第73話 第十一章「冷える工場」前編
八月二十日 午後一時二十六分
工場が止まった時、街で最初に聞こえたのは拍手ではなかった。
「湯が出ない!」
共同浴場の番台から、使い走りの少年が走ってきた。
土門小麦は赤錆大工場の正門前で、大鍋へ水を注いでいた。
「知ってる」
「三番浴場、洗い場に四十人!」
「入場止めて」
「裸だよ!」
「服を着てもらって」
「怒ってる!」
「服を着て怒ってもらって」
少年は一瞬、意味を考えた。
「番台のおばさん、もう料金返してる」
「正しい」
「お金ないって」
「立替票、書く。浴場名」
「北三番」
「返金人数」
「四十二」
「さっき四十」
「二人、増えた」
「湯が出ないって聞いてから入った?」
「様子見」
「その二人は返金なし」
「怒るよ」
「理由を私が言う」
小麦は濡れた手を前掛けで拭き、立替票へ書く。
《北三番共同浴場。給湯停止による返金、四十名。停止後入場二名は対象外。判断、土門小麦》
「何で小麦さんが決めるの」
「今、お金を出す人」
「白布じゃない?」
「私の食堂の緊急費。白布へ後で請求するかは別」
「返ってこなかったら」
「困る」
「大丈夫って言わないんだ」
「大丈夫じゃないから」
少年は票を持って走った。
工場前には、別の苦情が列を作っている。
洗濯場。
診療所。
共同炊事場。
乳児室。
工場長屋。
誰も、主弁が閉じたことを祝っていない。
湯が出ないという事実は、爆発しなかったという事実より、暮らしの近くにある。
「診療所、先」
小麦は言った。
「乳児室、次。洗濯は感染物だけ。浴場は本日閉鎖。食器洗浄は煮沸槽を共同使用」
「誰が決めた」
住民の男が訊く。
「今の優先順位は私。旧槽の湯を食事と衛生へ配る責任者」
「風呂は衛生だろ」
「一日入らなくても死なない」
「仕事帰りだ」
「診療所の器具が洗えないと、別の人が死ぬ」
「言い方が冷たい」
「湯は温かい。言い方まで温める時間がない」
男の顔が赤くなる。
凱が間へ入ろうとする。
小麦は手で止めた。
自分へ向けられた苦情を、元王の声で消させない。
「名前」
小麦が訊く。
「何で」
「明日、湯が戻らなかったら、あなたへ経過を知らせる。戻ったら、いつから入れるか知らせる」
「苦情を言ったから記録するのか」
「待ってる人だから」
男は少し黙る。
名前を言った。
小麦は鍋帳の裏へ書く。
「連絡先」
「北四長屋」
「何人」
「家族五人」
「小さい子」
「二人」
「身体を拭く湯、十リットル渡す。浴槽はなし」
「さっき風呂は後って」
「子どもの清拭。優先を変えたんじゃない。用途が違う」
「細かいな」
「湯は量でなくなるから」
男は十リットル札を受け取った。
怒りは消えていない。
それでよかった。
納得と配給は同じ容器へ入らない。
午後二時八分
旧調整槽から最初の熱水が出た。
温度、六十三度。
そのままでは使えない。
冷水と混ぜ、四十二度へ落とす。
大鍋でなく、工場の予備混合槽を使う。
轟が見れば床荷重を確認するはずだった。
轟は今、診療所にいる。
小麦は混合槽の脚を蹴った。
鳴り方が違う。
「轟さんみたいなことしないで」
タマキが言う。
「確認」
「何を」
「ぐらつき」
「分かる?」
「分からない」
「じゃあ確認じゃない」
「不安」
「それは分かる」
タマキは鉄箱の潰れた角を撫でる。
中身は無事だった。
箱の方が自分より重傷だと主張している。
「送り先、七つ」
タマキが配達札を並べる。
「診療所、乳児室、感染洗濯、南炊事、北炊事、工場救護、北四長屋清拭」
「北四だけ個人」
「さっき決めた」
「理由」
「子ども二人」
「他にも子どもいる」
小麦の手が止まる。
苦情を言いに来た人から先に情報が届いた。
声を上げなかった家族は、名簿にいない。
配給は、正しい優先順位だけでは公平にならない。
情報を取りに来られる人が先へ入る。
「北四長屋全戸へ確認」
小麦が言う。
「清拭が必要な乳幼児、寝たきり、発熱者。十リットルずつ。さっきの家だけ先にしない」
「湯、足りる?」
「浴場を一つ、さらに止める」
