第553話 第十一章「再交渉日」前編
期限は、約束を弱くする。
弱くなった約束だけが、ほどけることを最初から認められる。
五月三十一日、午前六時。
水位測定は、三つの場所で同時に始まった。
上流貯水塔。
第二水門。
下流病院船の係留杭。
現地表示。
換算値。
誤差幅。
三つを分ける。
イオが上流計器を読む。
下流修理班が係留杭を読む。
商船帳場が水門通過高を読む。
七瀬は、三つの映像を一画面へまとめない。
時刻だけをそろえる。
午前六時〇分〇秒。
上流の水位は、前日比一・一センチ低下。
下流の有効水深は、漏水修理によって前日比〇・三センチ上昇。
病院船の喫水余裕は、必要最低より四センチ多い。
商船の通過可能荷重は、満載時の七二パーセント。
水は増えていない。
使える水の場所が、少し変わった。
午前七時、四つの文書が中央船へ運ばれた。
上流文。
下流文。
商船文。
病院文。
箱は別々。
鍵も別々。
相互参照番号だけが同じだ。
折部は運搬記録へ、受領、保留、返送を別々に書く。
「病院文、受領」
「上流文、保留」
「下流文、受領」
「商船文、返送一件を添付して受領」
「上流だけ保留?」
紬が尋ねる。
「代表団は来てる。箱の受領を保留して、持参人が自分で持ってる」
「細かい」
「受け取ってないものを、席へ置いたから受け取ったことにしない」
「料金は」
「同じ」
「そこは変えない」
「拒否の方が仕事が多い」
上流代表は、自分の箱を膝へ置いたまま座る。
「四十五パーセントは、まだ高い」
開口一番だった。
「下流二十との差が大きすぎる」
「変える案は」
紬が尋ねる。
「上流四十、下流二十五」
「病院必要量は」
「百パーセント」
「家庭下限」
「二十二」
「不足する量は」
イオが計算表を見る。
「一日百三十。漏水修理が予定どおりなら九十。商船隔日で三十まで下がる。ただし雨量ゼロ、患者増加なしの条件」
「三十なら、備蓄で」
「上流家庭備蓄を使う?」
「共同備蓄から」
「誰の」
「上流の」
「それは、上流工業削減を五ポイント下げた分を、上流家庭備蓄で埋める案」
「上流全体の選択だ」
「家庭へ確認した?」
「代表権がある」
凱が尋ねる。
「期限付きの代表権か」
「今月末まで」
「今日で切れる」
「だから今決める」
「家庭備蓄を工業へ回す判断も含む?」
「緊急時の配水」
「文言を」
上流代表が規約を開く。
緊急時、代表は生活維持のため共同備蓄を配分できる。
工業維持とは書いていない。
「工業を止めれば生活が壊れる」
「そう」
凱は否定しない。
「だが、生活維持という言葉で、家庭備蓄を工業へ回すことを、今ここで決めるなら、その解釈を自分の名で書く必要がある」
「元王は、代表の苦労を知らない」
「知っている。だから、名を隠すと後で苦労が他人へ行く」
「説教か」
「質問」
「答えは同じだ」
上流代表は、四十・二十五案の横へ自分の名前を書く。
さらに、家庭共同備蓄を一日三十まで工業維持へ回す提案と書く。
上流側の傍聴席がざわめく。
「聞いてない!」
「家庭の水を工場へ?」
「賃金がなければ水券も買えない!」
「でも、うちの備蓄を勝手に!」
代表は振り返る。
今まで、代表の案として聞かれていた数字へ、自分の名前が付いた。
数字の後ろに、人が見えた。
「採決する」
「今?」
朝が尋ねる。
「上流内で決める」
「選択肢は」
「四十五を受ける。四十と家庭備蓄三十を受ける。どちらも拒否」
「保留は」
「時間がない」
「保留を消した理由も書く?」
「またそれか」
「今の私は、採決を止める権限はない。だから質問だけ」
上流代表は、保留を追加しなかった。
採決が始まる。
工業組合、家庭水券会、貯水設備会、短期作業員会、地域厨房。
票の重みは同じではない。
規約上、保有水量と人口で持分が違う。
紬は能力を使わない。
朝も過半歩を使わない。
凱は王路を持たない。
上流の人々が、自分たちの不均等な持分で決める。
結果。
四十五パーセント案、持分四八・二。
四十パーセント+家庭備蓄案、持分四一・六。
拒否、持分一〇・二。
四十五が最多になった。
過半ではない。
「成立しない」
上流代表が言う。
「規約では、三択の最多案を暫定採用できる」
紬が確認する。
「反対が過半でも?」
「三十日以内の緊急配水に限る」
