第555話 第十二章「潮が戻らなくても」前編
約束の最初の夜は、約束より長い。
五月三十一日、午後八時五十二分。
病院船は、第二水門を通過した。
満水ではない。
必要量を受け取り、非医療洗浄分を共同洗浄所へ移し、船底が泥へ触れない喫水を確保しただけだ。
船首が下流水路へ入る。
患者は拍手しない。
看護師も手を振らない。
係留員が索を取り、推進器の泥噛みを確認し、受入側が水量札を照合する。
通過は、祝賀ではなく仕事だった。
「三センチ余る」
病院員が言う。
「発効前は四センチ」
イオが答える。
「減った」
「水位が七ミリ下がった。積み替えで船尾荷重も変わった」
「危険?」
「今は通れる。今夜の帰りも別に測る」
「通れたんだから、帰りも」
「今は今」
イオは普通の工具で量水器を叩く。
音を聞く。
右腕は、能力を失う前と同じ腕ではない。
同じではないが、使えない腕でもない。
「計器、またずれた?」
迅が聞く。
「〇・二」
「そのくらい」
「そのくらいで船底を擦る」
「水って細かい」
「人が大きく見てただけ」
迅は水面を見る。
七歩を取らない。
水門の上で戦う必要は、今夜はない。
代わりに、医療船から降ろされた空容器を、共同洗浄所へ運ぶ。
右手の環指と小指に痺れがあるため、持ち手を左へ寄せる。
「重い」
タマキが言う。
「空だぞ」
「水が少し残ってる」
「捨てる?」
「洗浄用へ」
「汚れてない?」
「区分札を見る」
空容器には三色の札がある。
再使用可。
限定洗浄。
廃棄。
全部を《空》と呼ばない。
中身がなくても、次の用途は違う。
小麦の共同厨房では、夜食の鍋が二つだけ火に掛かっていた。
以前なら四つ。
水を減らすため、一つは蒸し料理へ変え、もう一つは前夜の煮汁を安全確認して再利用する。
「味が薄い」
凱が言う。
「水が少ないから濃くなるはずでは」
「塩を減らした。喉が渇くから」
「なるほど」
「分かった顔」
「分かった」
「本当に?」
「味が薄い理由は」
「そこだけ」
「十分だ」
「人は、分かったところだけで満足するから困る」
小麦は、凱の椀へ焼いた根菜を一切れ足す。
「これは」
「噛む時間」
「補償?」
「満腹を水量だけで作らない」
「勉強になる」
「料金を払って」
「いくら」
「皿洗い」
「水を使う」
「乾拭きしてから限定洗浄」
「仕事が増えた」
「王じゃないなら働ける」
「王でも働けた」
「働いた?」
「……今、払う」
凱は左膝を深く曲げず、高い洗浄台へ立つ。
皿を乾拭きする。
迅が隣へ来る。
「洗い方、同じ?」
「皿の汚れが違う」
「また別々」
「油、粥、薬食。水へ入れる前に分ける」
「この街、全部違うな」
「天環も違った」
「同じだと思ってた」
「便利だったから」
厨房の外では、下流漏水修理班が夜勤へ出る。
百二十人全員ではない。
夜間可とした三十八人。
そのうち一人は、家族の発熱で途中退勤。
二人は手首痛で作業変更。
一人は、上流技術者の指示方法へ異議を出して現場を離れた。
作業開始、三箇所。
仮止水確認、五箇所。
未着手、十一箇所。
漏水は、減り始めた。
なくなっていない。
上流工場では、四十五パーセント削減の最初の停止が始まった。
停止工程の製品廃棄見込みは、予定より二割多い。
再起動水の予定量は、当初計算より三十少なく修正された。
短期作業員二十三人への仮払申請が受理された。
支払額と残額は、翌営業時刻の確認待ち。
商船は隔日運航の翌日札を切り替え、奇数船だけを運航予定へ置く。
偶数船の船員は、待機賃金と食費の受領予定が付いた者と、未確認の者に分かれる。
協定は発効した。
実務は、発効時刻にそろわない。
朝は、四つの報告を同じ表へまとめなかった。
上流記録箱。
下流記録箱。
商船記録箱。
病院記録箱。
中央には、相互参照目録だけを置く。
「国家標準へ持ち帰らない?」
紬が尋ねる。
「持ち帰るのは、地域が別々の文を使った事実と、私が統一しなかった判断」
「文面は」
「写しを国家規格へ変換しない。地域記録として預ける」
「中央が読めないと言ったら」
「読みに来る」
「来ないかも」
「その時は、読まなかった記録が残る」
「弱い」
「そう」
朝は、上流の異議箱を持とうとした。
紬が先に止める。
「重い」
「紙」
「三百枚」
「杖がある」
「杖は荷車じゃない」
「分かってる」
「分かってない人の言い方」
朝は箱を持たない。
折部へ運搬を依頼する。
