第118話 第九章「折部の最短距離」後編
「点検を使って作戦を進める? 親切は監視に似るね」
「点検しろ」
「拒否」
古橋はそれ以上命令しない。
拒否を記録する。
《午後三時三十一分四十八秒 義足軸異音。本人、即時点検拒否》
翼はそれを見て、何も言わない。
書かれることを止めない。
ただ、歩く。
右へ多く体重を乗せて。
第一加速が入った。
床が後ろへ動く。
立っていた凱の身体が一歩下がる。
左膝では支えない。
右足を引き、机の縁へ手を置く。
接触禁止の相手は翼だけだ。
古橋が計器を押さえる。
「四十二」
車内回線から、乗客の声が入る。
『九両目、移動中!』
『十両目、担架固定待ち!』
『十一両目、郵袋移設未了!』
翼は応答器を取る。
「移動を中止。各自、最寄りの座席へ」
『止まる三両へ行きたい』
声は秋枝。
「現在地を」
『八両目と九両目の間』
「九へ入って座って」
翼は迷わず指示する。
『行っていいの』
「転倒しない方へ。議論はあと」
安全判断は正しい。
止める案を拒否しながら、止める側の人間も転ばせない。
凱はその矛盾を責めない。
人間が一つの思想だけで動くなら、会話はいらない。
第二加速。
四十五。
窓の外の支柱が、間隔ではなく面に見える。
翼が時刻表へ鉛筆で新しい線を引く。
「十九番通過、午後四時五十分十秒。後続貨物との間隔、四分増」
「通過を決めたのは誰だ」
凱。
「私」
「古橋は」
「速度四十五を承認。側線通過の最終判断は現運行責任者」
「運転士は」
「指示を受領」
「乗客は」
「移送同意」
「今朝の変更後の意思は」
「確認中」
「確認中のまま通過する」
「そう」
「記録を」
「既に古橋部長が書いてる」
「あなた自身で」
翼は一秒、凱を見る。
「私の手は運行で塞がってる」
「口がある」
「七瀬さんの録音は後ろ」
「運行放送へ言え」
「何を」
「十九番を通過すると決めた。理由は、七分四十秒の遅延と操作事故を避けるため。乗客の確認は未了。それでもあなたが選んだ」
「私に不利な声明を、私の回線で?」
「運行判断だ」
「王様は公開処刑が好き」
「俺も同じことをした」
「だから?」
「今は、自分へさせる」
「拒否」
「理由」
「乗客を不安にする」
「既に不安だ」
「増やす」
「隠すと減るのか」
「動ける程度には」
凱は放送器を見る。
翼の腰に鍵。
取れば接触禁止へ違反する。
殴って奪えば、彼の得意な一つの決着になる。
凱は動かない。
「古橋巡」
「何だ」
「あなたは、乗客へ運行判断を説明する義務をどう解釈する」
「重大な経路変更は、理由を速やかに通知」
「十九番を通過するのは経路変更か」
「当初計画どおりだ」
「停止案を検討した後でも」
「法令上は変更ではない」
「あなたの解釈は」
古橋は鉛筆を置く。
「検討された安全な選択肢を採らないなら、重大判断だ」
「通知義務」
「あると解釈する」
翼が古橋を見る。
「部長」
「折部。放送しろ」
「あなたの上書き?」
「運行部長としての指示」
「拒否したら」
「私が代行する」
翼の顎が上がる。
命令されたことより、放送を奪われることが嫌なのだ。
「私がする」
彼女は鍵を差した。
全車回線。
『乗客各位へ。運行責任者、折部翼』
宛名を読む時の厳粛な声。
『十九番保守側線へ三両を分離する案を確認しました。進入時の遅延、乗客移動、手動制動、側線状態に危険があります。私は、北環第六聴取所への移送を継続し、十九番を通過すると決めました』
一拍。
義足のボルトへ指が触れる。
『一部乗客の意思確認は未了です。それでも、駅前接触と運行事故の危険を避ける方を選びました。判断者は折部翼。運行部長、古橋巡が速度四十五を承認。運転士が操作します』
車内に、列車音だけが流れる。
翼は続ける。
『この放送は、乗客の継続同意を意味しません』
凱は彼女を見る。
最後の一文は、要求していない。
翼自身が足した。
放送を切る。
「満足?」
「違う」
「処刑にならなかったから?」
「おまえが一文足した」
「必要だった」
「誰に」
「記録に」
「乗客にではなく?」
「両方」
