第549話 第九章「水門」前編
同じ画角に入れれば、同じ出来事に見える。
同じ出来事に見えれば、同じ被害だと思われる。
五月二十八日、午前四時十二分。
七瀬は、第二水門の上流側へ一台、下流側へ一台、撮影機を置いた。
自分は中央へ立たない。
左肩が長時間の挙上に耐えないからだけではない。
中央から両岸を一枚へ収めると、上流の貯水塔と、下流の干上がった家船が、同じ遠景へ小さくなる。
画面の左右へ並べれば、公平に見える。
だが、画面の端へ置かれたものは、いつも少しだけ軽く見える。
「時刻合わせ」
七瀬が言う。
上流機を担当するイオが、機械時計を見る。
「四時十二分、三十秒」
下流機を担当するタマキが、耳ではなく視線で秒針を追う。
左耳の圧外傷と前庭障害のため、水上で頭を速く動かすと景色が傾く。撮影機を腰高の固定台へ置き、両足を広げず、手すりへ左肘を添える。
「下流、三十秒」
七瀬は中央の記録板へ書く。
《同時刻。別画角。編集で結合しない》
「一枚にしないの」
タマキが尋ねる。
「しない」
「見る人、二つ見ないかも」
「そう」
「片方だけ見たら」
「片方だけ見たと分かる表示を付ける」
「二つ見ろって命令?」
「違う。見なかった方があると知らせる」
「面倒」
「撮影は面倒を増やす仕事」
「前は、減らす仕事って言ってなかった?」
「言ってたかも」
「記録ある?」
「ある」
「自分に厳しい」
「記録が」
水門塔の上で、警鈴が一度鳴った。
二度目が来ない。
七瀬は上流機を見る。
貯水側の補助門が、予定時刻より早く動いている。
下流機を見る。
干上がった水路の中央で、最初の細い流れが走った。
「開いてる」
イオが叫ぶ。
「誰の操作」
「中央卓は触ってない!」
水門塔の階段を、商船の船員たちが上っている。
前夜まで占拠へ参加していた若い一団だ。
交渉案に隔日運航が入ったことで、自分たちだけが損失を固定されると判断した。
彼らは第二水門ではなく、第三補助門の手動鎖を外した。
「開度!」
「一寸、二寸――止まらない!」
イオが量水器へ走る。
走ると言っても、滑る床では小刻みだ。能力を失った右腕は、もう機械を強制停止できない。左手で手すりをつかみ、右手で普通の制動棒を取る。
「中央歯、抜かれてる!」
「誰が」
「今は後!」
第三補助門が、六寸まで開いた。
上流の貯水が、狭い運河へ落ちる。
水は低い方へ行く。
正しさを選ばない。
急流が、下流の古い接合部へ向かう。
「下流機、回して!」
七瀬が叫ぶ。
タマキは撮影機へ触れない。
先に自分の足下を見る。
床が傾いている。
「案内」
近くの船頭へ言う。
「三歩左、低い。次、手すり」
タマキは言われたとおり動く。
能力を使わない。
撮影機へ着き、回転を確認する。
「下流、記録中!」
画面の中で、水路底の泥が剥がれた。
黒い水が立つ。
古い管の仮帯が、一本ずつ膨らむ。
修理班が逃げる。
一人が足を取られた。
由良の赤索が飛ぶ。
右膝を深く曲げない。長く滑空しない。甲板へ腰を落とし、輪だけを水面へ走らせる。
「手首じゃない、脇へ!」
修理員が索を脇へ入れる。
周囲の三人が引く。
由良は、自分で全部を引かない。
能力も使わない。
水上区を故郷と他所へ二分しないため、帰巣線の始点を作らない。
「第一接合、圧上昇!」
「仮帯、持たない!」
「病院船を移せ!」
「水位が足りない!」
「今、上がる!」
「急すぎる!」
命令が交差する。
七瀬は、声を一つへ編集しない。
上流機には、水門塔へ駆け上がる迅と凱が映る。
下流機には、管へしがみつく修理班と、医療船の係留索を持つ病院員が映る。
同じ時刻。
別の危機。
迅は水門塔の踊り場で、商船の若者二人とぶつかった。
「止めるな!」
「全部閉じない!」
「嘘だ!」
「医療船は動かす!」
「なら開けろ!」