「料金」
「異議三百枚、保留七十二、返送十九。箱四つ」
「高い?」
「重さより、届け先が多い」
「中央一箇所へ」
「中央は目録だけ。原本は四地域。写しは地域内二箇所ずつ」
「八箇所」
「返送先も」
「十一」
「高い」
「必要?」
「必要」
「受領」
折部は運搬票を切る。
原本を一箇所へ集めない。
運ぶ量は増える。
権力が一箱へ集まらない代わりに、配達の仕事が増える。
分散は、無料ではない。
協定発効から十八分後、最初の違反疑いが出た。
上流工業の取水計が、目標削減を一・六パーセント下回っている。
下流の掲示所には、《早くも破った》と書かれた。
上流側は、計器誤差だと反論する。
紬は能力を使わない。
朝も一律停止を提案しない。
イオ、上流設備係、下流量水係の三人が、計器を現場で確認する。
原因は、停止工程から回収水槽へ戻る管の逆止弁だった。
取水計は新しく取った量だけでなく、一度戻った水が逆流した分も再び数えている。
実使用は、目標内。
「違反じゃなかった」
上流代表が言う。
「計器不良はあった」
イオが答える。
「下流が騒いだ責任は」
「公開値を見て異議を出した。正しい手順」
「謝罪は」
下流量水係が頭を下げる。
「《破った》と断定した掲示は訂正する。異常値を通報したことは撤回しない」
「都合がいい」
「両方、私の行為」
訂正札は、元の掲示の上へ貼らない。
隣へ置く。
最初の断定と、後の確認が、同時に読める。
計器の逆止弁は上流の設備だが、修理部品は下流工場の規格だった。
商船の偶数便は翌日の休航札へ切り替わっており、通常手順なら次の運航枠まで届かない。
隔日運航の例外を使うかが問われる。
「緊急便」
上流代表が言う。
「人命じゃない」
商船代表が返す。
「計器が直らなければ、協定が壊れる」
「荷を何と交換する」
「交換じゃない」
価が言う。
「運航日交換枠を一回使う。外された便の荷と損失を記録」
「月二回の一回目」
「そう」
「こんな小さな部品で」
「小さいから、船一隻を出す?」
折部が義足の収納部を開ける。
「私が運べる」
「水路は」
「小型渡し舟。通常便。能力は使わない」
「時間」
「四十分」
「緊急船なら二十分」
「二十分のために、運航交換一回を使うか」
上流代表は考える。
「通常便で」
「計器は、その間」
「手動記録。誤差を広く取る」
「不利な値が出る」
「受ける」
部品は四十分後に届いた。
その間、上流工業の取水量は誤差幅を広げて記録され、上限に近い工程は余分に止める。
緊急枠を使わなかったことで、上流は二十分分の生産を失った。
運航交換枠は残った。
どちらが正しかったか、総合点は付けない。
午後九時四十五分、下流共同厨房で水の盗難が疑われた。
予定より三十六多く減っている。
厨房責任者が、近くの家船へ疑いを向ける。
小麦は、家船を調べる前に鍋を数えた。
前夜、病院から戻った限定洗浄容器が、通常洗浄へ混ざっている。
汚染区分が違うため、二度洗いが必要になり、三十六を使っていた。
「盗難じゃない」
「病院のせい?」
「容器札を見落とした厨房のせい」
「小麦の責任」
「私の設計。現場交代表では、札を読む人が休みだった」
「誰が洗った」
「名前は、罰に必要?」
「再発防止」
「作業位置と時間は出す。本人名は厨房内監査。外へは出さない」
「隠蔽」
「家船を盗人扱いした方を、先に訂正する」
共同厨房の掲示へ書く。
《三十六の不足は盗難ではなく、限定洗浄容器の二度洗い。原因:区分札確認の交代漏れ》
その下へ、最初の疑いも残す。
《近隣家船を疑った。根拠なし》
家船の持ち主は、謝罪を受け取らなかった。
「水券を一枚よこせ」
「補償?」
「調べられる間、仕事を休んだ」
「時間の損」
「そう」
小麦は水券を自分の賃金から出そうとする。
価が止める。
「個人負担にすると、次の責任者が隠す」
「共同厨房の会計から」
「利用者の食費が上がる」
「事故補償欄を作る」
「また紙」
「水より安い」
「もう嫌い、その言い方」
家船の持ち主へ、休業時間分の補償が払われる。
謝罪を受け取らなくても、補償は受け取れる。
受け取ったことで、許したことにはならない。
上流では、工場停止中の余熱を使い、下流用の分岐弁が二つ作られた。
下流では、仮帯三箇所のうち一箇所が本修理へ移る。
上流技術者は図面を持ち帰る。
下流修理班は作業記録を保管する。
変換具は共同使用。
所有者を一つにしない。
