の一本を持つ。

 章吾が反対側。

 塔の住民二人が中央。

「一人増やす」

 轟。

「四人で足りる」

 住民。

「左の支点が沈む」

「俺らは塔を毎日見てる」

「俺は道路下を見た」

「見たのは今日」

「だから聞く。いつから沈んでた」

 住民が支柱を置く。

「雨が三日続くと、ここだけ靴が濡れた」

「何年前から」

「二年」

「記録」

「してない」

「なぜ」

「道路は市のもの。塔の仕事じゃない」

「今日から」

「塔のものになる?」

「ならない。気づいた者の記録になる」

 轟は白墨で支点を変えた。

 住民の靴が濡れた場所を避ける。

 支柱を入れる。

 左側は三センチ沈み、止まった。

「毎日見てる目、使える」

 轟。

「褒めた?」

「確認」

「皆その言葉使うな」

 章吾が笑う。

 仮設管は、塔の住民が最後の締め具を回した。

 轟は手を出さない。

「締めすぎるな」

「助言だけ」

 水巻が言う。

「分かってる」

「顔が締めたがってる」

「顔に工具を持たせるな」

 締め具が止まる。

 圧力を戻す。

 仮設管から、最初の水が十四階へ上がった。

 蛇口を開けたのは、残ると選んだ住民だった。

「出た」

「濁り」

「最初、茶色。三十秒で透明」

「飲むな。検査」

「分かってる」

「顔が飲みたがってる」

「それ、流行ってるのか」

 塔の中で、短い笑いが起きた。

 橋爪莉央の死が消えたわけではない。

 笑った人間が、悲しんでいないわけでもない。

 水が出た時、人は笑う。

 都市は、その矛盾を許す場所でなければならなかった。

 道路は切れた。

 塔は残った。

 どちらも、完成ではない。