第71話 第十章「手動弁」前編

八月二十日 午後零時三十九分

 地下へ降りる階段は、上から見れば出口だった。

 下から見れば、一本しかない入口だった。

 伏見轟は最初の踊り場で壁を二回叩いた。

 低い音。

 次に、少し高い返り。

「空洞」

 タマキが鉄箱を抱え直す。

「どこ」

「壁の後ろ。排水路」

「出口?」

「人は通らん」

「何が通る」

「熱い水」

「出口じゃない」

「水には出口」

「人の話」

「今は水も守る」

 轟は先へ進んだ。

 橙色の工事ベストは、既に背中が黒く濡れている。汗ではない。天井から落ちる凝結水だ。

 階段は螺旋。

 中心に太い縦管。

 外壁に手摺。

 四段ごとに排水溝。

 照明は二つに一つしか点かない。

 竜胆迅が後ろから数える。

「百二十六段」

「まだ」

 タマキ。

「百二十六ある」

「見える?」

「螺旋の角度」

「適当」

「数えれば分かる」

「何段」

「今、二十三」

 タマキは自分でも数え始めた。

 鉞谷鉄志が最後尾を歩く。

 右耳の補聴器は外して、内ポケットへ入れている。地下では音が反射しすぎる。機械音が耳の中へ釘のように刺さるらしい。

「門柱」

 鉄志が呼ぶ。

 轟は振り向かない。

「何だ」

「弁室の前に均圧扉がある」

「図にない」

「二年前につけた」

「誰が」

「俺」

「記録」

「保全日誌」

「図へ入れろ」

「今、言うか」

「今、困ってる」

「壊せば開く」

「飲料管の横」

 鉄志が黙った。

「知ってる」

 轟が言う。

「壁の話を聞くようになったな」

「前から聞いてる」

「壊す前に?」

「最近」

 迅が振り返る。

「仲いい?」

「悪い」

 二人が同時に答えた。

 タマキが鉄箱の留め具を鳴らす。

「同じ返事」

「仲悪い証拠」

 鉄志。

「仲いい奴は、同じ問いに別の嘘つく」

 轟。

「経験?」

「料金取るぞ」

「何の」

「相談」

 螺旋の下から、鈍い衝撃が上がった。

 縦管が震える。

 四人の足が止まる。

 迅は手摺を離さない。

「何拍」

 轟。

「四。遅れて一」

「銀管」

「自動駆動が弁を閉めようとして、噛んで戻る」

 鉄志が縦管へ左掌を当てた。

「一分に五回」

「上は九・九」

「地下で十越えてる」

「なぜ」

「弁の手前で溜まる」

「破裂は」

 タマキ。

「一番弱い継手」

「どこ」

「分からん」

「それ、困る」

「工場も困ってる」

 轟は歩き出した。

 今度は速い。

 階段の幅は狭い。彼の肩が両側へ近い。

 巨大な身体は、広い場所では壁になる。

 狭い場所では、自分が渋滞になる。

「先、代わる?」

 迅。

「扉、重い」

「俺、開ける」

「右腕」

「左ある」

「弁まで残せ」

「使うのは足」

「扉は蹴るな」

「おまえが言う?」

「俺が言う」

 轟は百二十六段目で止まった。

 タマキが小声で言う。

「本当に百二十六」

「料金」

「払わない」

「なら黙れ」

「もう言った」

 均圧扉は、図面より新しかった。

 直径一・六メートルの丸扉。

 中央に四本腕の取っ手。

 左右へ小さな圧力計。

 手前、十・二。

 向こう、九・一。

 差が一・一。

 このまま開けば、扉そのものが四人を階段へ吹き飛ばす。

「均す」

 鉄志が扉脇の細い針弁へ手を伸ばす。

 轟が腕を止めた。

「それ、赤」

「均圧だ」

「塗り直し」

 轟は床際の管へ耳を当てる。

「今、冷却へ繋がってる」

「いつ変えた」

「知らん」

「俺がつけた時は」

「二年で現場は変わる」

「また図か」

「図じゃない。音」

 轟は反対側の小さな弁を指した。

 塗装は剥げ、何色か分からない。

「こっち」

「根拠」

「水の速度」

「外したら」

「先に排水が鳴る」

「鳴らなかったら」

「閉める」

「誰が」

「俺」

「責任」

「俺」

 鉄志の口が曲がる。

「昔と同じだな」

「何が」

「全部、自分で持つ」

「今は聞いた」

「俺に?」

「おまえが知ってる」

 鉄志は弁を見る。

 轟を見る。