「反対と拒否を合わせると五一・八」
「案が別だ」
「そう」
紬は数字を一つへまとめない。
「四十五案が最多。四十案と拒否を同じ反対へ合算しない。だが、四十五案への支持が過半ではないことも書く」
「弱い決定だ」
「そう」
「また認める」
「三十日だけ」
「三十日でも、工員は賃金を失う」
「だから保証を本文へ入れた」
「七割では足りない」
「足りないことも書いた」
上流代表は、自分の箱を中央卓へ置いた。
「受領する」
折部が記録する。
箱を受け取った。
内容へ賛成したとは書かない。
午前十時、下流代表の署名確認。
家庭下限二十二。
工業二十削減。
漏水修理百二十人。
材料費六割。
病院必要量。
共同厨房と個別受領の両立。
下流側からは、二十二が低すぎるという異議が百七十三件。
修理班の夜間作業へ拒否が十九件。
共同厨房への参加拒否が四十二世帯。
下流代表は、その異議を撤回させない。
「署名する」
「異議が残る」
紬が言う。
「残す」
「十分な水を得ていない」
「知ってる」
「成功と言う?」
「言わない」
「何と言う」
「今夜、病院を止めず、家庭下限を守るための不足した合意」
「長い」
「短くすると美談になる」
署名する。
午後零時、商船文。
隔日運航。
月二回の運航日交換。
医療部品優先。
待機賃金七割。
食費込み。
空荷便の修理部品輸送。
過積載禁止。
返送一件の差出人は秘匿されたまま、要求内容だけ反映されている。
「返送した人が、修正後を受け取ったか」
巴が尋ねる。
折部が三色札を見る。
「保留」
「受領じゃない」
「届いた。まだ決めない」
「組合代表は署名する?」
「する」
「内部保留がある」
「ある」
「強制する?」
「隔日運航へ反対する船員は、運航日に乗らない選択ができる。ただし賃金保証の対象は別審査」
「罰にならない?」
「なる可能性がある」
「では」
「完全には解けない。保留者の名を公開せず、勤務割当の不利益を監査する」
「弱い」
「そう」
商船代表が署名する。
午後二時、病院文。
必要量百パーセント。
患者情報非公開。
二者医療確認、一者水量確認。
非医療洗浄の移転。
船員診療枠。
病院側からは、必要量の外部確認が医療判断へ介入するという異議。
商船側からは、必要量増加で運航枠を削られるという異議。
病院代表は異議を読み上げた。
「病院は、必要量を自分だけで決める権利を失う」
「水量だけ」
朝が訂正する。
「処置の必要性は医療者が決める。使用水量の計算を外部確認する」
「確認者が不足と言えば」
「医療者二人の判断を自動停止しない。異議を付けて臨時協議」
「水が足りなければ」
「他用途を再調整」
「病院が最優先?」
「必要量百パーセント」
「同じだ」
巴が首を振る。
「優先順位の一番ではない。必要量を削減率の対象外にする。必要量を確保するため、他のどこを変えるかは別に決める」
「言葉が難しい」
「平文へ直す」
巴は書く。
《病院の必要な水は、他と同じ割合では減らさない。ただし、病院が必要だと言った量を何でも受け取れるわけではない。患者の名前を出さず、処置と機械に必要な量を確認する。足りない時は、病院だけでなく四者が別の使用を見直す》
「長い」
「短くできる?」
「できない」
「なら、これで」
病院代表が署名する。
午後四時、四文書はそろった。
まだ発効しない。
開始時刻と、終わる時刻と、次に測る時刻が空欄だ。
紬は、水位柱を見る。
「三十日」
「正式発効を今夜二十時四十分」
朝が提案する。
「準備に四時間四十分」
「病院は待てない」
「二十時から緊急仮運用。正式発効とは分ける」
「終了は六月三十日二十時四十分」
「三十日」
「自動更新なし」
「次の測定」
「六月三十日午前六時」
「再協議開始」
「午前九時」
「終了まで十一時間」
「その間に、新しい案が決まらなければ」
「二十時四十分で失効」
「水がなくても」
「失効する」
「危険」
「だから、失効前に再協議する」
「再協議がまとまらなければ」
「各地域の緊急判断へ戻る。今の制限を自動継続しない」
「混乱する」
「する」
「期限を延ばす条項は」
「入れない」
「一日だけの延長も」
「新しい署名が必要」
紬は中央欄へ、最初の再交渉日〈リオープン・デイ〉を書いた。
《六月三十日 午前六時測定、午前九時再協議開始、午後八時四十分現協定失効》
