第117話 第九章「折部の最短距離」前編

十月十七日 午後三時十四分

 最短距離は、地図の上では一本だ。

 人間の中では、通らなかった道が何本も並んでいる。

「先頭へ行く」

 獅堂凱が言うと、竜胆迅は左掌の包帯を見た。

「殴る?」

「話す」

「膝で?」

「口でだ」

「凱の口、たまに武器」

 タマキ。

「承知している」

「承知してる武器が一番危ない」

 迅。

「おまえに言われたくない」

「俺の拳は見える」

「俺の声も聞こえる」

「聞こえた時には従ってる人がいる」

 凱は胸の割れた鐘へ触れそうになり、右手を下ろした。

「だから先頭へ行く」

「逆じゃない?」

 タマキ。

「皆へ声を出さず、折部本人へ話す」

「話して駄目なら」

「判断材料を運行員へ渡す」

「命令は」

「しない」

「本当?」

「疑え。だが、しない」

 凱は九両目から前へ歩いた。

 迅は追わない。

 右腕の痺れ。

 左掌の傷。

 それだけではない。

 凱が折部と話す時、迅が横へ立てば、返事の速度が変わる。

 凱はそれを分かっている。

 速さの似た者同士にしか見えない違いがある。

 八両目。

 継続希望と停車希望が半分ずつ。

 通路で人が話している。

「側線へ移るなら、荷物は」

「名前だけ先に」

「私は付き添いだけど、本人が残るなら」

「次の質問まで待て」

 凱が通ると、会話が止まる。

 人々が道を空ける。

 彼は一人ずつに言う。

「続けてくれ」

 命令ではないつもりでも、全員が同時に話し始めるわけではない。

 凱が通り過ぎたあと、少しずつ声が戻る。

 自分の存在が、会議へ置かれた重い文鎮に似ている。

 紙は飛ばない。

 だが、めくれない。

 七両目。

 波佐間啓吾が硝子箱の前に立つ。

「先頭へ行くのか」

「そうだ」

「止めるなよ」

「止めない」

「信じろって?」

「疑え」

「おまえら、最近そればっかりだな」

「便利だからな」

「疑っても、列車の前は見えない」

「俺が見て、戻る」

「戻らなかったら」

 凱は答えを急がない。

「七瀬の記録と、古橋の運行簿を見る。俺の言葉だけで決めるな」

「逃げたな」

「逃げ道を渡した」

「同じだろ」

「違う。俺もそこを使える」

 波佐間は硝子箱の留め具を確認する。

「北環へ着いたら、俺は証言する。途中で何があっても」

「誰へ言っている」

「おまえ」

「記録者は七瀬だ」

「おまえが先頭へ持っていけ」

「伝言か」

「違う。圧力だ」

 波佐間ははっきり言った。

「止める人間の声ばかり先頭へ届くな。俺は進みたい。おまえがそれを忘れたら、元王だろうが殴る」

「届くか」

「椅子に乗る」

「硝子職人が箱を踏むな」

「おまえの膝より丈夫だ」

 凱は少し笑う。

「受領した」

「宛名屋みたいに言うな」

「使える」

 六両目。

 紙燕の護送員二人が扉前へ立っている。

「運行室への通行は、折部責任者の許可が要ります」

「連絡しろ」

「待ってください」

「何分」

「確認します」

「何分かを確認するのか」

「返答があるまでです」

「待つ場所を変える。通路を塞ぐな」

「前へは行けません」

「ここで待てば、乗客が通れない」

「では座席へ」

「俺が座ると二席使う」

「一席です」

「膝を伸ばす」

 護送員は凱の装具を見る。

 同情ではなく、通路幅を測る目。

「車端の補助席を」

「座る」

 凱は従った。

 命令されることへ慣れていない。

 王だった時、人の命令を聞かなかったわけではない。

 聞く前に、相手が命令形を使わなくなった。

「折部責任者から。二両目まで通行可。接触禁止。録音可。放送器への接近不可」

「受領」

 凱は立つ。

「接触禁止は双方か」

「当然です」

「記録へ残せ」

「疑うんですか」

「折部だけでなく、俺も」

 護送員は少し意外そうに、通行票へ追記した。

《双方、身体接触禁止》

 署名。

 凱は前へ進む。

