第119話 第十章「終点の手前」前編
十月十七日 午後四時
勝つための道は、たいてい一人分だけ狭い。
帰るための道は、誰かとすれ違える幅がいる。
竜胆迅が十号車の屋根へ出た時、列車は西日を正面から割っていた。
光が低い。
架線柱の影が、一秒より短く屋根を横切る。影が来る。迅の身体が暗くなる。次の瞬間には消える。
左手の包帯は、午前より厚くなっていた。
右手は冷えで小指が痺れている。
学ランの背は破れ、屋根塗装で擦れた布が翼のように風へ鳴った。格好だけなら強そうだ、と七瀬なら言う。格好だけ、と二度言う。
腰索を保守環へ掛ける。
今度は外さない。
前へ移るたび、次の環へ掛け直す。
速さは落ちる。
落ちないために、落とす速度だった。
「遅い!」
黄土色の外套が、九号車との境で振り返った。
折部翼は折り畳み自転車を横へ寝かせ、前輪を屋根の排水溝へ噛ませていた。車体と安全索が、十号車前端を斜めに塞ぐ。左の機械義足は磁気底を切り、屋根の揺れを膝と右足で受けている。
「待ってた?」
「遅らせてた!」
「同じ時刻に会った!」
「意味が違う!」
「巴さんを呼ぶ?」
「本人同士で間に合う!」
「それが危ないって言ってる!」
翼が右手を上げた。
屋根前方にいる護送員が二人、短棒を構える。
笠井透。
もう一人は、午前に迅へ安全索を貸した男だ。名前はまだ訊いていない。
名前を知らなくても、殴る場所は分かる。
名前を知っていても、殴ってよい理由にはならない。
「非常通路を開けろ!」
迅は叫ぶ。
「車内から移れ!」
翼。
「九と十の間が閉まってる!」
「保護区画の封鎖!」
「本人確認が終わった!」
「運行責任者の解除が先!」
「おまえだろ!」
「だから拒否!」
九号車と十号車の間には、保護便用の赤い連結錠が下りている。
通常の車両間扉とは別だ。護送対象を一般乗客から隔てるため、上下二本の鋼棒を同時に固定する。内側の解除輪は、責任者鍵と先頭の電気承認がなければ回らない。
前九両へ進みたい者。
後三両へ移りたい者。
九号車にいる保留者。
全員が、赤い錠一本で止まっていた。
列車を一つにする道具が、答えまで一つにしている。
「何分!」
迅は天窓へ叫ぶ。
下からタマキの声が返る。
「M17進入信号まで四十八! 乗客移動、最低十二! 切離し準備、十五!」
「余る!」
「余らない! 間違える時間、九!」
「何だそれ!」
「間違える時間!」
翼が笑う。
「いい時刻表だね!」
「使う?」
「拒否!」
「料金は?」
「払わない!」
「敵!」
タマキの判定は明快だった。
護送員が動く。
笠井は棒を突かない。迅の腰索へ鉤を掛け、次の環への掛け替えを邪魔する。もう一人は自転車の後輪を蹴り、屋根中央へ回す。
自転車が盾になる。
軽い。
だから、風へ持っていかれる前に押し戻さなければならない。
迅は左足で前輪を止める。
右へ重心が流れる。
笠井の棒が肩へ来る。
半歩下がる。
棒先が学ランの襟を掠める。
一歩。
迅は数えそうになる。
やめた。
今の一歩は、笠井から離れたのか。
自転車からか。
風からか。
赤い錠からか。
源が違えば、ただの後退だ。
「数えないの!」
翼が叫ぶ。
「見てた?」
「あなた、数える時は左の踵が鳴る!」
「癖?」
「配達員は足音を読む!」
「嫌な職業!」
「受領!」
笠井が横へ回る。
迅は前へ出る。
勝つなら、笠井の右肘を外へ返す。棒を奪う。次の男の膝裏へ入れる。三秒。
やらない。
棒を取れば、手が塞がる。
男を倒せば、屋根へ寝かせる場所が要る。
前へ進むための勝利が、屋根を狭くする。
迅は笠井の棒へ左掌を当て、押し返さず横へ滑らせる。棒が自転車の荷台へ当たる。乾いた音。
翼が自転車を引く。
義足の磁気底が一瞬外れた。
きん。
午前にも聞いた異音。
「点検しろ!」
「凱にも言われた!」
「二票!」
「多数決で義足は直らない!」
「止まれば直せる!」
