第551話 第十章「別々の上限」前編
約束は、同じ紙へ書けば一つになる。
一つになったように見える。
五月二十九日、午前七時。
巴は、四つの文書へ同じ題名を付けなかった。
上流文には、こう書いた。
《貯水を減らす側の三十日条件》
下流文には、こう書いた。
《届いた水を生活へ残す側の三十日条件》
商船文には、こう書く。
《運ばない日を含む運航条件》
病院文には、こう書いた。
《必要量を受け取り続けるための使用条件》
中央欄だけに、共通の参照番号を置く。
《C5-23-水-四文-01》
「題名が違う」
紬が言った。
「中身も違う」
「同じ協定なのに」
「同じ期間」
「題名が違うと、後で別の約束だと言われる」
「同じ参照番号を付ける」
「番号だけ同じ」
「同じにするのは、そこだけ」
「潔癖」
「誰が」
「巴」
「紬に言われたくない」
「私は布を洗わない」
「水がないから」
「合理的」
「便利な言葉」
巴は左手で、中央欄を指す。
右人差し指は包帯ではなく薄い支持布で固定している。完全に動かさないと、別の指へ負担が移る。動かしすぎれば、腱が痛む。だから、使う動作と使わない動作を分ける。
文章も同じだった。
共通にできるところは共通にする。
違うところまで同じにしない。
「最初に数字」
朝が言った。
黒い杖を椅子へ立てかけ、座ったまま四文書を読む。
「家庭最低水量、二十二リットル/人/日」
「最低という言葉へ異議」
下流代表が言う。
「十分量に見える」
「《協定上の下限》」
巴が書き換える。
「下限なら、それ以下を禁止する?」
「禁止ではなく、下回った時に臨時再協議を始める」
「配給停止?」
「しない」
「誰が不足分を出す」
「その時点で公開する残量、病床、輸送、雨量で決める」
「今、決められない」
「今決めると、三十日後の不足を今日の力関係で縛る」
「逃げだ」
「再協議の入口」
上流代表が口を挟む。
「家庭二十二を、上流にも下流にも同じにするのは対称ではないか」
紬が答える。
「同じ最低量は、人間の飲用と生活衛生に必要な基準として置く。削減率ではない」
「紬が同じものを認める」
「同じにしていいものもある」
「誰が決める」
「病院、生活調査、共同厨房、住民聞き取り。私だけじゃない」
「二十二で足りない人は」
小麦が手を上げた。
「乳児、発熱、授乳、特定の治療、重労働、共同厨房を使えない家庭。追加枠を別にする」
「別ばかり」
「身体が別」
「一人二十二という表現は」
「下限の計算単位。個人へ二十二ずつ渡すとは限らない。共同厨房と共同洗浄を使う場合、家庭内配分を本人たちが決める」
「家族の強い者が取る」
「個別受領窓口を残す。共同受領を強制しない」
巴は下流文へ追加する。
《一人当たり二十二は地域総量の下限計算に使用する。個人・家庭への一律配布量ではない》
「上流文にも」
紬が言う。
「同じ文を入れる?」
「入れる。ここは同じ問題」
「分かった」
「嬉しそう」
「同じにできた」
「子どもみたい」
「十六歳」
「便利」
次の数字。
病院・透析用は、必要量百パーセント。
商船代表がすぐ反対する。
「百パーセントは上限がない」
「患者数が増えるから」
病院代表が答える。
「増えたと申告すれば、全部病院へ行く」
「申告だけでは増やさない」
朝が資料を出す。
「必要量の内訳は、患者数、処置種別、洗浄回数、機器損失、非常備蓄。個人名と病名は公開しない。二人の医療確認と、一人の外部水量確認」
「外部確認は誰」
「水量だけ見る。医療内容は見ない」
「中央?」
「地域で選ぶ」
「朝が選ばない?」
「選ばない」
「責任を取りたくない?」
「地域の医療を知らない」
「正直」
「遅かった」
病院文へ書く。
《必要量百%とは、公開された患者総数・処置区分・機器使用量に基づく当日必要量を指す。個人の病名・氏名の公開を条件にしない》
商船付属文へ、別の一文。
《医療量の増加により運航枠が減る場合、減った便数と荷種を公開し、医療側の善意で帳消しにしない》
「善意を帳消しに使わない、という言い方」
病院代表が眉を寄せる。
「病院が水を奪ったみたい」
「奪ってない」
「なら書くな」
「商船が失う便はある」
「患者を理由に責められる」
「責める記録にしない。損失記録」
「同じだ」
価が口を開いた。
「違う。責任と損失は別」
「値段を付ける人が言う?」
「値段を付けるから言う。損失へ値が付いても、患者へ請求するとは限らない」
「誰へ請求」
「協定全体の補償基金。上流工業、下流市場、商船組合、地域水券から別率で出す」
「結局、金」
「金で埋まる部分だけ」
価は五つの補償欄を開く。
一、金銭。
二、修理人員。
三、貯水技術。
四、輸送枠。
五、医療・休息・賃金保証。
合計欄はない。
「釣り合わない」
紬が言う。
「釣り合ってない」
価が答える。
「協定なのに」
「今の水位が釣り合ってない」
「不均衡を、そのまま紙へ」
「紙だけ対称にしても、水位は変わらない」
上流工業、四十五パーセント削減。
下流工業、二十パーセント削減。
商船、隔日運航。
数字が卓へ置かれる。
上流代表が、四十五の横へ指を置く。
「なぜ四十五」
イオが答える。