 先頭へ向かう途中、凱は三度、命令を求められた。

 七両目で、継続希望の男が立ちはだかる。

「止めさせないでくれ」

「俺に、その権限はない」

「権限じゃない。あんたが『進め』と言えば、後ろの奴らも黙る」

「なぜ黙らせたい」

「俺は今日、証言しなきゃならない。戻れば店が潰される」

「おまえが進む理由は、他人を黙らせなくても残る」

「数が負けたら」

「多数決で列車全部を決める案は出していない」

「でも、王の言葉なら一つになる」

「それを捨てに行く」

 男は道を空けない。

「便利なのに」

「便利な道具は、使われる側が壊れる」

「名言で飯は食えない」

「証言所へ着けば、食堂がある」

「冗談か」

「場所の情報だ」

 男は少しだけ笑い、通す。

 六両目で、停車希望の女が凱の外套を掴む。

「王なら止めて」

「王ではない」

「みんな、そう呼ぶ」

「呼ばれることと、従わせる権利は違う」

「昨日まで命令してたくせに」

「だから、今日できるとは言わない」

「反省してる間に、私は遠くへ行く」

 凱は外套を外さない。

 女の指が震えている。

「次の安全な停車で、降りる選択を求めた記録はある」

「記録じゃなくて、止めて」

「止める方法を作っている」

「間に合わなかったら」

「俺も責任を負う」

「責任で戻れる?」

「戻れない」

 凱は言う。

 女は手を離す。

「じゃあ何の役に立つの」

「次に、同じ方法を使わせない」

「私は今を訊いてる」

「今は、間に合わせる」

 矛盾している。

 戻らないと知りながら、間に合わせると言う。

 それでも、できると命じるよりは正確だった。

 五両目で、保留の老人が通路脇へ座っている。

「どっちへ行けと言う」

「言わない」

「決められん」

「いつまでに必要か、巴が知らせる」

「おまえは何をする」

「決めない時間を、車両配置へ入れる」

「そんな席があるのか」

「作る」

「王は、席まで作るのか」

「王でなくても椅子は運べる」

 凱は空いた折畳み椅子を、通路の広い場所へ移す。

 左膝を深く曲げない。

 持ち上げず、床を滑らせる。

 老人が見ている。

「下手だな」

「膝を手術した」

「王も切られるのか」

「皮膚は同じだ」

「中身は」

「医者に訊け」

 老人は笑う。

「ここで待つ」

「答えを?」

「答えたくなるまで」

 凱は、椅子の脚が固定されたか確認して先へ行く。

 三人とも、別の命令を求めた。

 進め。

 止めろ。

 決めてくれ。

 全部を同時に叶える王命はない。

 もしあれば、それは奇跡ではなく、誰かの声を消した結果だ。

 四両目の連結部で、真琴が待っていた。

「人気者だな」

「見ていたのか」

「聞こえた」

「何か言え」

「王命を使わなかった」

「評価か」

「事実」

「昔なら」

「使った」

「止めるか、進めるか」

「先に一つへまとめた」

「どちらを」

「状況に合う方を選び、正しいと呼んだ」

「今は」

「状況に合う正しさが複数ある。面倒だ」

「逃げたい?」

「逃げたら、誰かが俺の名を使う」

「自意識が大きい」

「実績がある」

「最悪の自慢だ」

 真琴は薄い紙を渡す。

 乗客要求の集計。

 停止必要。

 継続。

 保留。

 数字の横に、理由を一つへまとめない注記がある。

「折部へ見せる」

「彼女は時間で切る」

「だから、時刻と一緒に見せる」

「おまえは説得するつもりか」

「判断材料を渡す」

「言い換えた」

「巴に習った」

「料金を払え」

「請求されている」

 真琴は初めて少し笑う。

「王も通訳料を払うのか」

「王ではない」

「なら、なおさら払え」

 凱は紙を受け取り、先頭へ向かう。

 命令を捨てるのは、声を小さくすることではない。

 自分の声が、誰の判断を消すか数えることだ。

 その計算は、左膝より遅かった。

 二両目の運行室は、半分が机、半分が通路だった。

 壁に時刻表。

 信号図。

 列車重量表。