「共同所有ではだめ?」
紬が聞く。
轟が首を振る。
「共同所有は、壊れた時に全員が他人を待つことがある」
「別所有なら」
「上流は設計責任。下流は使用・保守責任。変換具の材料費は半分。責任を分ける」
「また非対称」
「仕事が違う」
「分かった」
「珍しい」
「失礼」
「受領」
午後十時十五分、紬は自分の家船へ戻った。
能力不使用審査の用紙が、入口へ三十七通届いている。
支持八。
反対十九。
保留七。
審査拒否三。
反対が最多だ。
母は、まだ自分の用紙を書いていない。
「怖い?」
紬が尋ねる。
「何が」
「私が交渉人を外れる」
「水券の別窓口はできた」
「じゃあ、平気」
「家族の仕事が一つ減っただけ」
「私の価値も」
「減った?」
「分からない」
「それを、私に聞くの」
「家族だから」
「交渉人じゃなくても?」
「その質問、ずるい」
「受領」
「嫌い」
母は、紬へ水を一杯渡した。
今夜の家族配分からではない。
紬自身の二十二リットル下限から取った一杯だ。
「飲んで」
「母さんの分は」
「これは、あなたの」
「同じ家族水じゃない」
「個人受領を選んだ」
母は、協定の新しい窓口を使っていた。
紬は一口ずつ飲む。
日記へ杯を一つ描く。
能力を使わなくても、水は自動で届かない。
別窓口を作り、配る人が運び、母が受け取り、紬へ渡す。
その一杯には、何人もの普通の仕事が入っていた。
午後十時三十五分、紬は審査用紙へ追加した。
《能力不使用によって増えた仕事の一部を、家族と地域が実際に担った。私一人の決断として美化しない》
朝はその一文を見て言った。
「責任を薄める?」
「違う。私の判断責任は残す。実行した人の仕事も消さない」
「難しい」
「同じ欄に書くから」
「分ければ」
「紙が増える」
「受領」
「それ、私の」
発効後二時間の暫定集計でも、水位は劇的に変わらなかった。
上流は、測定誤差を含め一ミリ低下。
下流有効水深は、仮止水の影響で一ミリ上昇。
病院必要量は確保。
家庭下限未達は十三世帯から五世帯へ減った。
工業賃金未払いは、上流六人、下流四人。
商船待機食費未払い、二人。
修理着手、四箇所。
未着手、十箇所。
成功と呼ぶには、未達が多い。
失敗と呼ぶには、止まらなかった生活がある。
朝は、どちらの欄にも丸を付けなかった。
午後十時四十五分、巴と紬は、互いの用紙を交換した。
巴の用紙には、空欄、異議欄、相互参照番号、読み手交代欄がある。
紬の用紙には、結び目図、持分、取水高、潮時、ほどく日、再測定時刻がある。
「完成版?」
紬が尋ねる。
「違う」
「私のも」
「知ってる」
「どこが足りない」
「家族が交渉人へ依存する欄」
「書いた」
「水券更新の別窓口だけ。燃料券、係留権、薬水はまだ」
「多い」
「家族だから」
「家族を、手続きへ分けるの」
「分けないと、紬が全部になる」
「嫌?」
「紬が倒れた時、家族が困る」
「私がいなくても回る方が、もっと困るかも」
「価値が減る?」
「うん」
「記録する?」
「した」
「早い」
「最近、欲望を先に書く」
「成長」
「美化しないで」
紬は巴の用紙を見る。
「巴の足りないところ」
「何」
「紙を読めない人が、誰へ頼むか」
「案内係」
「陸上の案内係。船上では、家船へ入れる人が違う。女性だけ、同じ係留家族だけ、足場を渡れる人だけ」
「書く」
「完成版?」
「違う」
二人は、互いの用紙へ直接書き込まない。
指摘だけを別札へ置く。
所有者が採るか決める。
交換したからといって、一つに混ぜない。
午後十一時、紬の能力不使用審査の受付が始まった。
支持、反対、保留、審査拒否。
四つの札。
能力を使わなかったことへの賞賛だけを受け付けない。
使いたかった欲望。
家族利益。
父の記録。
上流負担。
下流不足。
すべてが審査対象だ。
母は、審査用紙を受け取った。
その場では書かない。
「保留?」
紬が聞く。
「家で書く」
「受領」
「それ、嫌い」
「知ってる」
「やめない?」
「交渉人を外れたら考える」
「今、辞めて」
「辞めない」
「最低」
「それも書いて」
「書く」
母は用紙を折らず、防水筒へ入れる。
午後十一時五分、上流の貯水塔から、技術者六人が下流へ向かった。
歓迎式はない。
下流修理班百二十人相当のうち、夜班三十八人が待つ。
最初の共同作業は、故障した弁の交換ではなく、工具規格の確認だった。
上流は角頭。
下流は丸頭。