「止まるために壊してる!」
翼は笑ったまま、義足の軸を二度叩く。
音が少し鈍い。
怖い時の癖と、部品確認が同じ動作になっている。
本人にも区別できない。
午後四時七分
車内から、短い声が流れ始めた。
『柏木秋枝。次に安全に止まれる場所で、降りる選択が必要です』
一文字巴の声ではない。
秋枝本人の声だ。
少し掠れている。
『理由は、母の診療先を確認したいから。私の店を戻すためではありません』
次。
『三一。今の列車を続けます。途中で降りる選択は、今はいりません』
速い。
迷っていないのではない。
迷った後の速さだ。
『針ばあ』
声の代わりに、車内放送へ三度の打音が入る。
巴が補足する。
『本人の手話映像は各車の小型表示板へ送ります。音声は本人が指定した語だけ読みます。次の安全停車で、降りる選択が必要です。通訳者を自分で選びたい』
次の乗客。
『継続』
次。
『まだ決めない。今いる十号車へ残る』
次。
『停車が安全なら降りたい。安全でないなら継続』
答えは揃わない。
長さも揃わない。
巴は正しい文章へ直さない。
順番だけを守る。
翼が顔をしかめた。
「不安を増やす放送!」
「不安が違う!」
迅。
「列車は一つ!」
「人は荷物じゃない!」
「知ってる!」
「なら聞け!」
「聞いてるから、止めない人も守ってる!」
「止まりたい人は!」
「到着後に戻せる!」
「到着は戻らない!」
「停車の事故も戻らない!」
放送は、名言を作らなかった。
誰も、きれいに言わない。
『十号車に残る。足が悪いから、移る方が危ない』
『前へ行く。今日の証言が終われば、息子の店へ戻れる』
『まだ決めない。駅名を聞いてから』
『止まりたい。でも、私のために全車を止めろとは言ってない』
『進みたい。でも、降りたい人を閉じ込めろとも言ってない』
最後の二つが続いた時、翼は自転車の前輪を屋根へ下ろした。
「誰が文章を整えた!」
「本人!」
迅が返す。
「嘘!」
「何で!」
「人はそんなに分けて言わない!」
「今、言った!」
「巴が誘導した!」
天窓が開く。
巴の黒板が、下から突き出された。
《質問は一つ》
次の板。
《答えは本人》
翼は読んで舌打ちする。
「見えない!」
巴が板をさらに高く上げる。
「見えてる!」
「眩しい!」
西日が黒板へ反射している。
迅は笑いそうになり、笠井の棒を左肩で避ける。
笑うと息が抜ける。
屋根では息一つも足場だ。
放送は続く。
ある女は、駅へ着いても降りないと言った。
ただ、降りられると知っていたい。
ある男は、止まる選択を不要と答えた。
途中停車が妨害者へ位置を知らせる恐れがあるから。
付き添いの一人は、自分だけ降りたいと言った。
証言者本人は進みたい。
親子は別々の車両を選んだ。
夫婦は同じ車両を選び、理由は反対だった。
声が増えるほど、列車を一つの意思として扱えなくなる。
翼はそれを混乱と呼ぶ。
迅には、人数が戻ってくるように聞こえた。
「全員へ訊けば、全部遅れる!」
「全員を運ぶなら!」
「安全は多数決じゃない!」
「だから一人ずつ!」
「一人ずつ事故にする気!」
翼の自転車が斜めに押し出される。
迅は前輪を蹴らない。
蹴れば屋根から落ちる。
左足の甲で受け、回転させる。
車体を横へ逃がす。
笠井がその隙間へ棒を入れる。
迅は下がる。
一歩目。
赤い錠を見た。
人の答えを、一つの車両へ閉じ込める物。
二歩目。
翼が投げた安全鉤が、迅の腰索へ当たる。
鉤の宛名札は空白。
能力は働かない。
ただの鉄として、重い。
三歩目。
別の護送員が、屋根端の医療箱を押さえるため前へ出る。
迅は彼を避ける。
敵ではない。
箱の中には、車内の患者へ届ける酸素弁がある。
踏めば壊れる。
四歩目。
列車が曲がり、右手を屋根へつく。
指が痺れ、掌が滑る。
左肘で戻す。
五歩目。
下の放送から、三一の声がもう一度入る。