「段階で!」
「交渉してる間に荷が腐る!」
棹が横から来る。
迅は一歩退く。
鉄階段は、船より安定している。
七歩を数えられる。
一歩目。
だが、相手の棹を受けたのは迅だけではない。
階段全体が水門の振動で揺れる。
二歩目が、自分の退きか、設備の動きか、境界が曖昧になる。
迅は数えるのをやめた。
棹の先を手すりへ流し、若者の身体を内側へ回す。階段から落とさない。上へ行かせない。
「輪を奪う気か!」
「輪は取らない」
「またそれか!」
「前も言った?」
「昨日聞いた!」
「覚えてるなら、話が早い」
若者が頭突きを出す。
迅は額で受けない。肩を引き、相手の顔を胸へ入れる。両腕で抱え、階段の内側へ座らせる。
「離せ!」
「落ちる」
「おまえが押した!」
「だから離さない」
もう一人が制動棒を抜こうとする。
凱が下から手を伸ばした。
左膝を深く曲げない。段差一つずつ、右脚と手すりで上る。
「それを抜くと、どうなる」
「門が開く」
「何寸」
「全部だ」
「下流の圧は」
「知らない」
「医療船の必要喫水は」
「知るか!」
「では、君が決めるには、知らないものが多い」
「元王が説教するな!」
「王ではない。質問する人だ」
「一番嫌な人だ!」
「よく言われる」
凱は制動棒を奪わない。
棒と若者の手を一緒に握り、抜ける方向だけを止める。
「放せ!」
「君が放せば、私は放す」
「同じ条件か」
「そう見える」
「紬みたいなことを」
「私の方が先に言っていたかもしれない」
「年上自慢か!」
「二十歳は、あまり自慢にならない」
第三補助門は八寸へ達した。
上流の水位が急落する。
貯水塔の取水口で渦が立つ。
水中の泥が吸い上げられ、上流家庭用管へ入りかける。
下流では、仮帯の一つが裂けた。
水が横へ噴く。
家船の底板を打つ。
板が持ち上がり、家族三人が転ぶ。
七瀬は下流機の画角を変えない。
家族の顔を追えば、破裂箇所が外れる。
破裂箇所を追えば、転んだ子どもが外れる。
一台では、両方を守れない。
「タマキ、顔は」
「撮らない」
「理由」
「家族が選んでない。破裂位置だけ」
「受領」
七瀬は上流機へ目を戻す。
イオが補助制動器を組み直している。
右手の握力は普通だ。
能力で強化されないだけだ。
普通の手は、鉄輪一つを一人で止められない。
「轟!」
「来てる!」
伏見轟が、水門塔の基部へ滑り込む。
左肩は上げない。
右腕と腰で、仮制動架を押す。
「止めるな、絞る!」
轟が叫ぶ。
「全部閉じると、下流の戻り圧が上がる! 医療船も座る!」
「何寸!」
「今八! 六へ戻す! 一寸ずつ、四十秒!」
「そんなに待てない!」
「待たないと壊れる!」
「壊れてる!」
「もっと壊れる!」
商船の若者が、迅の腕の中で暴れる。
「荷が腐るんだ!」
「何を積んでる」
「魚、薬、染料!」
「薬はどの船」
「四番!」
「魚は」
「二、三、五!」
「染料」
「一と六!」
「全部、同じ水門を今通る必要がある?」
「商売を分けるな!」
「荷を分けて聞いてる」
「同じ船員の賃金だ!」
「賃金は分けない」
「何が言いたい!」
「四番だけ先に通す。魚は冷却を増やす。染料は待つ。待った分の損を記録する」
「誰が払う!」
「今から決める」
「いつもそれだ!」
「払う人が決まってないから」
迅は若者を離した。
若者は制動輪へ行かず、甲板へ走る。
「四番船! 薬を前へ!」
命令が変わった。
水門を全部開ける命令ではない。
自分たちの荷を分ける命令だ。
商船側の中で口論が始まる。
「魚を後にするな!」
「病院の薬だ!」
「昨日も病院を優先した!」
「患者がいる!」
「船員も食ってる!」
誰も黙らない。
七瀬は、その口論を一つの《商船の声》へ編集しない。
四番船が前へ出る。
二番船が横へずれる。
横索が絡む。
