第554話 第十一章「再交渉日」後編
だから、発効前の橋を作る。
午後八時。
病院必要量だけを対象にした緊急仮運用が始まる。
文書の効力そのものではない。
病院代表、上流備蓄担当、下流受入係の三者が、四十分分の水量と返還方法へ署名する。
「発効前に、協定と同じことをするの?」
「同じじゃない」
巴が言う。
「四十分分。一回だけ。自動延長なし。病院文が発効しなければ返還協議だけ残る」
「言葉だけ先」
病院代表が言う。
「言葉がないと、誰が弁を変えるか決まらない」
上流の緊急調整槽から、水が送られる。
家庭備蓄ではない。
工業停止後に戻す予定だが、戻せなければ《未返還》として残す。水へ利息は付けず、時間損失と作業賃金を別欄へ記録する。
午後八時二十分。
下流修理班は、発効準備として夜班配置を始める。
一人が来ない。
家族の発熱だ。
人数未達だけで違反にしない条項は、発効前から試される。記録・運搬担当が作業位置を変え、来られない本人の名は公開しない。
午後八時三十分。
偶数番号船が、翌日の隔日運航へ向けて灯を消す。
一隻だけ消さない。
「保留者?」
折部が確認する。
「病院部品を積んでいる」
「優先便変更の通知は」
「届いてない」
通知は一度返送されている。船主不在だった。
届かなかった責任を船員の違反へ変えず、その場で優先便へ再登録する。
午後八時四十分。
四つの文書が、別々の船で正式に効力を持った。
同じ鐘は鳴らない。
同じ旗も上がらない。
病院船の弁が必要量の目盛へ固定される。
下流修理班が本作業へ移る。
商船の翌日札が半分だけ裏返る。
上流工場では停止灯が三つ点き、一つが点かない。
制御盤の故障だ。
人が手動弁へ走る。
停止開始は午後八時四十七分。
七分遅れ。
協定そのものを無効にせず、実施遅延、理由、七分間の使用水量を記録する。
紬は中央船で、成功を宣言しなかった。
四つの場所から届く札を並べる。
病院、正式受領。
下流、正式受領。
商船、優先便訂正付き受領。
上流、実施七分遅延付き受領。
「全部そろった」
凱が言う。
「同じにはそろってない」
「四枚ある」
「四枚とも、始まり方が違う」
「何と言えばいい」
「始まった」
「成功?」
「始まった」
中央船で拍手は起きなかった。
拍手する手は、弁、索、記録、患者、機械へ使われていた。
午後八時四十八分。
水位は、正式発効前とほとんど同じだった。
約束が成立しても、水は増えなかった。
四十分の仮運用も、七分の遅れも消えない。
それでも、六月三十日午後八時四十分にこの約束が効力を失うことだけは、最初から紙へ書かれていた。