第121話 第十一章「ブレーキを渡す」前編

十月十七日 午後四時三十七分

 時間は、誰のものでもないふりをして、遅れた者だけを責める。

 だからタマキは、時刻を書く時だけ、紙を殴るように鉛筆を置いた。

 十号車の床へ並べた使用済み切符は、三十七枚。

 南環市場の黄色い近距離券。

 北工区の煤けた作業券。

 廃止された浴場線の青い半券。

 角が丸いもの。濡れて波打ったもの。改札鋏の穴を二つ持つもの。途中下車の印を潰されたもの。

 どれも、もう人を乗せない。

 けれど、道は残していた。

「十九番側線、分岐まで十三分四十」

 床下の継ぎ目が、鉄箱の底を鳴らした。

 タマキは切符を三列へ分ける。

「今の速度、三十六。古橋さんが二十四まで落とす。九号車が転轍器を抜けてから、早瀬さんが切り替える。十、十一、十二が側線。順番、後ろから」

 十二号車を示す切符へ、爪で一つ傷を入れる。

 十一号車へ二つ。

 十号車へ三つ。

「十二が最初。十一が二拍あと。十が三拍あと。全部、一気に締めない。半分、四分の三、最後に全制動」

「二拍って、誰の拍ですか」

 七瀬が訊いた。

「私」

「あなたが転びましたら」

「切符」

 タマキは三枚を裏返す。

 一枚目に短い縦線。

 二枚目に二本。

 三枚目に三本。

「車両ごとに持つ。線が来たら動く。声が切れても、床の打音で同じ順番」

「床を叩くのは誰です」

「轟」

 轟は座席脇へしゃがみ、右拳で床板を叩いた。

 どん。

 窓硝子が震える。

「一回で全車に聞こえそうだな」

「聞こえすぎ。弱く」

「注文が細けえ」

「肩、壊すよりいい」

「右だぞ」

「右を壊したら両方」

「おまえ、医者より怖えな」

「医者は治す。私は使う」

 轟は笑い、拳ではなく踵で床を鳴らした。

 とん。

 金属を伝う低い振動が、連結部へ流れる。

 タマキは目を閉じる。

 十二号車の車輪が継ぎ目を越えた。

 遅れて十一号車。

 さらに十号車。

 列車が一つの長い音ではなく、車両ごとの十二の身体を持っていると分かる。

「それ」

 タマキは言った。

「踵一回で準備。二回で半分。長く一回で全部」

「俺の踵に乗客の命を預けんのか」

「違う。ブレーキ係に渡す。轟は時刻を運ぶだけ」

「軽く言うな」

「重くしたら速くならない」

「おまえ、折部に似てきたぞ」

「最悪」

 車両の反対側で、翼が吹き出した。

「聞こえてる!」

「聞かせた!」

 義足の外装を外した彼女は、左脚を伸ばして床へ座っている。楕円に潰れた軸受けへ、早瀬が薄い金属片を挟んでいた。

 応急処置だ。

 直すためではない。

 次に壊れる時刻を少し後ろへずらすための処置。

「歩行、十歩まで」

 早瀬は軸へ指を当てたまま言った。

「跳躍禁止。磁気底は切る。自転車へ乗るのも禁止」

「三つとも必要」

「必要でも禁止」

「運行責任者は私」

「その脚の保守責任は、今は私」

「契約した?」

「折れた音を受け取った」

「それ、契約じゃない」

「なら拒否して立て。十歩目で転ぶ」

 翼は立たなかった。

「技術者って、脅迫が上手いね」

「数字を言った」

「数字は礼儀正しい顔で脅す」

 タマキは切符へ時刻を書く。

 十六時三十九分。

 応急固定開始。

 翼の名前は書かない。

 誰の脚かではなく、いつ判断が変わったかだけ。

 それが今の仕事だった。

 十号車の手動制動輪は、座席床下の箱へ収まっていた。

 箱を開けると、赤い輪が立つ。

 直径はタマキの肩幅ほど。錆止め油が黒く溜まり、把手の布巻きは一部が剥げている。

 車掌の葛城直人が、輪の前で手を開閉した。

「実車で回したのは、一回です」

「訓練?」

「四年前。停止した車両で」

「今日、動いてる」

「見れば分かります」

「じゃあ二回目」

「慰めになってません」

「一回目より多い」

「算数は正しい」

「列車も算数」

「人間が乗ると、急に国語になります」

 巴が横から黒板を出した。

《回せる/回したい/回す責任を負える は別》

 葛城は読んで、息を吐く。

「回せます。回したいです。責任は――」

 言葉が止まる。

 車輪は止まらない。

「俺の名で負います」

 凱が言った。

 十号車の通路に立ち、すぐ首を振る。

「今のは取り消す」

 葛城が眉を上げた。

「早いですね」

「癖が出た」

「王様の?」

「迷惑な方の」

「便利な方もあるんですか」

「ない。便利に見えるだけだ」

 凱は膝装具の留め具を締め直し、手摺へ寄る。

「俺は、葛城直人が判断できる材料を読む。責任を代わりには負わない。事故が起きた時、俺だけを罰して終わらせるのも許さない。設計した者、許可した者、操作した者、乗ると決めた者。それぞれの分を残す」

