第550話 第九章「水門」後編
「二人の名前を」
七瀬が言う。
「撮影担当へ入れて」
タマキが答える。
「機械を見てただけ」
「画角を変えないと決めた」
「七瀬さんの指示」
「家族の顔を撮らないのは、タマキの判断」
「記録する?」
「する」
「能力使ってないのも?」
「必要?」
「使えるのに使わなかった」
「理由は」
「普通の索の方が早かった」
「書く」
「格好悪い」
「正確」
「紬さんと違う」
「能力を使わない理由は、一つじゃない」
紬は、水門塔の下で酸素を吸っていた。
船上乱闘の時より、呼吸は早く戻る。
潜らない。
階段も上らない。
自分ができないことを、他者へ委任する。
「私も、普通の索の方が早かったって言えばよかった」
紬が言う。
「嘘になる」
七瀬が返す。
「知ってる」
「使いたかった?」
「今も」
「水門へ触れるなを、全員へ」
「一瞬で止まる」
「その間に管が破れたかも」
「分かってる」
「だから使わなかった」
「分かってる」
「しつこい?」
「記録者だから」
「嫌い」
「受領」
急流が収まった後、七瀬は二つの映像をすぐ公開しなかった。
下流機には、家船の床へ転んだ子どもの裸足が一秒だけ映っている。
顔はない。
名前もない。
だが、黄色い補修布と、船尾の傷から、近隣なら家を特定できる。
上流機には、家庭取水停止へ反対して弁へ走った女性の横顔が映る。
その女性は、三分停止の責任者ではない。
それでも映像だけ見れば、下流救助へ反対した人として使われる。
「切る?」
タマキが尋ねる。
「切れば、無編集ではない」
「無編集、使ってない」
「能力の話じゃない。記録の方法」
「ぼかす?」
「ぼかした場所が、何か隠したと見える」
「じゃあ」
七瀬は、映像所有者へ確認を取りに行った。
家船の家族は、子どもの足も船の補修布も公開を拒んだ。
女性は、自分の横顔を公開してよいと言った。
「反対したことを残したい」
「理由も」
「家庭取水を止めれば、寝たきりの母の洗浄水が足りなくなると思った」
「実際は三分」
「三分でも、延長されると思った」
「代表が延長しないと宣言した」
「前の命令は延長された」
「それも記録する?」
「して」
七瀬は、女性の横顔を残す。
下流映像からは、子どもと家船を削除しない。
その一秒だけ撮影停止表示へ置き換える。
《本人家族の公開拒否。破裂時刻と船損傷は別記録》
「映像が飛ぶ」
タマキが言う。
「飛んだ理由がある」
「見る人、事故を隠したと思う」
「損傷記録は別にある」
「別ばかり」
「一つにすると、家族の顔が事故の証拠になる」
「顔じゃなくても特定できる」
「教えてくれた」
「私も、配達で家を見分けるから」
「撮影担当へ書く」
「また名前が増える」
「増える」
七瀬の記録は、七瀬一人の目ではなくなっていく。
それは少し怖い。
母のように、一人の編集者が全体を決める力を手放すためには、他人が自分の記録を変える力も受け入れなければならない。
上流では、三分停止の後に家庭別の不足確認が行われた。
二世帯で、予定していた洗浄水が足りなくなっている。
一世帯は共同備蓄を受領。
もう一世帯は、近隣からの分け水を拒否し、翌朝の自分の配給を前倒しした。
前倒しは翌朝の不足を作る。
今の三分だけ見れば、解決に見える。
下流では、新規破裂二箇所のうち一箇所が、上流の圧だけでなく、前日の修理班が仮帯を逆向きへ巻いたことに関係していた。
修理員は、自分の名を公開するか選ぶ。
「公開する」
若い修理員が言った。
「責められる」
由良が答える。
「隠したら、上流だけが悪いことになる」
「公開範囲は」
「修理班内と交渉卓。住民全体には職種だけ」
「なぜ全部出さない」
「あなたの失敗は水門協定に必要。家族や住所は必要じゃない」
「逃げたみたい」