一番船の染料樽が転がった。
樽の留め金が外れる。
青い染料が甲板へ広がる。
水へ落ちれば、下流の洗浄負担が増える。
由良が赤索を投げる。
樽へではない。
樽を止めようとして足を出した船員の腰へ輪を掛ける。
「樽は後!」
「荷が!」
「人が先!」
「またそれか!」
「毎回そう!」
樽が舷側へ当たる。
轟が低い位置から防舷材を差し込む。
左肩を使わず、右脚で押す。
樽は水へ落ちず、甲板の縁で止まった。
船員は由良の索で倒れずに済む。
「両方だった」
迅が言う。
「今回は」
由良が返す。
「格好いい」
「膝が痛い」
「台無し」
「痛みは演出を知らない」
補助門が七寸へ戻る。
轟が四十秒を数える。
一寸。
下流の圧力計が跳ねる。
「待て!」
修理班が叫ぶ。
制動を止める。
完全閉鎖ではない。
完全開放でもない。
六寸半。
水は流れ続ける。
医療船の船底が、泥から二センチ離れる。
「足りない!」
病院員が叫ぶ。
「あと一センチで推進器が回る!」
「門を七へ!」
「下流管が持たない!」
「患者を移す!」
「移送先の水も足りない!」
紬が船上卓から立つ。
呼吸は浅い。
酸素袋を首へ掛けたまま、声を出す。
「六寸半で、何分」
「医療船が浮くまで十二分!」
「下流管は」
「この圧なら、仮帯交換まで八分!」
「差、四分」
「閉じろ!」
「開けろ!」
紬の腕へ、反証痣が浮く。
双方へ同じ禁止を掛けるなら、《水門へ触れるな》だ。
上流も下流も商船も病院も、同じ四分、手を止める。
美しい。
誰も動かない。
だが、止まっている間にも、水圧は下流管へ掛かる。
医療船はまだ泥へ触れている。
同じ停止時間が、同じ安全にはならない。
紬は能力を使わない。
「修理班、八分で仮帯交換」
「無理だ!」
「何分」
「十分」
「二分足りない」
「人を増やせば」
「狭くて入れない!」
「材料を先に渡す」
「船が邪魔!」
「由良、索で上から」
「できる。膝は使わない」
「轟、圧を一度だけ〇・三落とせる?」
「上流側の小弁を開く。貯水へ戻す。ただし泥が上がる」
「家庭取水を三分止める」
「誰が決める!」
上流代表が叫ぶ。
凱が振り返る。
「上流家庭の受領は」
「聞く時間がない!」
「なら、代表が三分停止の責任を取るか」
「私が?」
「決める権限を求めていた」
「今それを使えと」
「使わないなら、別の方法」
上流代表は唇を噛む。
「三分だけ止める。私の名で」
「終了時刻」
「四時二十九分から三十二分」
「延長」
「しない。必要なら、もう一度判断する」
「受領」
上流家庭取水が三分止まる。
貯水側の小弁が開く。
圧が〇・三落ちる。
下流修理班へ、由良の赤索で仮帯が送られる。
タマキは能力を使わない。
送り主も受取側も、水上の揺れで封緘条件を整える時間がない。普通の索の方が早い。
由良が投げる。
修理員が受ける。
一度落とす。
赤索を引き戻す。
二度目。
受ける。
八分五十秒で仮帯交換。
予定より五十秒遅い。
医療船は、十一分二十秒で船底を離す。
予定より四十秒早い。
第三補助門を六寸へ戻す。
完全には閉めない。
医療船四番航路を、幅一隻分だけ開ける。
商船四番船が、薬を載せたまま先導する。
魚船は待つ。
染料船も待つ。
待機損失が、船ごとに記録される。
午前四時四十一分。
急流は収まった。
下流管の新規破裂、二箇所。
家船損傷、五隻。
負傷者、十二人。
重傷、なし。
上流家庭取水停止、三分。
貯水側泥濁り、十八分。
医療船、通過。
商船四番船、通過。
魚船三隻、待機。
染料船二隻、待機。
数字は、誰かの勝利へまとまらない。
七瀬は上流機を止める。
下流機も止める。
同じ時刻に。
映像を中央で結合しない。
代わりに、二つの記録へ同じ参照番号を付ける。
「同じ番号」
紬が言う。
「同じ映像じゃない」