「分けたら、軽くなりますか」

「重さは同じだ。潰れる人が一人でなくなる」

 葛城は赤い輪へ両手を置いた。

「それなら、俺の分を持ちます」

「氏名」

 七瀬が記録板の横から言う。

「葛城直人。十号車担当。手動制動操作を受けます。条件は、速度二十四以下、前後連結確認、側線開通、十一号車と十二号車の操作員確定」

「受領時刻、十六時四十一分二十秒」

 タマキが書く。

「二十秒?」

「十九」

「細かいな」

「細かくないと、あとで全部『だいたい』になる」

「だいたい正義だった、だいたい事故だった、ですか」

「だいたい謝った、も」

「それは困る」

 葛城が笑う。

 笑いながらも、赤い輪から手を離さない。

 十一号車は、保護便の医療担当が受けた。

 名は倉井美帆。

 三十二歳。右手の薬指に、洗っても落ちない消毒液の白い跡がある。

「患者の移動が終わること」

 彼女は条件を一つだけ出した。

「終わらなければ?」

 タマキ。

「止めない。車両を分けない。診療を継続する」

「停車希望者は」

「命より後」

「本人が危険を承知で動くって言ったら」

「本人の承知で、こちらの担架技術が増えるわけじゃない」

 巴がうなずく。

 同意は、物理法則を説得しない。

 だから同意を取れば何をしてもよい、にはならない。

 十二号車の制動係は、決まらなかった。

 郵便・資材担当の男は、半年前に訓練期限が切れている。

「回すだけだろ」と言った乗客がいた。

 男は首を振った。

「回すだけなら、回さない。戻し方を知らない」

 正しかった。

 正しい拒否は、時刻表を容赦しない。

「あと七分十二」

 タマキは言った。

「十一、空席」

 凱を見上げる。

 凱は答えない。

 自分がやる、と言えば早い。

 左膝で揺れる車内を移り、重い輪を段階操作するのは、速くない。

 何より、資格がない。

 王は資格の代わりにならない。

「俺はできない」

 凱は言った。

 車内の何人かが、驚いた顔をする。

 王らしい人間に期待される最初の仕事は、できないと言わないことだ。

 その期待は、事故報告書にとてもよく似ている。

「できる者を探す」

 凱は続けた。

「できなければ、三両案を捨てる」

「捨てたら?」

 柏木秋枝が訊く。

「次の安全な機会を探す。今ここで命を賭けさせない」

「私は、今降りたい」

「知っている」

「知っていて、進ませるの」

「止める資格のない者へ、止めろとは言わない」

 秋枝は唇を噛む。

「正しいことって、役に立たないね」

「役に立つまで手を増やす」

 車両間扉が開いた。

 笠井透が入ってくる。

 額に屋根塗装の白い線。右肘に迅の棒を受けた腫れ。制服の胸章は紙燕連盟の燕尾を二本持つ。

「十二号車の制動訓練、今期更新済み」

 息を整えながら言った。

 翼が顔を上げる。

「笠井」

「運行責任者」

「命令してない」

「訊かれてもいません」

「なら勝手に来た?」

「操作員として判断しました」

 翼の口元から笑いが消える。