「全部を差し出すことが責任じゃない」
修理員は、仮帯の向きを自分で巻き直す。
上流設備係が補助する。
同じ場所へ手を入れる二人が、同じ責任を持つわけではない。
急放流の設計責任。
老朽管の修理遅延。
仮帯の向き。
それぞれ別の名前へ戻る。
七瀬は、二つの映像へ、三つの補足記録を付けた。
映像だけでは全体にならない。
補足を全部読んでも、全体にはならない。
それでも、《上流が犠牲になった》《下流が壊された》という一行より、失われるものが少なかった。
映像を公開する前に、水門を動かせる状態へ戻す必要があった。
補助門の下端には、折れた流木と係留索が噛んでいる。巻上軸の受け金は、予定外の早開きで右へ三ミリずれた。三ミリなら、人は通れる。次の開閉で歯が飛ぶには十分だった。
轟は水門塔へ上がらず、下の点検床から鏡と測定棒を入れた。
「見えない?」
迅が聞く。
「見える位置まで身体を持っていくと、左肩が先に終わる」
「俺が上から」
「見ても、直せる位置が違う」
轟は六人へ仕事を分ける。
上流設備係二人が巻上荷重を抜く。
下流修理員二人が流木を切らずに回す。切れば破片が病院船側へ流れるからだ。
商船員一人が、損傷した索を自分の船の予備索へ交換する。
迅は点検床の端で、揺れる補助索を保持する。
七歩は取らない。
足場が三十センチずつ異なり、暴力の源も、軸、流木、早開き指示、古い受け金の間を移っている。
「拳の出番」
「ない」
「残念?」
「寒い」
「正直」
右手の環指と小指に痺れが出る。迅は索を左肘へ回し、右手だけで握り続けない。代わりに商船員へ、張力が変わるたび声をかける。
「一段、緩む」
「受けた」
「二段」
「受けた」
「三段」
「待て」
流木の下から、小さな養魚籠が現れた。
下流の家船が係留していたものだ。魚は三匹生き、二匹死んでいる。
「水門作業を止める?」
由良が所有者へ尋ねる。
「止めない。籠だけ上げて」
「死魚の補償は」
「後で」
「後ではなく、記録する」
所有者は、自分の名を住民全体へ出さず、補償卓と修理班だけへ示すことを選ぶ。
籠を上げる三分で、巻上作業は遅れる。
遅れは救助の美談ではなく、実作業時間として賃金表へ付く。
午前五時二十二分、補助門を二十センチだけ上げる試験を行う。
上流の家庭取水は、また三分止める。
前の三分と同じ世帯へ負担を重ねないよう、共同備蓄から先に出す。下流では仮帯の内側へ白い紙を巻き、濡れ方で新しい漏れを確かめる。
門が上がる。
一センチ。
七センチ。
十二センチ。
十六センチで、受け金が鳴った。
「停止」
轟が言う。
誰も二十まで押さない。
十六センチで戻し、受け金の下へ薄板を追加する。二度目は十九センチ。三度目で二十センチ。
成功した三度目だけを残せば、最初から正しい修理に見える。
七瀬は三回すべての時刻を記録した。
失敗二回分の家庭停止、作業賃金、魚籠の損失も、同じ事故記録へ入る。
午前五時五十八分。
水門は自動運用へ戻らない。
手動監視を付けた仮復旧だ。
次の開閉には、上流、下流、商船の三者が立ち会う。
誰か一人が鍵を持てば速い。
速い方法が、今回の早開きを作った。
鍵は三本に増えたのではない。
一つの鍵を入れる前に、三つの受領札をそろえる手順が増えた。
午前六時、二つの映像が公開された。
上流側の映像だけを見た者は、家庭取水を止めて下流を救った上流の負担を語った。
下流側の映像だけを見た者は、急流で管と家船を壊された下流の被害を語った。
両方を見た者も、同じ結論にはならない。
それでよかった。
七瀬は、二つの画面の間へ、一本の細い時刻線だけを置いた。
午前四時十二分三十秒から、四時四十一分。
同じ時刻に起きたこと。
同じ出来事ではないこと。
画面の間には、合成されない黒い隙間が残った。