第552話 第十章「別々の上限」後編

 水位が下がっている今、便利な一文だ。

 巴は右手を中央欄へ置いた。

 硬直した人差し指が、紙へ触れる。

「止める」

 誓痕が、文字の縁へ黒い影を落とす。

 読めた者だけ〈リード・イン〉

 一度。

 《読めたとみなす》という入口だけが、紙から消える。

 上流文も下流文も商船文も病院文も、内容は止まらない。

 水量も削減率も決めない。

 相手文を読んだことにして入口を通る手続きだけを停止する。

 反証が、右人差し指から手首へ刺さった。

 巴は息を止める。

 左手で右手を押さえ、椅子へ座る。

「使った」

 紬が言う。

「一回」

「必要?」

「必要だった」

「誰が決めた」

「私」

「審査」

「受ける」

「真似しないで」

「紬の言葉じゃない」

「似てる」

「便利」

 巴は痛みが引くまで、筆記を交代した。

 中央欄の入口を書き直す。

《各当事者は、相手側文書の義務を自分の言葉で説明し、説明できなかった箇所を空欄または異議として残した後、自分側文書へ署名できる》

「全部理解しなくても署名できる」

 朝が確認する。

「分からない箇所を分からないと残す」

「後で、知らなかったと言える」

「言える。空欄を誰が作ったかも残る」

「協定が弱い」

「弱くていい」

 紬が、今度は反対しなかった。

 四つの文書を完成させる前に、巴は署名の練習をさせた。

 本物の署名ではない。

 自分の文書に書かれた義務を、一日だけ仮に実行した場合、誰へ何を報告するかを机上でたどる。

 上流工業が四十五パーセントを超えて水を使った。

「違反」

 紬が言う。

「誰が測った」

 巴が尋ねる。

「上流計器」

「誤差幅は」

「上下十八」

「超過は」

「十二」

「誤差内」

「では違反ではない」

「次の測定で二十五超過」

「理由は」

「設備冷却の緊急使用」

「報告時刻」

「使用後」

「使用前にできなかった?」

「故障だから」

「誰が故障と判断」

 上流設備係が手を上げる。

「私」

「その人が、使用量も測る?」

「人手がない」

「自己確認になる」

「外部確認者を毎回呼べない」

「では、事後に下流計器と照合。故障部品を保存」

「部品の所有は」

「上流」

「下流が見られる?」

「閲覧だけ」

 巴は、違反処理を《罰》一行にしない。

 測定。

 理由。

 事前・事後。

 確認者。

 部品。

 誤差。

 それらを分ける。

 次に、下流修理班が百二十人集まらなかった場合。

「百十人なら違反?」

「人数だけなら」

 由良が答える。

「技能構成は」

「配管技能が予定より多い」

「では、作業量は足りる?」

「足りるかもしれない」

「百二十という数字は」

「負担の目安」

「強制人数ではない?」

「強制にしたら、病人も数へ入れる」

 下流文を書き換える。

《修理班百二十人相当。技能、作業時間、介護・病気による参加不能を別記録し、人数未達だけで違反としない》

「相当が曖昧」

 紬が言う。

「曖昧だから、作業表を付ける」

「紙が増える」

「受領」

 商船の隔日運航で、緊急の腐敗荷が出た場合。

「運航日を交換する」

 商船代表が言う。

「月二回まで」

「三回目なら」

「荷を捨てる?」

「誰が補償」

「運航枠を譲る船」

「譲らない」

「では、共同冷却庫」

「水を使う」

「上流水槽の夜間余熱で吸収冷却」

 イオが案を出す。

「部品は」

「商船が運ぶ」

「また交換」

「同時に必要な仕事」

 価が訂正する。

「対価にしない。冷却庫の使用料は別」

 病院必要量が予測を超えた場合。

「家庭下限を削る?」

「削らない」

「上流工業をさらに止める?」

「自動では止めない」

「では」

「臨時協議」

「時間がない患者なら」

「病院備蓄を先に使う。同時に四者へ通知」

「備蓄がない」

「その時は、医療者二人と水量確認者一人が緊急取水を宣言。誰の用途を減らしたか、後で審理」

「先に決められない?」

「患者数も処置も分からない」

 練習するほど、例外が増える。

 紬は青緑布へ結び目を作りかけ、やめる。

「全部を能力で同じ停止にすれば」

「早い」

 巴が答える。

「まだ言う?」

「使いたい欲望を隠さない約束」

「しつこい」

「受領」

 署名練習の最後に、巴は全員へ尋ねた。

「相手が義務を破った時、自分の義務を自動で止めたい?」

 上流は手を上げた。

 商船も上げた。

 下流の一部も上げた。

 病院は上げない。

「病院は、水が来なくても診療を止められない」

「だから不公平」

 商船代表が言う。