「どこ」
「南二番」
「誰が説明」
「凱」
凱が振り向く。
「今、名前が出た」
「説明担当」
「理由」
「桶を避けるのが上手」
「一度だけだ」
「練習になる」
「役割として受ける」
凱は南二番浴場の札を取った。
「説明内容」
「北四長屋の清拭へ回す。閉鎖は明朝まで。返金。代わりの身体拭き布を配る」
「再開条件」
「旧槽残量四十パーセント以上か、工場再稼働」
「どちらも満たさない場合」
「延長を今日十八時に決め直す」
「責任者」
「閉鎖説明は凱。湯配分は小麦」
「記録」
「七瀬」
七瀬は少し離れた固定計器の前で、片腕を吊っている。
左肩の炎症が強まり、医師から手持ち撮影を禁じられた。
それでも右手で時刻を書いている。
「撮影は固定だけです」
「十分」
小麦。
「顔を撮らないで」
タマキ。
「聞いていません」
「毎回言う」
「毎回聞きます」
「今、聞かなかった」
「固定計器の画角に顔は入りません」
「質問は」
七瀬が一拍止まる。
「環玉樹。配達札だけ撮ってよいですか」
「角が潰れた箱も」
「なぜ」
「働いた」
「了解」
七瀬は三脚を十センチ下げ、配達札と鉄箱の角を画面へ入れた。
英雄の傷ではない。
道具の損耗。
修理費が必要な傷だった。
午後二時四十二分
北四長屋の確認へ行った配達人が、空の札を三枚持って戻った。
「留守?」
小麦が訊く。
「戸は開いてる。返事がない」
「三世帯とも?」
「一階奥、二階角、屋根裏」
「名簿」
タマキが長屋台帳を開く。
一階奥、老人一人。
二階角、夜勤工員と子ども一人。
屋根裏、入居者不明。
「苦情なし」
配達人。
「苦情を言えないかもしれない」
小麦は混合槽の柄杓を別の者へ渡した。
「湯配分、十五分代わって」
「誰の指示」
「土門小麦。十五分。診療所と乳児室の量は変えない。異常は七瀬へ時刻」
「受領」
タマキは鉄箱へ、五リットル容器を三つ入れた。
「重い」
「一つ持つ」
「小麦さん、足」
「歩ける」
「帰りも?」
「痛み、今三。五で戻る」
「四半」
「誰の真似」
「迅」
「悪い」
「四半で」
小麦は一つだけ持ち、二つを手押し車へ載せた。
北四長屋は工場の影にある。
機械が止まったため、いつも聞こえない隣室の咳や、床板を歩く音まで外へ漏れていた。
一階奥の戸を叩く。
返事なし。
開いている。
「入る?」
タマキ。
「本人の許可がない」
「倒れてたら」
「救命確認は別」
小麦は戸口から名を呼んだ。
二度。
三度目に、床が擦れる音。
老人が奥から這うように出てきた。片脚へ布を巻き、杖を失くしている。
「湯はいらん」
第一声だった。
「理由」
「金がない」
「今日は配給」
「後で請求される」
「請求先は共同会計。あなたへはしない」
「紙にあるか」
小麦は配給票を見せる。
老人は読めない。
「読んで」
小麦は一行ずつ読む。
用途、清拭。
量、十リットルまで。
本人負担、なし。
返却、空容器。
「容器を割ったら」
「故意でなければ請求なし」
「故意って誰が決める」
「割れた時に調べる」
「今決まってない」
「はい」
老人はしばらく考え、五リットルだけ受け取った。
「十じゃなく?」
「半分で足りる」
「明日も必要なら」
「明日、また言う」
「言いに来られる?」
「おまえらが来い」
「受領」
二階角では、七歳ほどの子どもが一人で戸を開けた。
母親は夜勤から戻らず、工場の停止後処理に残っている。子どもは湯が出ないことを知らず、冷たい蛇口で布を濡らしていた。
「身体、拭く?」
「母ちゃん帰ってから」
「一人で使わない?」
「熱い?」
「熱い。だから蓋を開けない」
小麦は容器へ封をし、《成人と開ける》と大きく書く。
「字、読める?」
「それくらい」
「意味、言って」
「母ちゃんと開ける」
「受領」
屋根裏の戸には名前がない。
中から赤ん坊の泣き声がした。
小麦とタマキが同時に止まる。
名簿にない世帯。
戸を叩くと、若い男がわずかに開けた。
「誰にも言うな」
「何を」
「ここにいること」
「湯が要る?」
「いらない」
赤ん坊がまた泣く。
「要る人がいる」