『俺は前へ行く。俺を助けるために、後ろの人を前へ連れてこないでくれ』
迅の足が止まりかける。
助ける側は、助け方を自分の得意技へ寄せる。
前へ行く拳があると、全員を前へ連れて行きたくなる。
六歩目。
翼が叫ぶ。
「あと一つ!」
「知ってる!」
「何を殴る!」
「おまえじゃない!」
「先に言うと傷つく!」
「列車!」
「もっと傷つく!」
迅は、赤い錠から視線を外さない。
能力の源を人へ置けば、人を倒した瞬間に終わる。
物へ置けば、物を壊したあとに仕事が残る。
誰を通すか。
何両を分けるか。
誰がブレーキを持つか。
拳が答えられない問題が、扉の向こうにいる。
だから、この一撃は勝利にならない。
勝利にならない一撃を選ぶのは、迅にとって負けるより難しかった。
笠井が、二本目の棒を横へ渡す。
「ここを抜けても、配置は間に合わない!」
「タマキが間違える時間を入れた!」
「何だそれ!」
「知らない!」
「作戦を知らずに殴るな!」
「殴ってから聞く!」
「いつものおまえだ!」
「今回は扉!」
七歩目を下がる直前、迅は右手を胸へ引いた。
使わない。
左拳を握る。
利き手でなくても、戻る道は身体全体にある。
赤い七結びが熱を持つ。
右手首にある糸が、左拳の行き先を数える。
身体は、壊れた場所だけでできていない。
笠井の棒が来る。
迅は一歩下がる。
踵が鳴った。
かつ。
翼の目が細くなる。
一歩目。
迅も認める。
今の源は何だ。
笠井の棒ではない。
翼の拒否でもない。
乗客を動かさない赤い錠。
錠があるから、笠井はここで時間を奪う。
錠があるから、迅は屋根を進む。
錠があるから、人の答えが車両配置へ変わらない。
暴力の源は、人の拳だけとは限らない。
物に命令が残っている時、物は人より長く殴る。
迅は赤い錠を視界の端へ置いた。
九号車と十号車の境。
あと十四メートル。
笠井が踏み込む。
迅は棒を受けず、二歩目を下がる。
かつ。
自転車が横から来る。
三歩目。
かつ。
屋根の保守環が腰索を引く。
迅は掛け替えない。
今の環を中心に、後ろへ半円を描く。
短くなった索が、前へ戻る力を蓄える。
「源を決めた!」
翼が言う。
「おまえじゃない!」
「傷つく!」
「安心しろ!」
「それも傷つく!」
四歩目。
短棒が胸元を掠める。
五歩目。
右手が屋根へ触れ、痺れで力が抜ける。
左肘で支える。
六歩目。
列車が緩い左曲線へ入る。
身体が外へ押される。
退いた方向と、遠心の方向が重なる。
源を見失いそうになる。
赤い錠を見る。
錠は動かない。
動かない物を基準にする。
風も車体も曲がる。
赤い錠だけが、答えを閉じたままそこにある。
「七歩目、来る!」
笠井が叫ぶ。
もう一人が前へ出る。
二本の棒で、迅を後端へ押し切る構え。
翼は自転車の前輪を持ち上げる。
投げない。
迅の帰路へ置く。
全部、正しい。
彼らの目的が時間を奪うことなら、倒す必要はない。
迅が戻れなければよい。
七歩目。
かつ。
腰索が張り切る。
胸の奥で、七つの後退が一本になる。
七退一還〈セブン・リターン〉。
迅は人を見ない。
左足で屋根を蹴る。
腰索の反発を背へ受ける。
二本の棒の間へ身体を滑らせる。
笠井の肩を踏まない。
もう一人の顔を殴らない。
自転車の横棒へ右肘を当て、車体を斜めに倒す。できた隙間へ左肩を入れる。
十四メートル。
七歩分の力は、十四メートルを飛ばさない。
戻る一歩を、誰にも止められない一歩にする。
迅は走る。
一。
屋根の継ぎ目。
二。
架線柱の影。
三。
翼が後ろから安全索を投げる。
四。
鉤が学ランの裂けた背を掠める。
五。
九号車との間に、車両の揺れで開く黒い隙間。
迅は跳ばない。
連結幌の上へ足を置く。
六。
赤い錠の真上。
七つを返す一歩。
左拳を、屋根端の非常解除箱へ叩き込んだ。
赤い鋼板が凹む。
中の連結桿が折れる音。
上下二本の固定棒が、同時に三センチ浮いた。