「前へ届けるのが仕事だよ」

「前へ行きたい人は、前へ行きます」

「後ろ三両を止めたら、便全体は遅れる」

「十九番へ入れる三両は、止めたい人を届ける便です」

「宛先を変えた」

「本人が変えた」

「連盟の命令系統は」

「事故の時に私へ質問したでしょう。『目の前の荷物が落ちたら、受取人を待つか』」

「待たない」

「今も同じです」

 笠井は翼の前へ立つ。

「運行責任者の停止命令がなくても、十二号車の安全操作を受けます。氏名、笠井透。訓練番号、紙燕六四一。条件、後部扉閉鎖、積荷固定、速度二十四以下、側線開通」

 翼は義足の軸へ手を置いたまま、彼を見る。

「私に反対する?」

「今の経路に反対します」

「同じじゃない?」

「折部責任者は経路じゃありません」

 翼が、ゆっくり息を吐いた。

「部下って、たまに上司を人間扱いするから困る」

「届きましたか」

「誤配」

「受取拒否ですね」

「保留」

 タマキは切符へ書く。

 十六時四十三分五秒。

 十二号車、操作員確定。

 残り七分十九秒。

 乗客の移動が始まる。

 緑の紐を持つ者は九号車まで前へ。

 白と黄は十、十一、十二へ。

 だが、人は色では歩かない。

 柏木秋枝は、母の薬箱と裁縫道具を別々の手で抱えていた。十一号車へ移るには、薬箱を一度床へ置かなければならない。

「置けない」

「私が持つ」

 七瀬が言う。

「記録は」

「床三脚です」

「薬、傾けないで」

「傾きの基準を」

「箱の白線」

「受領」

 七瀬は右腕で薬箱を抱える。左肩を上げない。撮影機は胸の前で揺れ、レンズは天井を向いた。

 今、映像は役に立たない。

 だから切る。

 三一は九号車と十号車の境で止まっていた。

 緑の紐を右手。

 黄の紐を左手。

「どっち」

 タマキが訊く。

「まだ」

「残り四分」

「時刻で答えは出ない」

「出ない。でも車両は出る」

「ずるいな」

「線路に言って」

 三一は前を見る。

 九号車には、正式聴取所まで継続する者たちがいる。

 十号車には、側線で一度降りて選び直したい者たちがいる。

「俺が前へ行けば、市場から逃げたことになると思う奴がいる」

「いる」

「後ろへ残れば、証言から逃げたと思う奴がいる」

「いる」

「どっちも嫌だ」

「他人の採点から降りる駅、ない」

「じゃあ何を選ぶ」

「今日の足」

 三一は笑わなかった。

 黄の紐を手放す。

 緑を結び直す。

「前へ行く。正式聴取所まで。市場のためじゃない。俺の名前を俺の口で言うため」

「時刻、十六時四十四分四十八」

「名前も書けよ」

「書かない」

「どうして」

「選んだ人を、選択より先にしない」

 三一はタマキの帽子を指で弾こうとする。

 タマキは避ける。

「生意気」

「遅い」

「それ、折部の病気だぞ」

「最悪、二回目」

 手話を使う針ばあは、十号車へ移る。

 自分で選んだ通訳が東側保守停車に待つ、という説明を、巴が一問へ縮めた。