「名簿にない。受け取ったら追い出される」
小麦は配給票の名前欄を見る。
空白。
「名前を書かない」
「後で誰が使ったって」
「量と場所だけ。屋根裏一世帯、乳児あり。名は非公開」
「それで通るのか」
「今、私が通す。長屋の居住資格は真琴へ別件で相談。湯と混ぜない」
男は十リットルを受け取った。
戸を閉める前に言う。
「工場、止まったんだろ」
「止まった」
「仕事、なくなる?」
「まだ分からない」
「大丈夫って言えよ」
「言えない」
「冷たいな」
「湯は四十二度」
男は一瞬、怒る顔をした。
次に、少し笑った。
「それ、今言う?」
「今しか数字が確かじゃない」
長屋を出ると、小麦の右足裏が四半を越えていた。
「戻る」
タマキ。
「まだ十五分」
「帰りも仕事」
小麦は反論せず、手押し車の片側をタマキへ渡した。
苦情の列に並ばない人は、困っていないのではない。
列へ出ると別のものを失う人もいる。
配給は、声の大きさを測る仕事ではなかった。
聞こえなかった家の戸を、一つずつ叩く仕事だった。
午後三時十六分
工場診療所の廊下で、伏見轟は左腕を胸へ固定されていた。
布帯。
簡易装具。
脇へ冷却袋。
医師が画像板を灯りへかざす。
「脱臼は戻っています」
「戻した?」
小麦。
「完全脱臼ではなく亜脱臼。現場で荷重が抜けた時に自然整復した可能性。腱板損傷、関節唇損傷の疑い。上腕骨頭に打撲」
「疑い」
轟。
「精密検査が必要。今夜は固定。左腕で持たない。押さない。頭上へ上げない」
「右なら」
「右で左を持ち上げない」
「仕事」
「しない」
「図面」
「右手で見るだけ」
「工具」
「触らない」
「椅子」
「座る」
轟は診察台へ座っている。
足は床へついている。
座っているのに、立とうとしている人の形だった。
「腹、減った?」
小麦。
「減った」
「よかった」
「何が」
「気持ち悪くない」
「肩と腹、別」
「身体は一つ」
「同じ釜、使う?」
轟が訊く。
「使わない」
「疲れ、均せる」
「誰と」
「工員」
「工員も疲れてる。あなたの痛みを分けたら、工具を落とす人が増える」
「俺が多く取る」
「均す能力」
「大きいから」
「身体の大きさで配分は変わらない」
「不便」
「人に痛みを渡せないのが不便?」
「俺だけ持てないのが」
轟は言葉を切った。
小麦は続けさせない。
鍋を差し出す。
豆と根菜の濃い汁。
片手で食べられるよう、具は小さい。
「左利き」
轟。
「今日は右」
「こぼす」
「前掛け貸す」
「似合わん」
「山吹色、映える」
「料金」
「汚したら洗濯代」
轟は右手で匙を持った。
最初の一口をこぼす。
前掛けに落ちる。
「一円」
タマキが廊下から言った。
「見てた?」
「配達」
「何を」
「右手用の匙」
「もうある」
「持ち手太いの」
タマキは鉄箱から、布を巻いた匙を出した。
轟が握る。
指に力を入れなくても落ちにくい。
「誰が作った」
「小麦さん」
「いつ」
「さっき」
小麦は混合槽の合間に作った。
轟は何も言わず、二口目を食べる。
今度はこぼさない。
「味」
小麦。
「濃い」
「汗かいた」
「うまい」
「最初に言って」
「状態が先」
「七瀬みたい」
「不本意」
診療所の奥で咳が聞こえた。
鉞谷鉄志。
小麦は鍋の蓋を閉める。
午後三時二十九分
鉄志は酸素幕の中にいた。
上半身を少し起こし、両手を布団の上へ置いている。
右手の火傷は手当て済み。
胸へ聴診器を当てる医師が言った。
「蒸気吸入による気道熱傷の疑い。今は酸素化良好。ただし、遅れて腫れる可能性があります。二十四時間観察」
鉄志は答えようとする。
「発声しない」
医師。
鉄志が筆記板を要求する。
左手で書く。
《炉前温度》
「六百十二」
小麦が答える。
《送風》
「二段残し。灰抜き済み」
《旧槽》
「六十九パーセント」
《湯》
「出してる」
《誰が》
「私」
鉄志が眉を上げる。
《責任》
「私」
《足りる》
「二十三時間前後」
《修理》
「轟はできない」
鉄志の鉛筆が止まる。
《肩》
「腱と関節の損傷疑い。固定。精密検査」
《俺》