その下へ書く。
《自動更新なし》
上流代表が見る。
「三十日後、また同じことをする」
「同じではない」
紬が答える。
「水位も、修理も、患者数も、賃金も変わる」
「また揉める」
「そう」
「交渉人は楽しいか」
「嫌い」
「嘘だ」
「結び目は好き」
「同じだ」
「ほどく日を書く結び目は、今までなかった」
紬は、四つの文書へ同じ印を押さない。
中央欄の相互参照だけを確認する。
四角。
波形。
二本線。
開いた円。
それぞれ別の印。
最後に、能力不使用記録へ署名する。
《使わなかった理由》
《既存水量、病床、漏水、貯蔵、代替輸送が異なり、同じ禁止が負担差を補正しないため》
次の欄。
《使いたかった理由》
紬は左手を止める。
母が傍聴席にいる。
祖父もいる。
支持を取り消した者も、残した者もいる。
「書かなくても」
母が言った。
「公開するの」
「私の欲望を?」
「家族のことまで」
「家族の名は書かない」
紬は書く。
《一度で争いを止め、交渉人としての価値を示し、家族の水券更新を守り、父の対称案を失敗だけにしないため、使いたかった》
母は顔を伏せる。
「父さんを」
「悪人にしてない」
「失敗と書いた」
「失敗した」
「守ろうとした」
「それも書いた」
「両方」
「両方」
紬は署名する。
能力を使わなかったことを、成長の証明へしない。
使わなかった判断が正しかったかは、三十日後にも分からないかもしれない。
上流工場で失業が増えれば、間違いと言われる。
下流病院で水が足りなければ、間違いと言われる。
商船の賃金が払われなければ、間違いと言われる。
雨が降って全部の制限が不要になれば、大げさだったと言われる。
雨が降らず、水が尽きれば、弱すぎたと言われる。
評価が変わる日も、再交渉に含まれる。
「審査を受ける」
紬が公に言う。
「能力不使用、水券更新への家族利益、父の記録公開、三十日案。全部」
「辞職?」
帳場係が尋ねる。
「しない」
「信任がなければ」
「その時は交渉人を外れる。でも、自分から辞めて審査を終わらせない」
「英雄の責任みたいに言うな」
「英雄は、審査の日程まで書く?」
「書く英雄もいる」
「面倒」
「自分で言うな」
審査日は六月七日。
家族の水券更新は、それまで暫定で別窓口へ移す。
紬が交渉人でなくても、家族の水が止まらないようにする。
それは、紬の夢の一部だった。
交渉しない日にも家族でいたい。
自分が休んでも、水券更新が止まらない仕組み。
母は、その別窓口用紙を受け取った。
「これで、あなたがいなくても」
「更新できる」
「嬉しい?」
「怖い」
「なぜ」
「私の価値が減る」
「正直」
「記録する?」
七瀬が尋ねる。
「する」
「公開」
「家族の名は伏せる。欲望は出す」
「受領」
開始時刻を決める前に、巴は《合意しなかった場合》の紙を中央へ置いた。
協定案ではない。
四者が署名しなかった時、今夜から何が起きるかを、予測と不確実性を分けて書く。
上流は現行取水を続ける。
下流病院は四十時間以内に洗浄能力が不足する可能性。
商船は占拠継続または独自開門の可能性。
下流漏水修理は、技術者不足で三箇所まで。
家庭下限は法的保証なし。
ただし、上流貯水は協定案より長く残る。
工業賃金損失は少ない。
商船の運航制限もない。
「合意しない方が得をする人もいる」
上流代表が言う。
「いる」
巴は否定しない。
「なら、署名を求めるのは脅しだ」
「署名しない場合を隠さないために置いた」
「病院が止まると書けば、誰でも署名する」
「しない人もいる」
「悪人扱いされる」
「なら、署名拒否の理由を同じ大きさで掲示する」
「病院より工場を選ぶ理由を?」
「工場が止まれば、賃金、食料、修理部品が失われる。そこまで書く」
「それでも見出しは《病院停止》になる」
七瀬が口を挟む。
「見出しを一つにしない」
「報道は勝手に付ける」
「私の記録では付けない」
「他が付けたら」
「訂正できるところまで。全部は止められない」
上流代表は、《合意しない場合》の紙へ自分で一行足した。
《上流工業を維持すれば、三十日後に下流へ渡せる修理部品が増える可能性》
イオが赤線を引く。
「可能性の根拠」
「現在の生産計画」
「水が足りれば」
「そう」
「条件を付ける」