「開けろ」

「確認者」

 迅が言った。

「俺」

 タマキが鉄箱から白札を出す。

「操作、伏見轟。設備知識、鉞谷鉄志。確認、竜胆迅。工具と時刻、環玉樹」

「何でおまえが書く」

 鉄志。

「手が空いてる」

「子どもに責任を」

「時刻と工具だけ。弁の判断は書かない」

「分けるのが好きだな」

「混ぜると、なくなる」

 轟が無塗装の針弁を四分の一回転した。

 床下で、水が長く鳴る。

 排水。

 手前圧、十・〇。

 向こう、九・二。

 もう四分の一。

 差、〇・四。

 三十秒待つ。

 〇・二。

 轟は丸扉の取っ手へ左手を掛けた。

「開ける」

 四人が壁へ寄る。

 扉が内側へ五センチ動く。

 熱い空気が細く吹く。

 異常なし。

 さらに開ける。

 弁室が現れた。

 弁室へ入る前に、轟は入口の床へ工具を一列に並べた。

 持って入る物。

 入口へ残す物。

 帰りに必要な物。

 タマキが札を三色に分ける。

 赤は内部。

 黄は入口。

 白は帰還。

「全部持てば早い」

 鉄志が言う。

「重い」

 轟。

「俺が持つ」

「防煙面つけて、両手塞ぐな」

「門柱が細かくなった」

「肩幅は同じ」

 迅は四十三番魚骨を左手で持ち上げた。長い二股工具。先端が弁輪の腕へ噛む。

「これ、重い」

「八キロ」

「左でいける」

「帰りも左で持てる?」

 タマキが訊く。

 迅は答えない。

「持てるかじゃない。帰りに持てるか」

「置いてくる」

「返却先、保全室」

「じゃあ轟」

「左肩、まだ無傷」

 轟が言った。

「まだ、って何」

「現場は終わってない」

 タマキは魚骨へ黄札を結んだ。

《入口待機。必要時に受け渡し。帰還時、最優先で回収》

「工具が最優先?」

 鉄志。

「人の次」

「書け」

 タマキは追記した。

《人員四名の退出確認後》

 迅が白札を一枚取る。

「俺の」

「何」

「帰り」

「名前」

「竜胆迅」

「状態」

「右腕固定」

「できないこと」

「強く握らない。右で受けない」

「できること」

「歩く。蹴る。左で持つ」

「帰還条件」

「右腕の痛みが増えたら」

「どのくらい」

「今、三」

「五で戻る」

「四」

「五」

「四半」

「数字に半はある」

「四半で」

 タマキは《疼痛四・五》と書いた。

 鉄志が鼻で笑う。

「子どもに帰る時刻を決められるのか」

「状態を聞いて書いた。決めたのは迅」

「四半って言わせた」

「交渉」

「小さい真琴だな」

「嫌」

 迅が言った。

「聞こえてる」

 階段の上から、かすかに高い笛が届いた。

 退避準備の確認。

 澪の高音は地下へ来る頃には、細い振動だけになる。

 鉄志には聞こえない。

 轟が左手を上げ、三本指を示した。

 鉄志が頷く。

 同じ音を聞かなくても、意味は渡る。

 入口の右壁には、細いひびが走っていた。

 轟は白墨で両端へ印を付け、間隔を測る。

 三・二ミリ。

「前から」

 鉄志。

「いつ見た」

「二年前」

「幅」

「覚えてない」

「伸びたか分からん」

「今から分かる」

 轟は時刻を書く。

《十二時四十九分 三・二》

「弁閉める間に広がったら」

 タマキ。

「入口から戻る」

「弁は」

「置く」

 鉄志が振り向く。

「置けない」

「人を置くよりいい」

「上が破裂する」

「ここが潰れたら、誰も閉められん」

 二人の間に熱い空気が流れる。

 迅はひびへ指を近づける。

 触れない。

「今、動いてない」

「分かる?」

 タマキ。

「粉、落ちてない」

 ひびの下へ積もった錆粉は崩れていない。

 轟は入口へ小さな鏡を立てた。弁室の中からでも、ひびの印が見える角度。

「誰が見る」

「交代」

「四人しかいない」

「最初、タマキ。次、迅。俺とテツは輪」

「俺も輪」

 迅。

「右腕」

「足」

「それは後」

「何で」

「まだ何が源か分からん」

 轟は迅の能力を名で呼ばない。

 使うと決める前に、使わせる形を作りたくないのだ。

 鉄志は防煙面を付け、白札へ自分の状態を書く。