翼は右を向く。
嘘ではない。
凱は机の上の三枚の運行札を見る。
「三両案を、もう一度出す」
「拒否」
「今度は安全要件を全部揃える」
「時間がない」
「時間を作る」
「どうやって」
「通過信号を決める者へ、判断材料を渡す」
「先頭を制圧する英雄案?」
「捨てた」
「じゃあ何」
「全車へ、位置、速度、制動順、乗客要求を伝える」
「それで列車が止まる?」
「運行員が選べる」
「責任を押しつける」
「今は、おまえ一人へ押しつけている」
「私が受けた」
「受けた責任を、他人の意思まで含む荷物にするな」
「配達の比喩を使わないで」
「使える」
「似合わない」
凱は全車放送器へ手を伸ばさない。
古橋を見る。
「判断材料の放送を許可しろ」
「内容」
「命令ではない。現在位置。十九番までの時刻。三両案の要件充足状況。継続希望車両は進むこと。停車希望車両の操作員募集。最終判断は各担当者が自分の名で行うこと」
「最後が命令に聞こえる」
「では、言い換える」
「どう」
凱は考える。
王の声から命令形を抜くだけでは足りない。
人は語尾より、誰が言ったかへ従う。
「俺が読むのは名前と数字だけ。質問は巴。法的条件は真琴。技術条件は轟と早瀬。記録は七瀬。俺の意見は言わない」
「あなたの沈黙が意見になる」
「それでも、一人で全部を言うよりましだ」
古橋は三秒考える。
「許可。放送卓は三両目。ここではない」
「なぜ」
「ここから出せば、折部の判断へ見える」
翼が笑う。
「部長も面倒になった」
「おまえに教えた」
「失敗だね」
「記録してある」
凱は二両目を出ようとする。
翼が呼ぶ。
「獅堂凱」
名を読む時だけ、彼女の声は配達になる。
「何だ」
「あなたの最短距離は?」
「ない」
「逃げた」
「戻れる道を含めれば、一本にはならない」
「遅いね」
「知っている」
「私が正しかったら」
「記録する」
「謝る?」
「謝る」
「私が間違ってたら」
「おまえが決めろ」
「処分も?」
「おまえだけでは決めない」
「最後まで遅い」
「七歩ぶん」
凱は扉へ向く。
第一歩。
左膝が痛む。
翼の義足が、後ろでまた小さく鳴る。
かち。
今度は、古橋も聞いた。
「折部、点検」
「十九番の後」
「通過するつもりだろう」
「だから後」
凱は振り返らない。
人の身体を、議論へ勝つ材料にしない。
ただ、時刻だけ覚える。
午後三時五十四分十七秒。
義足軸、二度目の異音。
三両目の放送卓で、凱は鍵を受け取った。
七瀬が既にいる。
「全部、撮りましたか」
「二両目は録音許可なし」
「運行簿に残った」
「あなたの説明は」
「あとで話す」
「今、必要な事実だけ」
「折部は十九番通過を決定。理由を全車放送した。古橋は速度四十五を承認。三両案の判断材料放送を許可」
「身体状態」
「翼の義足軸に異音二回。本人、点検拒否。運行簿へ記載」
「あなたの膝は」
「四」
「五に見えます」
「映像は内心を撮れない」
「装具音です」
「流行っているな」
「座ってください」
凱は放送卓の椅子へ座った。
出口へ正対させようとして、やめる。
机へ向けたまま。
王の席ではない。
読むための椅子。
七瀬が録音針を入れる。
「午後三時五十六分。判断材料放送。話者ごとに名を示します」
凱は鍵を押す。
『全車両へ。獅堂凱。これは命令ではない。俺は、以下の数字と話者名だけを読む』
車輪の音が、声の下に続く。
『十九番側線分岐まで、推定五十四分。対象候補、十、十一、十二両目。継続希望者を含む前九両は、本線継続案。乗客の本人確認は一文字巴。法的条件は朽葉真琴。制動条件は伏見轟、早瀬栞。位置と時刻は環玉樹。記録は火群七瀬。運行判断は折部翼と古橋巡。各車両担当者は、受けた情報を自分で確認できる。俺の名を判断理由に使うな』
最後の一文は命令形に近い。
凱は言い直す。
『訂正する。俺の名だけを理由にする判断は、俺が支持しない』
支持しない。
禁止ではない。
拒否の表明。
放送を、巴へ渡す。
真琴へ。
轟へ。
タマキへ。
声が一つではなくなる。
折部翼の最短距離へ、別々の人間が別々の線を引き始めた。