第120話 第十章「終点の手前」後編

 午後四時十五分

 最初に通路を渡ったのは、降りたい人ではなかった。

 三一だった。

 十号車から九号車へ、前へ進む。

 正式聴取所まで継続するためだ。

 迅は扉脇へ座ったまま、彼へ道を空ける。

「助けてくれたのに、前へ行く」

 三一が言う。

「助けた先は決めてない」

「格好いいこと言った?」

「痛くて考えてない」

「じゃあ後で使う」

「料金」

「タマキに払う」

「俺の言葉」

「管理人、タマキ」

 三一は通路を渡る。

 次は、九号車から十号車へ秋枝。

 母親の診療記録を胸へ抱え、足を止める。

「迅さん」

「はい」

「これは、降りる約束ですか」

「違います」

「十号車へ移ったら、側線へ入る」

「計画どおりなら」

「計画どおりでなければ」

「前へ戻る時間があるかは、分かりません」

 秋枝は通路の床を見る。

 揺れている。

 扉が開いたから、選べるようになった。

 選べるようになったから、怖さが増えた。

「安全だと言わないんですね」

「言えない」

「なら、移ります」

「なぜ」

「危険を隠さない方を、今は選ぶ」

 彼女は十号車へ渡る。

 次の男は途中まで来て戻った。

「保留する」

 巴が記録する。

「どちらの車両へ」

「十一。妻がいる」

「停車希望ですか」

「妻は。俺は、まだ」

「同じ車両にいることと、同じ答えは別に記録します」

「面倒だな」

「必要ですか」

「必要だ」

 男は十一号車へ下がる。

 針ばあは巴の腕を借りない。

 右の手摺を自分で掴み、十号車へ渡る。

 巴は半歩後ろ。

 転びそうなら支えられる距離。

 決める方向を押さない距離。

 七瀬は床置きの撮影機を通路から外している。

 人の顔は撮らない。

 足元と、時計と、開いた扉だけ。

「火群!」

 迅。

「今、顔を上げられません」

「俺の拳」

「出血は見えています」

「手当て」

「順番待ちです」

「怪我人」

「通行障害でもあります」

「厳しい」

「退いてください」

 迅は尻で三十センチ移動した。

 勝者の退場としては、かなり低い。

 七瀬が右手だけで傷を洗う。

 左肩は三脚を運んだため、少し上がらなくなっている。

「骨」

「拳の形は保っています。裂創と打撲。握って」

「痛い」

「握れるかを訊いています」

「少し」

「開いて」

「それも痛い」

「答えが増えました」

「巴のせい」

 巴は振り返らず、白手袋の中指だけ立てた。

 句読点の位置からすると、たぶん否定だ。

 迅には読めない。

「今、悪口?」

「本人へ訊いてください」

「忙しそう」

「なら保留」

 七瀬は包帯を巻く。

「完全発動、一回」

「数えた?」

「あなたの踵音と、扉の破損時刻を記録しました」

「映像ないのに」

「映像がないことも記録です」

「便利」

「使う私が困ります」

「流行ってる」

「不本意です」

 午後四時二十二分

 折部翼は、開いた通路を閉じ直そうとはしなかった。

 迅の拳が解除箱を壊した。

 もう鍵では閉まらない。

 閉めるなら、屋根から鋼棒を手で押し下げるしかない。

 彼女はそれより速い方法を選ぶ。

 人の移動を止めるのではなく、切離し準備を遅らせる。

 背の郵袋から、赤帯の円筒を出した。

 宛名札。

《十号車制動責任者 竜胆迅》

「違う!」

 タマキが車内から叫ぶ。

「十号車責任者は迅じゃない!」

「今、扉を開けた責任者!」

 翼が円筒を投げる。

 中には、十号車の手動制動輪を固定する予備鍵が入っている。

 重い。

 屋根へ落ちれば、跳ねて線路へ消える。

 誤配なしの黒い痕が円筒へ走った。

 正しい宛先のある荷物は、受取人へ向かう。

 だが、宛名は正しくない。

 十号車の制動責任者は、まだ自分の名を記録していない救護係だ。

 迅は操作員でも、受取人でもない。

 円筒が空中で一度、迅へ曲がる。

 次の瞬間、軌道が折れた。

 宛先を偽装したことによる、反証〈リコイル〉

 届けようとした偏りが、差出した側へ返る。

「翼!」

 迅が叫ぶ。

 円筒は黄土色の外套へ戻った。

 翼は右腕で受けようとする。

 列車が継ぎ目を越える。

 円筒の角が、機械義足の外側軸へ当たった。

 がん。

 金属音。

 翼の左脚が一瞬、身体から遅れた。

 磁気底が屋根へ貼りついたまま、膝側の回転軸だけが外へ捻れる。

 翼は倒れない。

 倒れないため、右脚と腰へ全荷重を移す。

 その動きが、壊れた軸をさらに擦る。

 きん、ではない。

 ぎり、と鳴った。

「動くな!」

 迅。

「配達中!」

「宛先、間違えた!」

「役割が動いた!」