《右手旧火傷。補聴器なし。発声可能。視界良好》

「帰還条件」

 タマキ。

《工員を置いて帰らない》

「能力の条件じゃない」

《俺の条件だ》

「四人とも工員?」

「門柱は元。迅とおまえは違う」

「じゃあ置いて帰れる」

 鉄志の鉛筆が止まる。

 タマキは真顔だった。

「書き直して」

 鉄志は一度、轟を見る。

《同行者を置いて帰らない》

「自分が動けなかったら」

《三人が先に帰る》

「矛盾」

《俺を置け》

「置いて帰らないって書いた」

 鉄志が苛立つ。

 轟が白札を取り、下へ書く。

《歩行不能者は二名で搬送。圧力十・五超または入口ひび四ミリで作業中断。搬送不能の場合、救難要請》

「俺を荷物にするな」

「先に人」

 轟。

「弁は」

「次」

 鉄志は反論したかった。

 上で圧力が十へ近づいている。

 反論にも時間が掛かる。

「署名」

 タマキが言った。

 四人が白札へ名を書く。

 帰る条件を決めてから、弁室へ入る。

 戦いの準備は、勝ち方を決めることだと思われる。

 実際には、負けた時に誰を置かないか決める方が先だった。

 午後零時五十二分

 地下弁室は、円形だった。

 直径十二メートル。

 外周に歩廊。

 中央に直径三メートルの手動輪。

 輪から八本の腕が伸びる。

 床下には主弁軸。

 天井に重錘が二つ。

 鉄の塊が鎖で吊られ、弁を自動で閉じる方向へ引く。

 本来なら停電しても閉まる。

 今は閉まっていない。

 輪の下、歯車の間に黄色い安全楔が噛んでいる。

 自動駆動が閉じようとするたび、楔へ当たり、跳ね返る。

 四拍。

 遅れて一拍。

「誰が楔入れた」

 轟。

「保守時の開放固定」

 鉄志。

「抜き忘れ」

「自動で外れる」

「外れてない」

「見れば分かる」

「何で」

「変形してる」

 安全楔の端は、熱で膨らみ、歯へ食い込んでいる。

 迅が円周を歩く。

 床の白線を数える。

「一周、三十六歩」

「今、数える?」

 タマキ。

「必要」

「何に」

「まだ分からない」

「じゃあ必要じゃない」

「後で要る」

「後って」

「近い」

 タマキは嫌そうな顔をした。

 鉄箱を入口横の乾いた台へ置く。

「工具確認。四十三番魚骨。二十四番長柄。耐熱楔二。打撃槌一。冷却布四。防煙面四。返却先、保全室」

「防煙面、つけろ」

 轟。

「まだ蒸気ない」

「つける」

 鉄志が先に一枚取った。

 右耳に補聴器がないため、面の密着は良い。

 轟は左肩を一度回す。

 痛みはない。

 まだ。

「楔を抜く」

 迅。

「先に輪を押さえる」

 轟。

「抜けた瞬間、重錘で閉まる」

「閉まればいい」

 鉄志。

「速すぎる。水撃で緑管が割れる」

「なら輪を持つ」

「四人じゃ足りん」

「俺がいる」

「一人を四人に数えるな」

「門柱は昔、六人分だった」

「今、左手しか使えん奴と、右腕が壊れた奴と、十四歳だ」

「俺は両手ある」

 鉄志が言う。

「右、火傷」

「古い」

「今も握り変えた」

「見過ぎだ」

「構造」

 轟は天井を見上げた。

 重錘の鎖。

 左側は新しい。

 右側は赤錆が浮いている。

「閉じるのに十一回転」

 鉄志。

「七回で赤戻り遮断。残り四回で主圧隔離」

「途中で止める?」

「七回で炉前温度を確認する」

「信号」

 タマキ。

「配管打音」

「地下、聞こえる?」

「銀管が止まれば」

「止まってない」

「だから先に楔」

 轟は手動輪へ四十三番魚骨を差し込んだ。

 輪を少しだけ逆へ押す。

 楔へ掛かる荷重を抜く。

 動かない。

 鉄志が反対側へ入る。

「せーので」

「言うな」

「何で」

「機械へ予告いらん」

「人へ要る」

「なら言え」

 鉄志が息を吸う。

「せーの」

 二人が押す。

 輪が二センチ動く。

 楔が鳴る。

 迅が長柄を差し、抜こうとする。

 右腕は使わない。

 左手と肩で押す。

 楔は一ミリ浮き、戻る。

 重錘が反対へ引く。

 輪が跳ねた。

「離せ!」

 轟。

 全員が手を離す。

 長柄が回転し、迅の頭を掠める。