 後続列車の位置札。

 古橋巡は、机へ肘をつかず座っている。

 四十代半ば。灰色の制服。髪は短く、額が広い。右手の中指に、鉛筆を長年持った硬い節。

 折部翼は立っていた。

 機械義足を床の固定溝へ置き、右脚へ体重を寄せる。

 黄土色の外套は脱がない。

「宛名、確認」

 翼が言う。

「獅堂凱。先頭車への面談要請。受領か、拒否か」

「受領」

「用件」

「十九番側線へ十から十二両目を入れる」

「拒否」

「早いな」

「聞いた」

「全部か」

「三両。分岐十九。乗降希望三十四、保留を含めて四十三。手動制動。旧補遺第十九条。早瀬栞が現場確認。古橋部長が要件提示」

 古橋が言う。

「最後は私だ」

「あなたは判断を保留している」

 凱。

「要件が揃っていない」

「あと何が」

「十二両目の制動係。後続貨物の退避完了。十九番転轍器の現物信号。乗客移動」

「揃えば」

「判断する」

 翼が義足のボルトを二度叩く。

「判断は私がする」

「あなたが拒否すれば、古橋が上書きできる」

「できる。しない」

「なぜ言い切れる」

「私が運行安全を説明するから」

「説明で変わるなら、判断は古橋だ」

「運行責任者は私」

「決める人間が二人いる」

「だから遅くなる」

 翼は時刻表を指す。

「十九番進入可能時刻まで、一時間四十二分。切離し準備に十五分。乗客移動、最低十二分。後続退避と信号再設定に二十分。残る時間は、誤りを見つけ直すために要る」

「話さなくても、乗客は移る」

「許可していない」

「人が車両を歩くのに、運行責任者の許可は要るか」

「走行中の集団移動は要る」

「一人ずつなら」

「言葉遊び」

「規則の単位だ」

「朽葉真琴に似てきた」

「侮辱か」

「二人へ失礼」

 古橋が鼻から息を出す。

「会話の形まで似るな」

 翼は机の上の運行札を動かした。

 十、十一、十二。

 三枚を本列車から少し離す。

 その手は、分離案を理解している。

「翼」

 凱。

「名で呼ぶと、話が重くなるね」

「なぜ止めない」

「止める案が危険だから」

「それだけではない」

「知った顔をしないで」

「俺も、迷う時間を嫌った」

「過去形?」

「今も嫌う」

「なら話が早い」

「嫌うことと、奪うことは違う」

「迷って死んだ人の前で言える?」

 翼の語尾は上がらない。

 嘘ではない。

 古橋が目を閉じない。

 知っている話だ。

「言えない」

 凱は答えた。

「だから、今聞く」

 翼の右手が義足の膝継手へ触れる。

「十三歳の時、郵便列車が転覆した」

 声から軽さが消える。

「前の橋が落ちて、救助車を出すか、郵袋を先に保全するか、車庫と運行部が揉めた。誰が線路封鎖を解除するか、誰が事故車へ入るか、誰が責任を取るか。六分」

 彼女は壁の時計を見る。

「六分って、短いでしょう」

 凱は答えない。

「列車の中では長い。火が回る。鉄板が曲がる。助けを呼んだ人の声が小さくなる。六分後、決裁が出た」

 義足のボルトを一度。

「私は脚を置いてきた。隣にいた配達員は、全部置いてきた」

 古橋が鉛筆を止める。

「翼」

「事実です」

「運行判断へ個人事故を使うなら、記録範囲を」

「顔なし、声あり。七瀬さんがいないから、運行簿だけ」

「受領」

 古橋は時刻を書く。

 凱は翼の左脚を見ない。

 義足を見ることと、事故を見ることは違う。

「俺は、医療団地の停電で決定が遅れた」

 凱が言う。

「妹の治療が止まった。誰が予備電源を使うか、病棟が揉めた。だから俺も、迷いを消せば人が助かると思った」

「助かった?」

「助かった人はいる」

「なら」

「俺の命令で、迷う権利を失った人もいる」

「迷う権利で人は生きない」

「間違えた時、戻るために要る」

「列車は戻れない」

「車両は分けられる」

「六分三十秒の保守側線へ? 笑えない」

「六・三は区間番号だ」

 翼の顔が止まる。

「何」

「早瀬が訂正した。保守停止六分三十秒ではない」

「切符を」