同じ径でも、締め具が違う。
「統一する?」
轟が尋ねる。
「どっちへ」
上流技術者が返す。
「変換具を作る」
「また部品が増える」
「工具を全部買い替えるより」
「貸し借りは」
「返却記録」
「面倒」
「水より安い」
「最近そればかりだ」
変換具の図面は、双方が保管する。
所有権は共同ではない。
上流は設計権。
下流は使用権。
改造時は双方へ通知。
三十日後に自動失効しない。工具は水量協定とは別だからだ。
「全部を同じ期限にしない」
紬が言う。
「工具は渇水が終わっても使う」
轟が答える。
「私の能力なら、双方へ同じ工具しか使うなと」
「使うな」
「言う前に止められた」
「役に立った」
「嬉しくない」
「受領」
「それ、私の」
「借りた」
「料金」
「変換具一つ」
「高い」
午後十一時十五分、商船の偶数船員へ待機賃金の仮払札が配られた。
全員ではない。
組合記録に名前のない短期船員八人が外れている。
返送札を出した者が、その中にいる可能性がある。
折部は身元を明かさない。
「八人へ払う」
商船代表が言う。
「誰か分からない」
「短期船員全員へ」
「十二人」
「四人多い」
「損?」
「組合の金」
「払える?」
「一週間なら」
「三十日は」
「無理」
「協定の補償基金」
「そこから出せば、匿名返送者を探さず払える」
「他の船員が不公平と言う」
「短期船員は保証がなかった」
「同じ仕事なら、同じ賃金」
「待機契約が違う」
また別の不公平が出る。
協定は、それを即座に解かない。
七日分を短期船員へ支給する仮決定。
八日目以降は、勤務日、契約、家族数を公開せず再審。
不満が残る。
不満を消さず、期限を置く。
午後十一時二十分、四つの地域で、最初の運用報告が出た。
上流工業削減、四四・二パーセント。
目標四十五へ〇・八不足。
下流工業削減、二一・三パーセント。
目標二十を一・三超過。
病院必要量、百パーセント受領。
商船、隔日運航実施。
家庭下限未達、上流二世帯、下流十一世帯。
未達世帯へ臨時供給。
水位は、正式発効時から誤差幅内でわずかに下がった。
協定は数字どおり動いていない。
だが、数字から外れた場所が、見えるようになった。
朝は、国家報告用の表を閉じた。
代わりに、四つの地域記録箱の目録を作る。
同じ欄へ転記しない。
どの箱に、何があるかだけを書く。
「持ち帰らないの」
凱が尋ねる。
「目録だけ」
「中央は、不満を言う」
「言う」
「統一資料を求める」
「断る」
「権限は」
「ない」
「では」
「断った記録を残す」
「弱い」
「そう」
「最近、皆それを言う」
「強い言葉で、強くなった気がした時代が長かった」
「今は」
「杖がないと歩けない」
「身体の話?」
「身体以外で、どこに立つ」
紬の言葉を、朝が借りた。
午後十一時三十分、各地域は《守れた量》だけでなく、《守るために失うもの》を掲示した。
上流。
節水量、工業停止量、賃金未払い、再起動水、故障部品。
下流。
漏水減少量、修理人数、夜間作業拒否、家庭下限未達、共同厨房不参加。
商船。
運航便数、待機便数、腐敗荷、代理輸送、待機賃金。
病院。
受領水量、患者処置数、非医療洗浄移転、緊急追加量、公開しなかった個人情報。
どの掲示にも《達成率》の一列はない。
「達成率がないと、良くなったか分からない」
住民が言う。
朝は答える。
「何を良いとするかが違う」
「では、毎日全部読む?」
「読む人も、読まない人もいる」
「役に立たない」
「必要な欄だけ選べる索引を作る」
「結局、まとめる」
「まとめるのは場所。結論はまとめない」
朝は、生活者向けの短い索引を作る。
《今日、家庭下限を下回った地域》
《病院必要量の増減》
《運航する船》
《工業停止で賃金に影響する人数》
《修理で通れない板道》
詳細は、それぞれの地域箱へ戻る。
索引が本文の代わりにならないと、最初の行へ書く。
七瀬は掲示板を撮る前に、誰が読んでいるかを撮らない。
貧困、病気、職種が推測されるからだ。
紙だけを撮る。
読まれたか分からない記録になる。
「効果を証明できない」
朝が言う。
「効果のために、読む人を晒さない」
「政策評価が難しい」
「難しくする」
「意地悪」
「受領」
午後十一時三十五分、上流工場の短期作業員六人の賃金は支払額未確定のままだった。
下流修理班四人も、夜間加算の受領条件が未確認だった。
商船の待機食費二人分も仮払札から漏れていた。