 彼は一歩退く。

 棒が空を切る。

 輪が半回転して止まる。

「一」

 迅が呟く。

「何が」

 タマキ。

「まだ」

「また後?」

 鉄志は輪の位置を見る。

「今ので、開いた」

「閉める力が戻った」

 轟。

「楔の角度が悪い」

「叩く」

「歯が割れる」

「じゃあ削る」

「圧掛かったまま?」

「時間がない」

 鉄志は打撃槌を取った。

 轟が柄を掴む。

「叩くな」

「放せ」

「歯が先に死ぬ」

「管が先に死ぬ」

「歯が割れたら弁が閉じん」

「楔が抜けなきゃ同じだ」

「削る」

「何分」

「七」

「圧は十・四だ」

「七分持つ」

「誰が言った」

「音」

「音は保証しない」

「おまえの勘はするのか」

 二人の手が槌の柄で押し合う。

 迅が見ている。

 タマキは工具札へ時刻を書く。

「喧嘩するなら目的」

 二人が同時に彼を見る。

「槌は誰から誰へ、何のため」

「保全室から俺へ、楔を外す」

 鉄志。

「方法は」

「叩く」

「送り主、叩けって言った?」

「工具は使うためだ」

「壊すため?」

「外すため」

「轟さんは」

「削る」

「目的、同じ?」

「同じ」

「時間、違う?」

「違う」

「じゃあ、何分あるか確認」

「上へ聞けん」

「受取人、澪さん」

 タマキは入口の伝声管へ走る。

 蓋を開ける。

 蒸気音。

 声は通らない。

 彼は管を木槌で叩く。

 長二回。

 地下班の合図。

 上から返る。

 短三、長一。

 退避準備。

 続いて、打音表の数字。

 一、〇、三。

「十・三」

 タマキ。

 もう一度。

 数字。

「上は十・三。地下、十・四」

 轟。

「差、小さい。継手が持てば十分」

「持たなければ」

 鉄志。

「叩いても同じ」

「違う。三秒早い」

「三秒で歯を失う」

「三秒で人が焼ける」

 鉄志が槌を引いた。

 轟は離さない。

 力がぶつかる。

 二人の足が、円形の白線を踏む。

 轟の胸に、矩形の光が走った。

 一人門。

 二本の境界線。

 入口と弁輪の間。

 この範囲で、轟が敵として受けるのは一人だけ。

 迅とタマキは、弁を挟んだ外側へ弾かれるように立ち位置を変えた。

 鉄志の目が細くなる。

「俺を敵にするか」

「今は槌」

「俺だろ」

「槌を持つおまえ」

「同じだ」

「違う」

 鉄志が槌を横へ振る。

 轟は左前腕で受けない。

 柄へ掌を添え、方向を変える。

 槌頭が手動輪の腕へ当たる。

 輪が一目盛り閉じる。

 鉄志が気づく。

「俺の力を使う?」

「工具、使う」

「人を工具にするな」

「なら放せ」

「放したら七分だ」

「一緒に回せ」

「楔が」

「回して荷重抜く」

「さっき戻った」

「今度は俺が止める」

「一人で?」

「一人門だ」

「それ、守る能力だろ」

「輪を守る」

 鉄志が踏み込む。

 左の拳。

 轟は胸で受けず、肩を引く。

 拳が輪の横腕へ沿う。

 轟は鉄志の手首を押し、その力を下へ落とす。

 輪がさらに一目盛り。

 鉄志の膝。

 轟は腿で受け、腰を回す。

 衝撃を魚骨へ伝える。

 輪が動く。

 拳。

 肘。

 肩。

 鉄志の攻撃が、一つずつ弁を閉じる力へ変わる。

 轟は打ち返さない。

 受ける場所を、設備へつなぐ。

「卑怯だぞ、門柱!」

「修理」

「喧嘩だ!」

「工賃、出る?」

「俺に聞くな!」

「なら修理」

 鉄志が低く入る。

 轟の腰を抱え、持ち上げる。

 百十二キロの身体が浮く。

 炉心不落は炉前でしか彼を支えない。

 ここに工員の視線はない。

 それでも鉞谷鉄志は強い。

 能力がない場所で残る強さは、毎日の持ち方だ。

 轟は床へ落ちる直前、右足を輪の下腕へ掛けた。

 身体の重さを使う。

 輪が四分の一回転。

 楔の荷重が抜ける。

「今!」

 迅が長柄を差す。

 左手で押す。

 楔が二センチ出る。

 自動駆動がまた動く。

 四拍。

 輪が逆へ跳ねる。

 迅は一歩退く。

 二。

 長柄を離さない。

 楔が戻る。

「離せ!」

 轟。