「家庭下限、病院必要量、三十日の予測、漏水修理予定を入れた時、上流工業が四十二でぎりぎり。誤差幅と設備故障を入れて四十五」
「四十二にしろ」
「故障がなければ」
「故障しないよう整備した」
「貯水塔の沈下誤差がある」
「下流の誤差を、うちへ乗せるな」
「上流計器の誤差」
「直す」
「三日かかる」
「協定開始を三日待て」
「病院が持たない」
「また病院」
「病院があるから」
上流代表が机を叩く。
「四十五を受ければ、工員が賃金を失う!」
「二十三人は初日試験で未保証だった」
朝が言う。
「今、保証案を入れた。短期作業員を含む賃金七割。残り三割は補償基金ではなく、工業組合の在庫売却益から優先支払い」
「在庫が売れなければ」
「商船の隔日便へ優先枠を一つ置く」
「商船が損をする」
「運賃は通常どおり。優先枠のために外された荷へ、輸送補償」
「誰が払う」
「上流工業組合」
「水を減らして、さらに払う」
「そう」
紬が答えた。
「不公平だ」
「そう」
上流代表が紬を睨む。
「認めるだけか」
「上流は、今持っている水と設備が多い。多く負担する」
「努力したから持っている」
「努力を記録する。技術使用料を払う。修理図面の所有も残す。でも、水がない側へ同じ削減を課さない」
「努力が罰になる」
「罰ではなく、今の負担」
「言い換え」
「そう聞こえる」
「逃げるな」
「逃げてない」
紬は、空の杯を自分側へ置いた。
怒りの杯を、相手へ押しつけない。
「上流が四十五を拒否すれば、協定は失敗する。それを能力で禁じない。拒否した人の名を、悪人として掲げない。だが、下流病院が先に止まる予測も消さない」
「脅しだ」
「結果の説明」
「同じだ!」
「違う。でも、脅しに聞こえる責任は私にもある」
凱が上流代表へ尋ねた。
「四十五を受けられない最大の理由は、賃金か、努力の評価か、設備の安全か」
「全部だ」
「順番を付けられるか」
「なぜ」
「別々の補償を置く」
「一つにしろ」
「一つにすると、金で名誉を買うことになるかもしれない」
上流代表が黙る。
「一番は、努力を無意味にされることだ」
「では、貯水設備と節水履歴を協定へ記録し、技術使用料を置く」
「二番は賃金」
「七割保証、短期作業員を含む」
「三番は設備」
「四十五を一律に全工程へ掛けない。工程ごとに停止率を変え、再起動水を別枠へ」
「それなら、総量四十五でも、設備は守れる」
「受ける?」
「まだ」
「保留」
「勝手に札を貼るな」
「質問」
「……保留だ」
巴は上流文へ、工程別停止表を付ける。
下流文には、漏水修理義務を書く。
修理班百二十人。
夜間作業は本人の可否を確認。
家族介護のある者を夜間へ強制しない。
修理材料費は下流六割、上流四割。
上流技術者二十四人。
図面は持ち出さず、作業記録は双方保管。
修理で減った漏水量を、下流の功績だけにも、上流技術の功績だけにもしない。
「下流二十パーセントは軽い」
上流代表が言う。
下流代表が返す。
「病院と家庭が多い」
「工業の話だ」
「染色場、製氷場、魚市場」
「止められる」
「止めれば賃金と食料が減る」
「上流も同じだ!」
「同じじゃないから別の数字なんだ!」
巴が手を上げた。
怒鳴り合いは止まらない。
手を上げるだけでは能力は発動しない。
「相手の文を、自分の言葉で説明して」
「何」
「上流代表は、下流文の義務を説明する。下流代表は、上流文の義務を説明する」
「試験か」
「相手が何を負うか読まずに、自分だけ不利だと言わないため」
「読んだ」
「説明して」
上流代表は下流文を見る。
「漏水修理百二十人。材料費六割。工業二十削減。共同厨房。病院優先」
「病院優先ではなく」
巴が止める。
「必要量百パーセント」
「同じだ」
「相手文では違う」
「言葉遊び」
「病院が何より先に取れるという意味ではない。必要量を算定し、その量を確保する。増加時は公開確認」
「……必要量百パーセント」
「もう一度」
上流代表は、最初から説明する。
下流代表も上流文を読む。
「上流工業四十五削減、工程別。短期作業員を含む賃金七割。貯水技術二十四人。材料費四割。運航優先枠の費用負担。設備履歴と節水履歴の保全」
「保全とは」
「努力を無意味にしたと記録しない」
「違う」
上流代表が言う。
「設備と節水が、今回の水を作った事実を協定本文へ残す」
下流代表が言い直す。
「上流の設備と節水が、現在の貯水を作った事実を残す」
「受領」
紬が小さく言った。
商船代表は病院文を読む。
病院代表は商船文を読む。
隔日運航。
奇数日と偶数日を固定せず、荷種と冷却能力で月二回まで交換可能。
交換時は、外された便を記録。
医療部品は優先できるが、優先による他荷の損失を非公開にしない。
船員診療枠は対価ではなく、別の労働安全義務。
病院の必要量は、患者個人情報を公開せず確認する。
四者の説明が終わるまで、三時間かかった。
右人差し指の痛みが、巴の手首まで上がる。
それでも、まだ発効させない。
中央欄の最後に、一つの条項があった。
《四文書は、相手側文書を読めたとみなして発効する》
巴は、その一文を見た。
誰が書いたのか、複写段階で混じった。
《読めたとみなす》。
実際に説明できなくても、閲覧時間を与えたから読めたものとする。
行政でよく使われる。
契約でも使われる。