「呼吸」
《工場》
「止まった」
《勝ったか》
小麦は板を見る。
「誰が」
鉄志が苛立って書く。
《白布》
「工場を取ってない」
《俺は負けた》
「何に」
《止まった》
「工場が?」
《俺が止めなかった》
「でも地下へ行った」
《閉じるためじゃない》
「何のため」
鉄志は鉛筆を強く握る。
《壊さず止めるため》
「同じじゃない?」
《違う》
「どこが」
《俺が決める》
小麦は椅子へ座った。
病室で立ったまま話すと、相手まで休めない。
「止まった後、困ってる人がいる」
鉄志の目が動く。
「浴場。洗濯。長屋。だから湯を配ってる。工員もお腹減ってる。だからご飯を作る」
《俺に何を》
「食べる?」
鉄志は板へ大きく書く。
《今それか》
「今だから」
《喉》
「医師に聞く」
「流動食なら少量」
医師が答える。
「熱くないもの」
小麦は鍋を見た。
「冷ます」
《工場》
「食べてから」
《逃げるな》
「食事は逃げじゃない」
《俺は》
「止める前に食べなかった」
鉄志の鉛筆が止まる。
「あなたが三分で食べると、みんな三分で戻る。あなたが病室で食べないと、怪我しても食べないのが強いってなる」
《説教》
「献立説明」
《違う》
「豆と根菜。塩は少し。喉のため薄める」
鉄志は目を閉じた。
拒否かと思った。
数秒後、板へ書く。
《冷めたら》
「持ってくる」
小麦は立つ。
《何分》
鉄志が書く。
小麦は笑った。
「十五分」
午後四時四十八分
停止記録は、工場の食堂で作られた。
長机を三つ。
一つ目、設備。
二つ目、負傷。
三つ目、生活影響。
真琴が紙を分けた。
「一枚にまとめると、最も大きな出来事が他を飲み込みます」
「主弁閉鎖が大きい」
凱。
「設備上は。負傷者本人には違う。浴場利用者にも違う」
「同じ時刻」
七瀬。
「別の紙へ同じ時刻を書く」
「改竄の余地が増える」
「一枚の余白へ押し込む方が、削除の余地が増えます」
「綴じ番号」
「共通にします」
「原本保管」
「三か所」
「複製」
「同時作成」
「意見が合うと気味が悪い」
迅が言った。
二人が同時に彼を見る。
「あなたは黙って署名欄を押さえてください」
七瀬。
「紙、飛ぶ」
真琴。
「今やってる」
「なら口を閉じる」
「二人、仲いい?」
タマキ。
「悪いです」
「不本意です」
返事は違った。
タマキが首を傾げる。
「仲いい?」
「分類をやめてください」
鉄志は車椅子で食堂へ来た。
拘束具はない。
酸素管と、発声禁止札だけ。
医師が付き添う。
彼を見る工員たちが道を空ける。
以前のように、命令のためではない。
大きな病人を通すための幅だった。
真琴が停止記録を差し出す。
「事実確認をお願いします。異議は同じ紙へ書けます」
鉄志は読む。
《八月二十日十三時十一分四十二秒、主弁手動閉鎖》
《閉鎖判断:炉前工員六名、保全確認:伏見轟、救難変更:風祭澪》
《鉞谷鉄志:停止計画へ反対。地下弁室へ設備知識提供者として入室。冷却管破損により蒸気吸入》
鉄志が鉛筆を取る。
《停止計画へ反対》へ線を引く。
真琴が止めない。
鉄志は横へ書く。
《代替供給と再起動手順が不十分な段階での全面停止へ反対》
「追加として扱います。元の文は残す」
真琴。
鉄志は次を読む。
負傷者一覧。
南雲秋生、右前腕熱傷。
搬送床の工員、軽い膝打撲。
赤配管区の工員、右肩捻挫。
伏見轟、左肩腱板・関節唇損傷疑い。
鉞谷鉄志、蒸気吸入。
他、熱疲労八名。
手指振動症状、要検査十一名。
鉄志の目が、最後の十一名で止まる。
小麦の鍋帳と点検記録から拾った名前だ。
事故として扱われなかった手の震え。
「署名は、責任を全て認める意味ではありません」
真琴が言う。
「この時刻に、この文を読んだこと。異議を書いたこと。あなた自身の行動が記載されていることの確認です」
鉄志は鉛筆を持ったまま、工員たちを見る。
誰も彼へ署名を命じない。
南雲秋生は診療所にいる。
ここにいない者の名が、紙にはある。
鉄志は左手で署名した。
鉞谷鉄志。
大きく、乱れた字。
その下へ一行加える。