「一緒に見せる?」
「別々に開ける。片方だけ開いた場合、もう片方があると表示する」
「同じ画面へ並べない」
「並べると、幅が半分になる」
「公平に半分」
「だからしない」
七瀬は、下流機の記録札へ書く。
《家船損傷と管破裂》
上流機へ書く。
《家庭取水停止と貯水泥濁り》
商船用の音声記録へ書く。
《待機損失と独自開門》
病院記録へ書く。
《医療船通過と優先理由》
それぞれの被害を、一つの字幕へまとめない。
「全体像がなくなる」
朝が言う。
「ある」
七瀬は中央の時刻表を示す。
「全体は、同じ物語じゃなくて、同じ時刻に別のことが起きた記録」
「見る人は迷う」
「迷っていい」
「行政報告は」
「朝が作る」
「押しつけた」
「役割分担」
「便利な言葉」
「最近、よく聞く」
朝は杖をついたまま笑った。
水門が六寸へ戻った後、待機させられた魚船三隻で、冷却水が足りなくなった。
魚を守るため水門を開ければ、下流管へ再び圧が掛かる。
捨てれば、下流市場の食料が減る。
小麦が魚箱を開け、温度を測る。
「全部は持たない」
商船の船員が言う。
「どれくらい」
「一番上の三箱、今すぐ処理。次の五箱、二時間。残りは冷却すれば半日」
「水を使う?」
「氷はない。塩締めと加熱」
「厨房へ運ぶ」
「誰の魚だと思ってる」
「荷主」
「勝手に料理するな」
「荷主へ聞く」
荷主は、上の三箱を共同厨房へ有料で売ることを認めた。
値段は通常の六割。
無料にすれば、商船の損が善意へ消える。
通常価格にすれば、品質低下を下流へ押しつける。
六割の根拠は、温度、加工時間、廃棄率を公開して決める。
価は能力を使わない。
「値札を付ければ早い」
迅が言う。
「人が決めた値段へ、後から責任を持たなくなる」
価が答える。
「能力が悪い?」
「便利」
「最近、その言葉が悪口」
「便利は、使う場所を選ばないと仕事を食べる」
三箱は厨房へ。
五箱は塩締め。
残りは、病院船の非医療冷却枠を使わない。
商船側が自分たちの小型吸収冷却器を回す。
燃料を使う。
燃料費は待機損失へ入る。
水門危機の間に、魚の一部は守られ、一部は価値を失った。
食料を救ったことで、独自開門の責任は消えない。
独自開門の責任があるからといって、腐る魚を放置もしない。
午後、共同厨房で魚汁が出た。
商船員、下流住民、上流修理技師が同じ列へ並ぶ。
椀は同じ。
量は、作業量と体調で違う。
誰も、それを協定成立の象徴とは呼ばなかった。
荷主の請求書と、厨房の仕入れ伝票が、鍋の横へ置かれていた。
商船の若者たちは拘束されなかった。
水門設備の破壊、無許可操作、下流損傷について、個別に名を出して審理を受ける。
同時に、運航停止による未払い賃金、腐敗した魚、優先輸送の決め方についても審理対象へ入れる。
水門を勝手に開けた責任も、開けなければ失った生活も、どちらも残った。
迅が塔から降りてくる。
右頬に棹の跡がある。
「七歩は」
七瀬が聞く。
「ゼロ」
「また船に負けた」
「今回は階段」
「設備に負けた?」
「数えたくなる自分に」
「勝った?」
「数えなかっただけ」
「名言っぽい」
「撮ってる?」
「もう」
「ずるい」
「記録済み」
「何だそれ」
迅は上流機と下流機を見る。
「同じにしなかったんだな」
「うん」
「どっちが大変に見える」
「見る人による」
「逃げた」
「記録者が、見る人の答えまで決めない」
「でも画角は決めた」
「そう」
「責任ある?」
「ある」
「ならいい」
「簡単」
「難しく言うと、肩が治る?」
「治らない」
「じゃあ簡単で」
七瀬は左肩を押さえた。
撮影機を二台使えば、自分の肩が二つになるわけではない。
上流機はイオへ任せた。
下流機はタマキへ任せた。
七瀬が撮った映像ではない部分が増える。
記録の所有も、七瀬一人から離れる。