「病院だけ、相手の違反時も義務を続ける」

「患者へ返すから」

「私たちも荷主へ返す」

「では、運航も自動停止しない?」

「危険なら止める」

「危険判断と報復停止を分ける」

 自動停止条項は削除された。

 相手が破ったから、自分も破ってよいとは書かない。

 ただし、危険、資材不足、本人拒否で停止する権利は、それぞれの文へ別に残す。

 同じ《停止》という言葉でも、報復と安全と拒否を一つにしなかった。

 午後四時、四つの文書が完成した。

 完成と言っても、署名欄は空いている。

 上流文。

 家庭下限二十二。

 病院必要量への供給。

 工業四十五パーセント削減。

 工程別停止。

 賃金七割保証。

 技術者二十四人派遣。

 材料費四割。

 段階放流。

 下流文。

 家庭下限二十二。

 工業二十パーセント削減。

 修理班百二十人。

 材料費六割。

 漏水量公開。

 共同厨房・共同洗浄の選択。

 病院必要量の非個人情報確認。

 商船文。

 隔日運航。

 荷種による月二回の運航日交換。

 医療部品優先時の損失記録。

 過積載禁止。

 待機賃金の七割保証。

 空荷便の修理部品輸送。

 病院文。

 必要量百パーセント。

 患者数・処置区分・機器量の限定公開。

 非医療洗浄の移転。

 船員診療枠。

 患者個人情報の非公開。

 増量時の二者医療確認と一者水量確認。

 中央欄。

 三十日。

 現地水位・換算値・誤差幅。

 公開項目。

 異議保管。

 拒否窓口。

 撤回手順。

 次の測定時刻。

 再協議。

 自動更新なし。

 共通なのは、相互参照番号だけだ。

 紬は四枚へ同じ印を押さない。

 上流文は上流代表が署名する。

 下流文は下流代表。

 商船文は商船の運航責任者。

 病院文は医療責任者と水量確認者。

 紬が置くのは、各文書の条件が相互に公開されていることを確認する印だけだ。

 印の形も一つではない。

 上流文には四角。

 下流文には波形。

 商船文には二本線。

 病院文には開いた円。

「同じ印にしない?」

 巴が尋ねる。

「同じ印だと、私が全部を保証したように見える」

「保証しない?」

「公開と相互参照だけ保証する」

「能力は」

「使わない」

「今、使いたい?」

「使いたい」

「正直」

「記録するから」

 折部が、夕方の便で戻ってきた。

 手には、一通の封筒がある。

「返送」

「誰から」

「言わない」

「どの文書」

「商船文の写し」

「理由」

《隔日運航を受け取らない。運航しない日にも船員へ食費が必要》

 商船代表が顔をしかめる。

「誰だ」

「言わない」

「組合員か」

「宛先は組合。差出人は秘匿」

「内部の反対を隠して交渉していたと見られる」

「隠さない。返送があったと記録する」

「一通で、組合全体を止めるのか」

「止めない。一通をゼロにしない」

「配達成功ではない」

「正しい宛先へ返った。仕事は成功」

「協定は」

「返送が残ったまま進むなら、その失敗を記録」

 巴は商船文の末尾へ書く。

《内部返送一件。理由:非運航日の食費。解決せず》

「未解決を本文へ入れるのか」

「入れる」

「署名しにくい」

「だから入れる」

 商船代表は、長く封筒を見る。

「食費を待機賃金へ含める」

「誰の判断」

「私」

「組合全体へ確認は」

「今夜取る」

「返送した人へ届く?」

「折部」

「運ぶ。受取拒否でも料金は同じ」

「高い」

「往復だから、本当は高くしたい」

 文書は完成しない。

 一通の返送で、また書き換わる。

 水位は待たない。

 それでも、返送を捨てて速くしない。

 相互参照番号を付ける段階で、四者は番号の並びにも反対した。

 上流、下流、商船、病院の順にすれば、上流が先に見える。

 病院を先にすれば、医療優先を象徴する。

 数字だけにすれば、人間が消える。

「四文を円に置く」

 紬が言う。

「円にも上がある」

 七瀬が返す。

「回す?」

「読むたび順番が変わる」

「管理できない」

 朝が言う。

 最終的に、参照番号は順番を持たない四つの記号で構成された。

 貯水を示す四角。

 流れを示す波。

 運航を示す二本線。

 医療を示す開いた円。

 文字列へする時は、記号を横一列にせず、四隅へ置く。

「役所で検索できない」

 朝が言う。

「中央目録に検索用番号を付ける」

 巴が答える。

「結局、順番が付く」

「検索用番号は意味を持たない連番。本文の優先順位に使わない」

「使われるかもしれない」

「使われた時、本文と違うと分かるよう注記」

 番号一つにも、後から権力が生まれる。