《止めた後の再起動確認にも立ち会う》
真琴が訊く。
「義務として?」
鉄志は首を振る。
「希望」
掠れた一語。
医師が睨む。
鉄志は口を閉じた。
真琴は《本人希望》と添えた。
午後六時五分
工場の食堂で、百四十二人が夕食を取った。
操業中より多い。
止まったから、全員が同じ時間に座れた。
小麦は同じ釜を使わなかった。
疲労を均せば、重い怪我の痛みを薄くできるかもしれない。
同時に、軽い疲労で済んだ人へ、他人の損傷を渡す。
食事をしただけで、知らない痛みへ同意したことになる。
今日は普通の汁を出す。
普通の汁は、疲労を消さない。
温かさを同じにするだけだ。
「何分座る」
小麦が訊く。
「二十分」
工員。
「食べ終わっても?」
「二十分」
「仕事ないぞ」
「座るのが仕事」
「給料」
「停止作業時間に入れる」
「椅子で給料出るのか」
「壊さないための作業」
工員たちは慣れない顔で食べる。
話す者。
黙る者。
食べ終えて、手を膝へ置く者。
鉄志の席だけ空いている。
病室へ冷ました汁を運んだ。
彼は十五分かけて半分食べた。
小麦は鍋帳へ書いた。
《鉞谷鉄志。十五分。半量。咳で中止。残りは本人希望で保管》
英雄の食事ではない。
患者の食事。
その方が、明日へつながる。
午後七時三十六分
夕食後、食堂の壁へ《明日の仕事》が貼られた。
主弁の弁座研磨。
赤戻り継手三か所交換。
銀制御管の自動復帰解除。
旧調整槽の漏れ量測定。
給湯系の銘板交換。
配管図の修正。
休憩札の固定片撤去。
書庫棚の固定。
食堂椅子一脚の修理。
「最後、混ざってる」
運転統括補佐が言った。
「同じ工場」
小麦。
「主弁と椅子を同列にするな」
「優先順位は別。未修理一覧は同じ」
真琴が三列を引く。
《再起動前に必須》
《再起動後七日以内》
《担当・期限未定》
椅子は三列目へ入る。
轟が右手で鉛筆を持ち、首を振った。
「椅子、明日直す」
「工具を触るなと医師が」
小麦。
「指示する」
「誰へ」
若い溶接工が手を上げた。
「俺、やります」
「脚、三ミリ」
「紙を抜いて、当て板?」
「先に床」
「椅子じゃない?」
「食堂の床、二ミリ傾いてる。四本同じにすると、別の場所でがたつく」
「じゃあどうする」
「椅子へ場所を書く。床を直すまで、食堂東二列専用」
若者が笑う。
「椅子にも持ち場」
「人は戻れる。椅子は戻れん」
「名言?」
「寸法」
轟は右手で簡単な図を描いた。
線が震える。
左利きの彼には、字を書くこと自体が不慣れだ。
若者は図を取り上げない。
最後まで描かせる。
「工賃」
タマキが訊く。
「工場修理費」
補佐。
「操業停止中の賃金は」
食堂が静かになる。
工員百四十二人。
修理へ必要なのは三十八人。
残り百四人へ、仕事がない。
止める計画には、止めた後の賃金を一日ぶんしか書いていなかった。
鉄志の問いが、空席から来る。
それで、誰が食う。
「共同会計で一日分」
凱が言う。
「二日目は」
補佐。
「未定だ」
「再起動を急げってことか」
「そうなる」
「安全より金」
「金がないと安全作業を続けられない」
真琴が契約束を開く。
「修理参加者だけへ賃金を出すと、必要以上に現場へ人が集まります。参加しない者の配給順位を下げれば、事実上の強制です」
「じゃあ全員へ払え」
「資金が不足します」
「白布が払う」
凱。
「白布は金を作らない」
小麦が言った。
「共同会計は、みんなの不足を名前だけ変えたもの」
工員の一人が椅子から立つ。
「俺は明日、働かなくていい。夜勤二日分、もう受け取ってる」
「返す?」
「返さない。明日の食券を一枚、停止中の家へ回す」
別の工員が言う。
「俺は長屋の屋根を直せる。工場修理に入れないなら、給湯停止地区の修繕へ出る。作業食だけくれ」
洗浄係の女が手を上げる。
「子どもを預かる。修理へ出る人の。賃金は半分でいい」
「半分を誰が決めた」
小麦。
「私」
「あとで変えられる?」
「変える」
「書く」
タマキが票を配る。
《工場修理》
《街の代替作業》
《休養》
《育児・看護》
《未定》
選択欄は五つ。