第548話 第八章「能力を使わない交渉人」後編

《下流漏水の一部は、上流急放流によって増幅した可能性が高い》

《下流の老朽設備と修理遅延も、漏水継続へ寄与した》

《商船損耗は、急な水位変化と過積載の双方に関係する》

 三行に、三者が署名した。

 責任を一つへまとめない。

 誰も無罪にしない。

 誰も単独の原因にしない。

 紬は、青緑布へ新しい結び目を作った。

 ほどける結び方だ。

「何を忘れないため」

 巴が尋ねる。

「能力を使わなかったこと」

「それだけ?」

「使いたかったこと」

「同じ結び目で」

「二本の端を使った」

 巴が結び目を触ろうとする。

 紬は手を払った。

「勝手に触らない」

「読めない」

「布は、読まなくていい」

「不公平」

「受領」

 紬の不使用宣言は、翌朝には二種類の見出しになった。

《公平を捨てた交渉人》

《弱者を守るため能力を封じた少女》

 紬は、どちらも訂正した。

「公平を捨ててない。能力も封じてない」

「では、見出しは」

 七瀬が尋ねる。

《使えるけど使わなかった》

「長い」

「正確」

「理由がない」

「本文を読んで」

「読まれないかも」

「見出しだけで分かったことにしない」

 七瀬は見出しを付けず、能力条件、使わなかった理由、使いたかった理由を同じ長さで並べた。

 閲覧数は少なかった。

 英雄の物語にも、裏切りの物語にもなりにくいからだ。

「人気がない」

 紬が言う。

「困る?」

「交渉人は知られないと仕事が来ない」

「宣伝する?」

「水券窓口の手順書を先に作る」

「成長した」

「美化しないで」

 知られる価値より、自分がいなくても回る価値を先に選ぶ。

 紬は、それを喜ばずに選んだ。

 夕刻、紬の母は、水券帳場の鍵を卓へ置いた。

「今月で窓口を外される」

 紬は鍵を見た。

「能力を使わないから?」

「船団は、そう言わない。信頼低下と書く」

「同じ」

「違う。能力を使えば戻れるとは書いてない」

「戻りたい?」

「収入は欲しい」

 母は正直に言った。

「あなたの正しさで、家賃は払えない」

「正しいとは言ってない」

「もっと困る」

 紬は、家族を守るために能力を使わなかったのではない。能力を使わなかったために、家族の収入が減る可能性がある。

 その事実を、英雄譚は扱いにくい。

 七瀬は母の鍵を撮らなかった。

「なぜ」

 母が尋ねる。

「紬の選択を、母親の犠牲で感動させたくない」

「私は犠牲?」

「違うなら、なおさら」

 代わりに、帳場の雇用条件と、交代理由の文書を撮る。母の顔と名前は公開しない。窓口を外されたことも、能力不使用への報復だと断定せず、本人の異議と船団の説明を別に置く。

 紬は、母を守るための例外を協定案へ入れなかった。

 家族の水券だけ更新することも求めない。

 代わりに、水券窓口の採用条件から《交渉人一族への所属》を外す案を出した。

「私を助けないの」

「母さんだけ助ける案にはしない」

「冷たい」

「そうかも」

「謝らないの」

「謝ったら、鍵が戻る?」

「戻らない」

「じゃあ、謝る範囲を決める」

 紬は母へ向き直った。

「相談せず、収入への影響を引き受けさせた。ごめん」

「能力を使わなかったことは」

「謝らない」

 母は鍵を引き寄せた。

 許したとは言わない。

 紬も、理解されたとは言わない。

 同じ船へ帰る約束だけをする。

 それは和解ではない。

 帰路だった。

 日没後、水位は戻らなかった。

 能力も発動しなかった。

 それでも、中央船の鏡板には、誰の手形も残らなかった。

 代わりに二枚の異なる紙と、使わなかった理由と、使いたかった理由が、別々に風へ押さえられていた。