《上流工業が現行使用を継続し、設備故障がなく、商船が運航できた場合》
紙は、署名しないことを愚かに見せる資料ではなくなった。
署名しない側が守ろうとしているものも、そこへ残る。
下流代表も書き足す。
《協定不成立でも、下流は病院へ地域備蓄を優先できる。ただし家庭下限を割る》
商船代表。
《独自運航で食料を運べる。ただし水門損傷と下流破裂の危険》
病院代表。
《別港へ患者移送できる。ただし移送中の医療危険と、受入先水量が未確認》
どの案にも、守れるものと失うものがある。
署名は、正解を選ぶ儀式ではない。
今の不確実性の中で、自分がどの損失を引き受けるかを、名前へ戻す作業だった。
午後五時、上流の拒否持分一〇・二に対し、発言時間が与えられた。
最多案に負けた少数としてではない。
拒否を選んだ理由を、協定本文と同じ記録群へ置くためだ。
最初の発言者は、上流工場の短期作業員だった。
「七割賃金でも、家賃が足りない。三十日後に仕事が戻る保証もない。下流の病院を止めたいわけではない。自分の子どもへ水券を買えなくなる案へ署名しない」
二人目は、貯水設備の老技師。
「四十五パーセント削減で設備の一部を止めると、再開時に故障する可能性がある。設備を守れなければ次の渇水でも同じになる」
三人目は、上流家庭の女性。
「貯めた水を出すことには賛成。代表が家庭備蓄を工業へ回す案には反対。四十五案そのものではなく、代表の解釈を拒否した」
拒否票は一つの理由ではなかった。
反対を合計すると、理由が消える。
朝は三人の発言を別々の欄へ記録する。
「全部、今後の交渉材料にする?」
紬が聞く。
「材料という言葉は嫌い」
「では」
「次に同じ人が説明をやり直さなくて済む記録」
「長い」
「正確」
「巴みたい」
「治療費を請求される」
下流でも、署名へ反対する者が発言した。
二十二リットルでは乳児のいる家庭に足りない。
共同厨房へ依存すると、食事時間と宗教上の調理が制約される。
漏水修理百二十人相当が、貧しい住区へ多く割り当てられている。
病院必要量の確認が、患者数の多い地域を常に優先する可能性。
商船では、隔日運航が小型船ほど不利になるという異議。
大型船は一日で多く運べる。
小型船は隔日にされると、運航日一回で生活費を稼げない。
協定案は商船を一つの集団として見すぎていた。
紬が顔をしかめる。
「父さんの時と同じ」
「同じ割合で、小型が先に失う」
巴が言う。
「隔日を変える?」
「今から全部は無理」
「では」
「小型船へ共同積載枠を置く。大型船の空きへ小型荷主の荷を有料で積む。運航権は小型船に残し、代理輸送として記録」
「大型船が得する」
「運賃を取る」
「小型船は余計払う」
「補償基金から一部負担」
「また金」
「金で埋まる部分」
価が言う。
商船文へ、追加条項が入る。
小型船の運航日を大型船と同じ一隻一日で数えない。
輸送能力と生活依存を別に見る。
完成したはずの文書は、署名直前にも変わった。
変更履歴は隠さない。
誰の異議で変わったかも、本人の公開範囲で残す。
午後六時十分、四つの文書は、署名者ではない確認者へ一度ずつ戻された。
上流文は、四十五パーセント案へ反対した短期工員へ。
下流文は、家庭下限二十二リットルでは足りないと異議を出した乳児世帯へ。
商船文は、隔日運航で生活費が不足する小型船員へ。
病院文は、二度洗い手順を削れないと述べた洗浄係へ。
「反対した人へ、署名させるの?」
凱が尋ねる。
「署名じゃない」
巴は、確認札を四種類に分けた。
《内容を聞いた》
《自分の異議が記録された》
《説明は受けたが、理解確認を保留する》
《説明方法を拒否する》
「理解した、はないの」
「本人がそう言えば書く。でも、こちらから選択肢には置かない」
「なぜ」
「分かったと言わせる札になるから」
上流工員は、《自分の異議が記録された》だけを選ぶ。
「内容は聞いた?」
「聞いた。でも、工場の再開条件は分からない」
「では、聞いたも付ける?」
「付けない。聞こえたことと、意味が分かったことが混ざる」
巴は二度尋ねない。
一枚だけを受け取る。
下流の乳児世帯は、説明方法を拒否した。
理由は、中央船へ乳児を連れて来るよう求められたからだ。
「本人確認に必要」
係が言う。
「親の異議を確認するのに、子どもの顔がいる?」