拳は人へ届かない。
代わりに、扉の向こうから空気が届いた。
車内の誰かが解除輪を回す。
赤い錠が上がる。
九号車と十号車の非常通路が開いた。
迅はその場で膝をついた。
左拳の皮が裂けている。
能力は扉を開けただけだ。
誰がどちらへ通るかは、まだ一人も決めていない。
非常通路が開いた直後、全員が動こうとした。
それが一番危なかった。
前へ進みたい者が九号車へ。
止まりたい者が十号車へ。
医療係は担架を十一号車へ移したい。
郵便係は通路へ置かれた資材を戻したい。
同じ幅八十センチの中へ、四つの正しさが入る。
「止まれ!」
凱の声が車内へ響く。
何人かが反射で止まる。
凱自身が顔を歪めた。
「訂正。今のは通路安全の停止要請。移動先を命じたのではない」
「長い!」
タマキ。
「短くすると王命になる!」
「じゃあ、笛!」
澪はいない。
救難笛もない。
タマキは鉄箱の蓋を三回叩く。
かん、かん、かん。
全員が音源を見る。
「通る順番、床の形! 波、担架! 線、人! 箱、荷物! 今いる場所から近い順じゃない!」
九号車の床へ、波形の紙。
十号車へ一本線。
十一号車へ箱形。
巴がそれを見て、すぐ黒板へ追加する。
《移動は希望の確定ではない》
進む車両へ入ったからといって、後で止まりたいと言えなくなるわけではない。
止まる側へ入っても、側線進入前なら戻る選択がある。
ただし、時刻と安全条件で、戻れない瞬間は来る。
その瞬間を隠さない。
最初の担架が通る。
車輪の揺れで、前輪が連結幌の段差へ引っ掛かる。
迅は扉脇から立とうとする。
左拳の傷が開く。
七瀬が肩を押さない。
彼の視界へ手を出し、座れと示す。
「手伝う」
「右手も左手も治療中です」
「足」
「通路に足を出さない」
「何する」
「邪魔をしない」
「難しい」
「知っています」
轟が担架の後ろへ入る。
左肩は使わない。
腰を落とし、右前腕で車輪を少し浮かせる。
前は倉井が引く。
「一、二」
段差を越える。
迅の拳が開けた道を、迅が運ぶ必要はない。
それを認めるまで、彼は二秒かかった。
次に、人が通る。
三一。
秋枝。
針ばあ。
同じ方向ではない。
すれ違いをなくすため、二分ごとに方向を変える。
タマキが時間を読む。
「前へ、九十秒。止まる側、百二十。保留、動かない。次、荷物」
翼が屋根から天窓を覗く。
「遅い!」
「知ってる!」
タマキ。
「全部、予定より三分遅い!」
「間違える時間、九分!」
「本当に入れたの!」
「入れた!」
「嫌な時刻表!」
「褒めた?」
「拒否!」
郵便箱を移す段で、宛名のない箱が一つ出る。
「前?」
轟。
「後ろ?」
沢代。
「宛名なし」
タマキ。
「開ける?」
「危険物表示なし。送り状、車庫から運行責任者」
翼が上から叫ぶ。
「私!」
「中身!」
「予備の義足工具!」
「十号車!」
迅が言う。
「何で」
タマキ。
「翼がいる」
「止まる側へ置いたら、翼も止まるって意味?」
「違う。壊れた時に近い」
「意味を分ける」
箱は十号車へ。
翼本人の運行選択とは別に記録する。
物の行き先は、人の意思を代弁しない。
最後に、空の青果籠が通路中央へ残る。
三一は九号車へ行った。
籠は十号車にある。
「忘れ物!」
タマキが叫ぶ。
三一が前から戻ろうとする。
「動くな!」
また凱の声。
今度は続ける前に、自分で口を閉じる。
タマキが籠を持ち上げる。
「誰が渡す」
迅は立たない。
七瀬は撮影機を置く。
右腕で籠を持ち、九号車へ運ぶ。
左肩は上げない。
「記録」
三一が受け取りながら言う。
「今、止めた?」
「撮影を止めました」
「俺の籠のため」
「通路安全のため」
「同じ?」
「結果は。理由は別」
三一は籠を受け取る。
空なのに、両手で。
道が開けば、人は自由になる。
自由になった人は、同じ方向へ走るとは限らない。
扉を開ける一撃より、その後のすれ違いの方が時間を使った。