第72話 第十章「手動弁」後編
その瞬間、主弁の冷却管が破れた。
白い蒸気が横から噴く。
鉄志の面の亀裂へ直撃した。
彼が息を吸った。
短い一呼吸。
それで十分だった。
鉄志が咳き込む。
面を外そうとする。
「外すな!」
轟。
鉄志は膝をつく。
ここに炉を見ている工員はいない。
能力は立たせない。
迅が彼を蒸気線から引く。
右腕を使えない。
左で前掛けの背を掴み、足で床を蹴る。
タマキが冷却布を蒸気管へ投げる。
塞がらない。
「栓!」
轟。
タマキが工具箱を探る。
「何番!」
「番号ない。木栓!」
「箱にない!」
「床の排水札!」
木製の札。
タマキが蹴り折る。
三角の破片を布で巻く。
噴出口へ近づく。
蒸気が熱い。
迅が止める。
「俺」
「右腕」
「足」
「足で栓?」
「置け」
タマキが床へ栓を置く。
迅が靴先で蹴り込む。
一度。
浅い。
二度。
蒸気が細くなる。
三度。
止まらないが、方向が天井へ変わる。
鉄志が咳をする。
声が出ない。
轟は右手で防煙面を押さえ、彼の顔へ密着させる。
「呼吸、浅く」
鉄志が睨む。
「喋るな」
さらに睨む。
「今、命令」
鉄志は従った。
タマキが伝声管を叩く。
退避、高音相当。
短三、長一。
上から返る。
救難員が降りてくる。
同時に、工員四人。
停止札を腕へ巻いている。
「何で工員」
轟。
「輪を回す!」
先頭が叫ぶ。
「救難だけ待ってたら間に合わない!」
「誰の判断」
「炉前六人!」
「署名」
「上!」
「よし」
轟は立とうとする。
左肩に痛みが走る。
膝が折れる。
工員が支えようとする。
「肩、触るな」
轟は完全な文で言った。
「右側から、腰を支えてください」
工員は言われた通りにする。
彼を壁際へ座らせる。
鉄志へ救難員が酸素袋を当てる。
「搬送」
澪の声が階段から届く。
「弁」
鉄志が掠れた声を出す。
「喋るな」
澪。
「弁」
「工員が回す」
「俺が」
「あなたは呼吸する」
「止めた後」
「彼らが知っている」
鉄志は輪を見る。
工員四人が二人ずつ向かい合う。
タマキが回転数札を持つ。
「残り四。急がない。一回転ごとに圧確認」
工員が頷く。
耐熱楔を抜く。
輪へ力を掛ける。
一回転。
主圧、七・九。
「止め」
タマキ。
全員が手を離さないまま止まる。
配管音を待つ。
異常なし。
二回転。
六・八。
三回転。
五・一。
輪が重くなる。
工員を交代する。
階段からさらに二人降りる。
鉄志は酸素袋越しに首を振る。
自分が立とうとする。
澪が肩へ手を置かない。
代わりに、彼の左手へ停止札を渡す。
見る仕事を与える。
鉄志は時刻を読む。
最後の一回転。
六人が順に輪を押す。
誰か一人の必殺技ではない。
一人目が四分の一。
二人目が四分の一。
三人目。
四人目。
輪が閉じきる直前、固い抵抗。
「弁座」
轟。
「削れ」
「何で」
「四十三番。右側から」
工員が魚骨を差す。
少し削る。
また押す。
五人目。
最後に、南雲秋生の代わりで入った若い工員が両手を掛けた。
「親方」
鉄志を見る。
鉄志は酸素袋を当てたまま、頷いた。
命令ではない。
許可でもない。
見た、という返事だった。
若い工員が押す。
弁輪が最後の目盛りへ入る。
主圧計の針が、ゆっくり下がる。
四。
三。
二。
一。
ゼロにはならない。
〇・四で止まる。
残圧。
正常。
銀の制御管が、四拍鳴った。
遅れる五拍目は来なかった。
工員たちは手を離さない。
誰も歓声を上げない。
「閉鎖時刻」
タマキが言う。
「十三時十一分四十二秒」
七瀬の声が伝声管から返る。
上で固定記録を見ている。
タマキが札へ書く。
《主弁手動閉鎖。十三時十一分四十二秒。最終操作、炉前工員六名。安全楔除去、竜胆迅。弁輪保持・構造判断、伏見轟。設備知識、鉞谷鉄志。工具記録、環玉樹》
「救難」
澪。
タマキは追加する。
《救難責任、風祭澪》
「書かなくていい」
「受取人」
「四人とも受け取った」
澪は迅、轟、タマキ、鉄志を順に見る。
「迅。歩ける」
「歩ける」
「右腕」
「痛い」
「タマキ」
「歩ける。火傷なし。箱、角一つ潰れた」
「轟」
「左肩、動かん。指、感覚あり」
「鉞谷」
鉄志は答えようとする。
咳。
澪が代わりに言う。
「蒸気吸入。意識あり。発声させない。最優先搬送」
鉄志が不満そうに目を閉じる。
担架へ乗せられる。
「拘束?」
掠れた声で訊く。
「治療」
澪。
「工場」
「止まった」
「その後」
「今から作る」
鉄志は酸素袋を握った。
指が緩む。
眠ったのではない。
呼吸へ集中しただけだ。
轟は壁にもたれ、閉じた輪を見た。
「門柱」
迅が呼ぶ。
「何だ」
「肩」
「屋根が落ちた」
「建て直す?」
「先に診断」
「成長」
「工賃取るぞ」
「払わない」
轟は欠けた前歯へ舌を当てた。
笑おうとして、痛みでやめる。
工員たちが一人ずつ階段へ戻る。
最後の者が弁室の灯を消した。
暗闇の中で、閉じた手動輪だけが熱を放っている。
工場を止めたのは、一撃ではなかった。
一撃は、詰まった楔を外しただけだ。
止めたのは、輪から手を離さなかった六人と、交代するために手を離した六人だった。