《次に安全に止まれる場所で、あなた自身が通訳を選び直せる必要がありますか》

 針ばあは、必要、を示す。

 それから巴の右手を見た。

 保護帯のある人差し指。

 巴は左手中心の手話で返す。

 速度は遅い。

 針ばあは待つ。

 待つことが、相手を急がせない技術になる時もある。

 最後の担架が十一号車へ入る。

 倉井が扉を閉める。

「患者移動完了。酸素固定。制動操作を受けます」

 残り三分十二秒。

 タマキは床の切符を拾う。

 三列を、三人へ渡す。

 十号車、葛城。

 十一号車、倉井。

 十二号車、笠井。

「これは命令じゃない」

 タマキは言った。

「時刻」

「分かっています」

 葛城。

「違う。時刻も外れる。早瀬の信号と車輪音を確認して、自分で回す。私の紙だけで回さない」

「自信ないの?」

 翼が訊く。

「ある。だから、私だけにしない」

 翼の目が細くなる。

 笑ったのか、痛んだのか、タマキには分からなかった。

 午後四時四十七分

 十九番側線の手前には、三つの標識がある。

 一本目は白い丸。

 二本目は黄の斜線。

 三本目は赤い縁。

 古い保守規格で、運転士の目にはもう馴染まない。

 早瀬栞の目には、昔の傷のように見える。

『保守動力車から621号。早瀬。分岐側、目視確保。転轍器、手動。鎖錠ピン腐食なし。側線内、障害物なし。終端まで六十七・二メートル』

 通話器から、数字が落ちてくる。

『確認、古橋』

 先頭側の声。

『本線速度、二十七。二十四へ減速中。前九両の継続乗客、着席確認。十―十二号車切離し条件、残りは速度と転轍』

「前九両」

 秋枝が呟く。

「後ろ三両」

「十号車からが、止まる側です」

 巴が黒板に書く。

《列車の数え方も、選択で変わった》

「詩みたい」

「実務」

「実務は、詩より難しいね」

 秋枝は裁縫箱を膝へ置く。

「詩は破れても、縫わなくていいから」

 十号車と九号車の間では、真琴が切離し記録を読み上げていた。

「十号車側、乗客十九名、運行員一名、補助者三名。十一号車、乗客十一名、患者二名、医療員三名、補助者二名。十二号車、乗客七名、操作員一名、補助者二名。氏名非公開希望者は人数のみ。継続側との移動終了」

 息が浅い。

 午後の埃で、喘息がまだ残っている。

 吸入器を使ったあとも、声を長く続けない。

 七瀬が一文ずつ区切って受ける。

「切離しの法的根拠」

「環状旅客運行規程旧版補遺第十九条と、現行第二百三条但書。複数乗客の停車要求、車両担当者の安全確認、運行部門の経路許可。全員一致は要件ではない」

「継続側の権利」

「前九両は本線を継続。停止側の要求だけを理由に、正式聴取所までの移動を妨げない」

「遅延」

「見込み十一分。説明責任あり。補償は審査」

「責任者」

 真琴は一瞬だけ凱を見る。

 凱は何も言わない。

「運行判断、古橋巡。移送経路変更の異議申立て、折部翼。切離し技術確認、早瀬栞。各車手動制動、葛城直人、倉井美帆、笠井透。時刻基準、環玉樹。俺は、規定照合と記録文の作成」