 巴は、番号を無色にできるとは言わなかった。

 代わりに、何のための番号かを書いた。

《検索のため。優先順位を示さない》

 四者の確認印も、同じ大きさにしなかった。

 病院の開いた円が大きいのは、手袋をしたまま押せるため。

 商船の二本線は、濡れた甲板でも見える太さ。

 上流の四角は、刻印器の規格。

 下流の波形は、文字を読めない者が触って分かる凹凸。

「大きさが違うと、重要度に見える」

 紬が言う。

「理由を横へ書く」

「書けば全部解決?」

「しない。誤解した人が、理由を探せる」

 印を押す動作そのものも練習した。

 上流代表は自分の箱を開ける。

 下流代表は、自分の文だけへ触れる。

 商船代表は、内部保留一件を読み上げてから印を押す。

 病院代表は患者名を出さず、水量確認者と別々に印を置く。

 紬は四文書を束ねない。

 一本の青緑布を四本へ切ることもしない。

 同じ布で結べば、彼女が所有者に見えるからだ。

 それぞれの箱は、それぞれの持ち主の索で閉じられた。

 午後、文書を読む席へ、経営者ではなく作業員が入った。

 上流工場の短期工員。

 下流の漏水修理員。

 隔日運航で仕事を失う小型船員。

 病院の洗浄係。

 四人とも、水量の決定権は持っていない。

 だが、決定された水量によって、最初に勤務が変わる。

 上流工員が、四十五パーセントの行を指した。

「これ、賃金も四十五パーセント減?」

「水使用の削減率」

 朝が答える。

「工場は、仕事がないと言う」

「それは別の判断」

「別でも、給料は減る」

 巴は上流文へ、新しい欄を作る。

《水削減を理由に勤務を変更する場合、対象者、開始日、支払日、異議窓口を事前に示す》

「全額保証?」

「書けない」

「なぜ」

 価が帳簿を開く。

「共同調整費では三十日分を全部は払えない。工場が負担できる額も、工場ごとに違う」

「結局、減る」

「減る可能性を隠して署名させない」

「隠さなければ、減らしていい?」

「よくない。だが、払えない額を払うと書くのも嘘」

 工員は署名しなかった。

 拒否札へ二穴を開ける。

 その札は、協定反対ではなく、《賃金条項が不足》として上流文へ添付される。

 下流修理員は、百二十人相当の行を見た。

「人間が百二十人いるわけじゃない」

「作業量の換算」

「一人が二人分働けば、二人?」

「ならない」

「表ではなる」

 朝が換算欄を二つへ分ける。

 作業量。

 実人数。

 さらに、夜勤不可、重量作業不可、説明のみ担当を分ける。

 人手不足を、残った人間の残業で埋めた時は、《充足》と書かない。

 小型船員は、隔日運航の行へ首を振った。

「動かない日は賃金ゼロ」

「代替輸送枠を作る」

「大型船へ荷を預けたら、俺の船はいらなくなる」

「運航権は小型船へ残す」

「紙の権利で飯が食える?」

「代理運賃を受け取る」

「誰から」

「荷主と補償基金。割合は荷ごとに公開」

「面倒」

「面倒を大型船の善意へしない」

 病院の洗浄係は、必要量百パーセントの文へ異議を付けた。

「患者へ必要な水は守る。でも、器具を二度洗う手順を一度に減らされたら、私が事故責任を負う」

「医療者が必要量を決める」

「医師だけ?」

「洗浄担当も確認者へ入れる」

 病院文の《医療者》は、《処置担当・機器担当・洗浄担当》へ書き直された。

 四人のうち、その日のうちに署名した者は一人もいない。

 それでも、四つの文書は前より完成へ近づいた。

 決める権限を持たない人間が、決められた後に何を失うかを、本文へ入れたからだ。

 夜、四つの文書はそれぞれ別の箱へ入れられた。

 箱の色も違う。

 鍵も違う。

 中央欄の写しだけが、四箱へ一部ずつ入る。

 一箱を奪っても、協定全体を所有できない。

 一箱が燃えても、他の文書と相互参照番号から、欠けた部分が分かる。

「非効率」

 朝が言う。

「国家なら一箱?」

「以前なら」

「今は」

「一箱にしたくなる」

「したい?」

「したい。管理が楽」

「私と同じ」

 紬が言う。

「何が」

「使いたいけど、使わない」

「美化しないで」

「朝に言われたくない」

 巴は右手の支持布を巻き直した。

 能力を一度使った。

 文書はまだ発効していない。

 入口を止めただけだ。

 明日、四者が署名しなければ、協定は成立しない。

 能力を使ったことも、紙を増やしたことも、合意を保証しない。

 それでよかった。

 保証しない道具を、道具として使った。

 四つの箱は、同じ机へ並ばなかった。

 水面に浮かぶ四隻へ、一箱ずつ戻された。

 同じ参照番号だけが、別々の船尾灯の下で光っていた。