「まだ」

 迅は三歩目。

 円周に沿う。

 自動駆動の押し返しは、同じ歯車から来る。

 今度は源が一つだ。

 電動軸。

 止められた命令を、何度も繰り返す鉄の暴力。

 迅は輪を守る。

 輪の向こうにいる三人を守る。

 退く。

 四歩。

 長柄が弧を描く。

 床の白線が踵の下を通る。

 五。

 右腕の固定帯が胸へ食い込む。

 左肩だけで棒を支える。

 六。

 歯車の反動が増す。

 七へ入る直前、天井で鎖が切れた。

 錆びていた右重錘。

 四百キロの鉄塊が落ちる。

「タマキ!」

 轟の声が完全な文になる。

「入口へ走れ!」

 タマキは鉄箱を捨てない。

 持ったまま走る。

 遅い。

 重錘の落下線へ、箱の角が残る。

 轟が一人門を解いた。

 鉄志を敵として受ける境界が消える。

 門を離れる。

 轟は左腕を上げた。

 重錘の下へ肩を入れる。

「轟!」

 迅。

 鉄塊が左掌へ当たる。

 轟は腕で止めない。

 肘を曲げ、肩から背中、腰、右膝、床へ荷重を流す。

 流しきれない。

 左肩の奥で、濡れた布を裂くような音がした。

 轟の口から声が消える。

 重錘は完全には止まらない。

 落下が遅くなる。

 タマキが箱ごと入口へ滑り込む。

 鉄志が轟の右側へ入る。

 両手で重錘を押す。

「放せ、門柱!」

「床、割れる」

「受け台へずらす!」

「左、死んだ」

「右を使え!」

「おまえが言う?」

「今は言う!」

 轟は左腕を下ろせない。

 肩の関節が抜けかけ、重錘へ引っかかっている。

 鉄志が腰を入れる。

 二人で鉄塊を二十センチ横へずらす。

 受け台の縁へ乗る。

 轟の左肩が解放された。

 腕が落ちる。

 自分では止められない。

 彼は右手で左手首を掴んだ。

「動かすな」

 鉄志。

「分かる」

「戻すな」

「分かる」

「座れ」

「弁」

「俺が」

「一人で持つな」

 轟は歯を食いしばった。

 痛みが遅れて全身へ上がる。

「昔と同じだな」

 鉄志の言葉を返した。

「うるさい」

 迅は七歩目へ入る。

 自動駆動がまた楔を押す。

 七。

 足裏が円の最後の白線へ触れた。

 赤い七結びが、固定帯の下で熱を持つ。

 七退一還。

 七度、身体一つぶんを譲った。

 守る対象は、人を潰す弁輪。

 暴力の源は、自動駆動軸。

 返す先は人ではない。

 人か物かは関係ない。

 今ここで続いている危害が、一つの原因へ切れ目なくつながっているか。

 工場全体も、命令も、複数の判断も殴れない。

 源が二つなら、七つ目は灯らない。

 迅は長柄を引かなかった。

 前へ打ち込む。

 七歩ぶんの反動が、鉄棒を通り、安全楔の端へ集まる。

 乾いた一撃。

 楔が飛んだ。

 黄色い鉄片が円形室を横切り、壁へ刺さる。

 自動駆動が解放される。

 手動輪が猛烈に回り始めた。

「押さえろ!」

 鉄志が輪へ飛びつく。

 迅も左手で腕を掴む。

 轟は座ったまま、右足を下腕へ掛ける。

 タマキが鉄箱から耐熱楔を取り出す。

「入れる?」

「まだ!」

 轟。

「何回」

「一。二。三――」

 輪が回る。

 重錘が閉じる力を与える。

 三人が速度を殺す。

 四回転。

 鉄志の防煙面へ亀裂が入る。

 輪の腕が当たった。

 五。

 タマキが入口の伝声管を叩く。

 長二。

 上へ合図。

 六。

 圧力計、九・二。

「七で止める!」

 鉄志。

「炉前確認!」

 七回転目。

 タマキが耐熱楔を溝へ差し込む。

 轟が右足で押す。

 輪が止まる。

 主圧、八・七。

 赤戻りは遮断。

 残り四回で全隔離。

 伝声管の返事を待つ。

 上から打音。

 数字。

 六、八、〇。

「炉前六百八十」

 鉄志が息を吐く。

「まだ高い。送風を残す」

 続いて別の打音。

 短二。

 停止準備完了。

「あと四」

 轟。

「工員を呼べ」

「時間が」

 鉄志。

「俺たちだけで回せる」

「左、使えん」

「おまえと迅」

「迅、右が使えん」

「俺は両手ある」

「面、割れてる」

「蒸気はまだ」