「あなたの名も入った」

「消す理由がない」

 凱が言う。

「ある。失敗した時に、法務担当が全部決めたと書かれる」

「決めていないと書け」

「長くなる」

「短くして誤るな」

「おまえが言うと腹が立つ」

「理由は」

「昔、短い命令で全部決めた顔をしていた」

「今は長くて腹が立つ?」

「そうだ」

「改善した」

「性格は悪化した」

 凱は笑う。

 真琴は笑わない。

 だが、記録紙の端へ、凱の名を書かなかった。

 代わりに一行足す。

《獅堂凱は判断材料の放送を担当し、操作命令を発していない》

 事実は、仲直りより先に書ける。

 それで十分な時もある。

 白い丸が窓の外へ来た。

「準備!」

 タマキが叫ぶ。

 轟の踵が床を一度鳴らす。

 とん。

 十、十一、十二号車で、赤い制動輪を持つ手が固まる。

 回さない。

 準備だけ。

 列車は二十五へ落ちる。

 前方から、連結器の伸びる音が伝わる。

 がん。

 がん。

 車両同士が、引かれる向きへ揃う。

 これから後部三両を切り離すには、連結器へ圧縮力を残してはいけない。前が少しだけ引き、後ろがまだ転がる。その間に生まれる隙間を使う。

「二十四・六!」

 早瀬の声。

「九号車、解除準備!」

 十号車前端で、迅と轟が連結解除梃子を挟んで立つ。

 迅は左手。

 轟は右手。

 どちらも、本来の利き方ではない。

 だから二人で一本の梃子を扱う。

「俺が下」

 轟。

「肩」

「腰で引く」

「俺が上」

「右手」

「左で押す」

「二人とも壊れてんな」

「おまえほどじゃない」

「身長の話か」

「頭」

「元気じゃねえか」

 梃子を倒すのは、力だけではない。

 連結器が伸び切る瞬間に、爪の荷重が抜ける。

 早すぎれば噛んだまま。

 遅ければ、九号車が分岐へ近づきすぎる。

 タマキは床へ腹ばいになる。

 鉄箱の蓋を頬へ当てる。

 車輪音が骨へ入る。

 白丸を越えた。

 次の継ぎ目。

 短い空白。

 黄斜線まで、切符の穴で七つ。

「まだ」

 迅の肩が揺れる。

「まだ」

 轟の右前腕へ筋が立つ。

 連結器が鳴る。

 かん。

「今!」

 二人が梃子を倒す。

 迅の右手首に巻いた赤い糸が、風もないのに震えた。

 能力ではない。

 ただの痛み。

 轟は左肩を上げず、腰を落とす。

 金属爪が抜ける。

 九号車との間に、指一本ぶんの空ができた。

 すぐ二本。

 一尺。

「切離し!」

 真琴が時刻を書く。

 十六時五十分十二秒。

 前九両が、少しずつ遠ざかる。

 三一が九号車後端の窓にいる。

 こちらを見ている。

 手は振らない。

 タマキも振らない。

 どちらも、見送られる側ではない。

 選んだ線を進む側だ。

『前九両、分岐進入』

 古橋。

『速度二十四・一。後部三両、二十三・八。間隔八メートル』

 早瀬。

 差は小さい。

 小さい差が必要だった。

 大きく離れれば、後部は側線へ入る前に速度を失う。

 近すぎれば、転轍器を動かす時間がない。

 黄の斜線が窓へ来る。

 早瀬は線路脇の手動転轍機に立っている。

 保守動力車を側線手前へ止め、長い梃子へ両手を掛けていた。

 前九両の最後尾が、彼女の前を通過する。

 風が短い髪を後ろへ倒す。

「九号車、抜けた!」

 七瀬が窓から確認する。

「早瀬!」

 早瀬は梃子を引く。

 動かない。

 腕の問題ではない。

 鎖錠ピンが、振動で半分戻っている。

「ピン!」

 タマキが叫ぶ。

 早瀬は足で蹴らない。

 蹴れば曲がる。

 腰の工具袋から短槌を抜く。

 一打。

 ピンが入る。

 梃子を倒す。

 だが遅い。

 十号車まで、五秒。

「間に合わない!」

 誰かが言う。