「確認しなかった!」

「時間が――」

「それで間違えた!」

 翼の顔から笑みが消える。

 円筒は屋根に落ち、前へ転がる。

 笠井が腹ばいで掴んだ。

「折部、軸停止」

「まだ歩ける」

「歩けると運べるは別です」

「誰の台詞」

「今、俺」

 笠井は円筒を胸へ固定する。

「受取人を確認します。十号車救護係、氏名は運行簿。本人へ渡す」

「私の命令は」

「鍵を届けろ。宛先を誤れとは言われてない」

「遅れる」

「正しく届く」

 翼は義足の軸へ手を伸ばす。

 迅が近づく。

「触るな」

「触らない」

「助けないで」

「選べ」

「何を」

「屋根に残るか、車内へ下りるか」

「あなたが言う?」

「俺は屋根に残る」

「理由」

「怪我した」

「逆でしょ」

「下りる人が先」

「誰」

「おまえ」

「命令?」

「要請」

「拒否」

 翼は自転車へ手を掛ける。

 左脚は軸が固まり、曲がらない。

 自転車を杖にすれば動ける。

 動けるが、屋根上の横風で片脚と二輪へ荷重を分けるのは危険だ。

 迅は止めない。

 止めれば、彼女の身体を彼女より先に決める。

 代わりに、腰索の余りを屋根中央へ置く。

「使う?」

「同情便?」

「有料」

「いくら」

「タマキへ訊け」

「高そう」

「払う大人、好きらしい」

「私、十七」

「俺も」

「大人じゃない」

「じゃあ子ども料金」

 翼は索を見た。

 受け取らない。

 拒否もしない。

 保留。

 その間に、車内放送が入る。

『乗客移動、第一確認完了。十号車、十一号車、十二号車へ停車選択・保留者。前九両へ継続選択者。移動不能者二名は、本人指定により後三両へ残る。付き添い一名は前方継続を希望したが、本人の依頼で後方へ残る。答えは同一と記録しない』

 巴。

 長い。

 だが、一つもまとめていない。

『切離し準備へ移ります』

 翼が索を拾った。

「受領」

「遅い」

「確認した」

「何を」

「これが私宛か」

「違ったら」

「返した」

 翼は索を自分の安全帯へ繋ぐ。

 迅は前へ引かない。

 自転車を押さえるだけ。

 二人は屋根の点検梯子まで、同じ速さで進む。

 翼の古い歩幅。

 迅の痛む右手。

 どちらにも最短ではない。

 午後四時三十四分

 十号車の車内へ下りると、床一面に色の違う紐が張られていた。

 緑は前九両へ継続。

 白は後三両へ停車。

 黄は保留。

 紐は人を分類するためではない。

 荷物と座席と補助具の置き場を分け、本人の答えを取り違えないための仮表示だった。

 タマキが鉄箱を開き、車両票を数えている。

「迅、何号車」

「十」

「希望」

「何の」

「前へ行くか、後ろへ残るか」

「作業は」

「どっちにもある」

「なら、怪我人が少ない方」

「それ、乗客の配置より自分を先にしてる」

 迅は答え直す。

「俺が必要な方」

「それも同じ」

「面倒」

「質問、一つ」

 巴が黒板を上げた。

《あなたがいなくても成立する配置はどちら》

 迅は車内を見る。

 前九両には凱がいる。

 運転士がいる。

 継続する乗客がいる。

 後三両には轟、タマキ、早瀬が入る予定だ。

 制動係が三人。

 七瀬は記録のため十号車。

 真琴は切離し記録のため九号車から前へ移る。

 迅の拳は、もう作動条件ではない。

 どちらにも、必須ではない。

「両方」

「じゃあ選べる」

 タマキ。

「選びたくない」

「それ、保留?」

「違う。自分を囮にしたい」

「何で」

「折部が俺を止める」

「だから、迅が前へ行けば前を遅らせる。後ろへいれば後ろを遅らせる」

「使える」

「乗客が迅の囮になる」

 タマキは即答した。

「却下」

 迅は黙る。

 凱に言われた。

 おまえの拳で一つにするな。

 拳で一つにしなくても、自分を敵の視線の中心へ置けば、結局すべてが自分の動きへ集まる。

「どこへ」

 七瀬が訊く。

「十号車」

「理由」

「今いる」

「消極的」

「移動路の損傷確認と、屋根上負傷者二人」

「実務的」

「折部も十」

「最後が本音ですか」

「見張る」

「彼女もあなたを見張ると言います」

「相互」

「仲良し?」

 タマキ。

「違う」

 迅と翼が同時に言った。

 翼は床へ座り、義足の外装を外している。軸受けの一部が楕円に潰れていた。

「同じ答え」

 タマキ。

「同じにするな」

 また同時。

 巴が右親指で手袋の句点をなぞる。

 笑っているらしい。

 遠くで信号喇叭が一度鳴った。

 M17の予告信号。

 あと十六分。

 赤い連結錠は壊れた。

 人の配置は決まった。

 だが、車両はまだ一つだった。