七瀬が尋ねる。
「世帯の実在を」
「水券と助産記録で限定照合できる」
「映像の方が早い」
「早い方法で、家族を証拠へしない」
確認は家船の入口で行われる。乳児の顔も氏名も撮影されない。保護者は、二十二リットルを受け取るが、十分量として認めないと記録する。
小型船員は、代理積載枠の説明を聞いたあと、手を挙げなかった。
「選ばない?」
「運賃表を見てない」
「今、出す」
「今初めて出た数字を、今決めろと言う?」
「では保留」
「明日の便は」
「優先枠へ仮登録。本人が朝までに拒否すれば外す」
「拒否したら荷主は困る」
「困る」
「俺が悪い?」
「拒否した事実と、荷主の損失を別に記録する」
船員は、《説明は受けたが、理解確認を保留する》を選んだ。
病院の洗浄係だけが、《内容を聞いた》と《異議が記録された》の二枚を取った。
「賛成ではない」
「分かってる」
「後で、確認者が賛成したと書かない?」
「確認者欄と賛否欄を離した」
「紙が離れても、記事は近づける」
七瀬が答える。
「私の記録では、同じ画面へ置かない」
「全部は止められない」
「止められないことも書く」
四人の確認は、協定への支持を増やさなかった。
署名数も増えない。
代わりに、文書が誰の異議を残したまま発効するかが見えた。
午後六時五十分、紬の呼吸が浅くなった。
船上乱闘で痛めた右胸ではない。幼少期の肺手術後に残る右肺の癒着が、長時間の発声と湿った冷気で引かれている。
「休む」
ミソラではなく、病院船の当直員が言う。
「あと一時間」
「一時間あるから、十五分休む」
「交渉人がいないと」
「上流文、下流文、商船文、病院文は紬の所有物じゃない」
朝が黒い杖で、空いている椅子を引く。
紬は酸素を拒否しかけ、家族の視線を見てやめた。
「能力を使わない代わりに、酸素を使うのは格好悪い?」
母が聞く。
「能力と酸素を同じ棚に置かないで」
「返事が長い」
「息がある」
紬は低流量酸素を受け、十五分間、誰の文書にも触れなかった。
その間に、巴が質問を受け、朝が時刻を確認し、折部が戻らない商船札を追い、価が補償基金の不足を計算した。
紬がいなくても、協定準備は止まらない。
十五分後、それを見た紬は、安心した顔をしなかった。
「私がいらない」
「十五分だけ」
朝が言う。
「明日は」
「明日の要否は、明日決める」
「便利な言葉」
「期限付き」
紬は酸素管を外し、自分で終了時刻を記録した。
休息後、紬は中央欄へ自分の確認印を押そうとした。
巴が紙を引く。
「何」
「その印は、何を確認する?」
「それぞれの文書が同じ参照番号を持つこと」
「それだけ?」
「交渉人として、案を妥当と判断したこと」
「二つを同じ印へ入れない」
紬は印面を見る。
青緑の波を左右対称に刻んだ、古い交渉印だ。押せば、四者の違う文が紬の一案として認められたように見える。
「私が作った」
「一人ではない」
「責任を逃げろと?」
「責任の範囲を書く」
紬は中央欄へ署名しない。
代わりに、《相互参照番号の一致を確認》《能力不使用の判断者》《再協議日程の提案者》という三つの欄へ、別々に名を書く。
協定内容の承認者は、上流、下流、商船、病院の各署名者だ。
「名前が三回」
凱が言う。
「一回より偉そう」
「一回で全部を持つより、狭い」
「名札が多いと、どれを殴ればいい」
「殴らないで」
「迅に言って」
「聞こえてる」
甲板の端から迅が返す。
「今日は殴ってない」
「それを功績にしない」
紬は古い交渉印を箱へ戻した。
使わなかった能力と同じように、押さなかった印にも、押したかった理由だけを記録した。
午後七時三十分。
発効まで三十分。
病院船の残量警報が鳴る。
上流工場では、停止工程の準備が終わっていない。
下流修理班は、夜班の交代一人が来ない。
商船の運航札は、まだ二隻分が戻らない。
正式発効を八時四十分にするにも、未完の仕事がある。
「四十分で全部終わる?」
紬が尋ねる。
「終わらせる、ではなく、開始条件をそろえる」
朝が答える。
「病院は」
「八時までしか待てない」
「下流修理班」
「八時二十分からでなければ夜班が欠ける」
「商船札」
「八時三十分までに戻る見込み」
「上流停止」
「制御確認は八時四十分」
同じ開始時刻を守るために、病院へ四十分待てとは言えない。