「言わない!」

 タマキは返す。

 言葉で線路は変わらない。

 早瀬の梃子が半分。

 転轍器の舌が動く。

 三秒。

 反対側から、一枚の鋼板が飛んだ。

 いや、飛ばされたのではない。

 正しい手へ向かった。

 翼が車内扉に座ったまま、資材棚の鎖錠板を投げていた。

「早瀬栞! 受取人!」

 《誤配なし》の黒い線が、翼の右手首を走った。

 鋼板は横風に煽られながらも、早瀬の右手方向へ軌道を寄せる。

 早瀬は左手で梃子を押さえ、右手で板を受ける。

 板を梃子の延長へ噛ませる。

 最後まで倒す。

「側線開通!」

 十号車の車輪が、分岐へ入る。

 左右へ一度、強く振られた。

 乗客が息を呑む。

 翼の能力が線路を変えたのではない。

 早瀬が、古いピンを確認した。

 前九両が抜けた時刻を七瀬が見た。

 タマキが残りを読んだ。

 鋼板の宛先を、翼が間違えなかった。

 一人の正しさでは、車輪一つぶん足りない。

「入った!」

 轟の声。

「まだ!」

 タマキは叫ぶ。

 側線へ入ることと、止まることは違う。

 終端まで六十七・二メートル。

 三両の長さ、五十九・四。

 余り、七・八。

 だが、それは三枚の車体だけを足した数字だ。二か所の車間と連結器の張出しが、合わせて二・四メートルある。

 列車として配れる余裕は、五・四。

 数字だけなら、すぐ止めればよい。

 だが早く止めすぎれば、最後尾が本線の分岐を塞ぐ。

 遅ければ、先頭が終端砂箱へ突っ込む。

 後ろから締める。

 連結器を引張方向へ保つ。

「十二、半分!」

 笠井が自分の切符を見る。

 それから窓の標識を見る。

 轟の踵が床を二度打つ。

 とん、とん。

 笠井が制動輪を回す。

 金属の歯が、かち、かち、かち、と噛む。

 十二号車の車輪へ摩擦が入る。

 列車の尾が引かれる。

 十一号車と十二号車の連結器が伸びる。

「十二、半制動確認!」

 笠井は叫ぶ。

 タマキは二拍数える。

 一。

 二。

 倉井を見る。

 倉井はタマキを見ない。

 患者の酸素瓶を見る。

 担架の固定を見る。

 窓の黄杭を見る。

 自分で判断する。

 制動輪を回す。

「十一、半分!」

 車体が前後へ揺れる。

 秋枝の裁縫箱が膝から浮く。

 七瀬が右腕で薬箱を抱え、足で三脚を押さえる。

 巴は針ばあの肩へ触れない。

 視界へ手を出し、揺れが来ることだけを伝える。

 十号車の葛城が、三本線の切符を見ている。

 まだ。

 三拍。

 一。

 二。

 三。

 葛城は輪を回す。

「十、半分!」

 三両全体へ摩擦が入った。

 速度二十一。

 終端まで四十六。

「四分の三、十二!」

 轟の踵。

 笠井。

 二拍。

 倉井。

 三拍。

 葛城。

 車輪が高く鳴く。

 鋼鉄が悲鳴を上げる、と人は言う。

 悲鳴ではない。

 人が決めた力を、機械が音へ変えている。

「十九!」

 早瀬の声。

「残り十九メートル! 速度十二!」

 前方の終端標が、十号車の窓いっぱいになる。

 赤い板。

 その後ろに砂箱。

 さらに向こうは、使われなくなった資材広場。

 止まらなければ、勝ち負けではなく事故になる。

「全制動、十二!」

 長い一打。

 どん――。

 笠井が輪を回し切る。

 腕の筋が震える。

「十一!」

 二拍後。

 倉井。

「十!」

 三拍後。

 葛城。

 制動輪が最後の歯へ落ちる。

 がつん。

 タマキの身体が前へ投げられた。

 鉄箱が滑る。

 中の切符が宙へ散る。

 迅が左手で箱の取手を掴む。

 右ではない。

 轟が腰でタマキを受ける。

 左肩を使わない。

 凱は手摺へ掴まり、左膝を曲げすぎない。

 七瀬は薬箱を守り、撮影機を守らない。