「タマキが持っている」

「私の券」

「落とした」

「返却先が分かる」

「今はタマキが持つ」

「拾得物」

「経路の証拠」

「あとで返して」

「本人に言え」

「返事はいらない、と言ったら?」

「待つだろ」

 翼が義足のボルトへ触れたまま止まる。

「誰から聞いた」

「見れば分かる」

「人の癖を配達しないで」

「宛先はおまえだ」

「受取拒否」

「保留でいい」

 翼は目を細める。

「君たち、保留を便利に使いすぎ」

「使えるから残す」

「保留中にも列車は進む」

「進ませる車両がある」

 凱は机の三枚を見る。

「前九両は北環へ行く。波佐間啓吾は、止めるなと俺へ圧力を掛けた」

「圧力?」

「本人がそう言った」

「変な証言者」

「使える」

「三両を切れば、本列車の到着は」

 古橋が計算する。

「分岐減速と再加速で、最短四分四十秒遅延。後続貨物退避で、さらに三分。最大七分四十秒」

 翼の右大腿が硬くなる。

「七分」

「死者が出ると決まっていない」

 凱。

「出ないと決まっていない」

「通常運行でも同じだ」

「だから速く着く」

「速さは危険を減らす。意思を代わりに決める理由にはならない」

「目的地へ着けば、あとで抗議できる」

「着いた事実が、同意した証拠にされる」

「記録がある」

「記録へ届かない人もいる」

「なら、七瀬さんが撮る」

「彼女も全部は撮れない」

「だから何。全部できないなら、最短を選ぶ」

「全部できないから、誰が失うかを隠すな」

 翼の声が少し低くなる。

「王は良いね。失わせた人の名前を知ってるふりができる」

「知らない」

「十二人を置いた」

「知っている」

「名前を」

「全員」

「それで戻る?」

「戻らない」

「なら速さと同じ。記録しても人は戻らない」

「戻らないから、次の人の選択を奪っていいとはならない」

「次の人が死んだら」

「俺も責任を負う」

「どうやって」

「名を出す。判断へ署名する。処分を受ける」

「死者の代わりにはならない」

「ならない」

 凱は否定し続ける。

 英雄の答えを出さない。

 翼は苛立つ。

「何のために責任を負うの」

「次に同じ一人へ集めないためだ」

「分ければ薄まる」

「隠せば消える」

「消えた方が動ける」

「動ける人間だけが」

 古橋が時計を見る。

「分岐まで一時間二十四分」

 翼は運行札を本列車へ戻した。

「速度を四十八へ。十九番は通過」

 古橋が顔を上げる。

「区間上限四十八。曲線前に四十二へ戻す」

「承認を」

「乗客移動中だ」

「移動を止める」

「急加速は転倒危険」

「二段で上げる」

 古橋は計器を見る。

「運転士へ、四十五まで。車内警告後。四十八は拒否」

「部長権限?」

「運行判断」

「迷った?」

「三秒」

「長い」

「必要だった」

 翼は放送釦を押す。

『全車両へ。速度変更。三十秒後、第一加速。立っている方は手摺を』

 凱が言う。

「十九番を過ぎれば、次の選択は」

「北環」

「一つになる」

「目的地は最初から一つ」

「だから今、分ける」

「拒否」

 翼は放送器の鍵を抜き、腰へ付ける。

 凱の前を通ろうとした。

 接触禁止。

 凱は退く。

 左膝が机の角へ当たる。

 痛み、五。

 翼の機械義足が床溝から外れる。

 かち、と乾いた音。

 義足の軸が、わずかに横へずれた。

 凱は見る。

 翼は一歩で修正する。

「今の音は」

「床」

「義足だ」

「運行判断へ関係ない」

「速度を上げれば負荷が」

「列車の速度と、私の歩行は別」

「揺れは増える」

「心配?」

「故障報告を求める」

「命令?」

「安全確認だ」

「拒否」

「古橋」

 古橋は翼の歩幅を見る。

「折部翼。義足軸の点検」

「運行責任者が席を外す方が危険」

「代行は私」

「三分かかる」

「二分」

「十九番まで一時間二十分」

「間に合う」

「その二分で、乗客移動が進む」

 翼は笑った。