第556話 第十二章「潮が戻らなくても」後編

 価は、三つを同じ《未払い》へまとめず、支払者、契約、期限、理由を別にする。

 上流六人は、在庫売却の遅れ。

 下流四人は、作業時間記録の不一致。

 商船二人は、短期名簿への未登録。

「全部、金がない」

 紬が言う。

「理由が違うと、直し方が違う」

 価が答える。

「お金を払えば同じ」

「誰の金を、誰が返す」

「面倒」

「だから未払いになる」

 上流は仮払金。

 下流は作業時刻の共同確認。

 商船は短期名簿を作らず、本人の運航札と食費受領だけを接続する。

 十人全員の支払期限を六月三日夜とし、それまでの仮払経路を決める。

 期限までに支払われても、発効時に確定できなかった責任が消えるわけではない。

 それぞれの遅れ時間も残る。

 紬の能力不使用審査では、反対が依然最多だった。

 支持が増えた理由の一部は、病院が止まらなかったこと。

 反対が増えた理由の一部は、上流工業の損失。

 水位が変われば、評価も変わる。

「三十日後、支持が逆なら」

 母が尋ねる。

「また記録する」

「ずっと評価される」

「交渉人だから」

「家族としては」

「評価しないで」

「難しい」

「知ってる」

 母は、能力不使用へ反対の札を出した。

 その夜、紬へ食事を持ってきた。

 反対票と家族関係を、どちらか一方へまとめない。

「反対なのに、食事」

「母親だから」

「母親なら支持する?」

「しない」

「受領」

「嫌い」

 巴は、互いの用紙交換後、紬の結び目図を一つだけ覚えた。

 ほどく日を示す結び方。

 自分では結べない。

 右人差し指が完全に伸びず、左手だけでは布が滑る。

 紬が結んで見せる。

「手伝う?」

「自分で覚えたい」

「できない時は」

「頼む」

「今、頼んで」

「結んで」

「料金」

「平文一欄」

「高い」

「では二欄」

「交渉が下手」

 紬は巴の布へ、ほどける結び目を作る。

 巴は紬の用紙へ、《読めない時に誰へ頼むか》の欄を二つ追加する。

 交換はした。

 同じ道具にはしなかった。

 水位柱は、直近三日で合計一・五センチ下がっていた。発効後の数時間では、誤差幅を超える回復はない。

 漏水修理によって、下流の有効水深は一部で上がる。

 上流の貯水は減る。

 病院は必要量を受け取る。

 商船は半分の日に動く。

 どの数字も、潮が戻ったとは言わない。

 境界杭の時刻は、まだ水面より上にある。

 午後十一時四十分、最初の発効直後監査が行われた。

 水位の回復を測る監査ではない。

 約束どおりに負担が見えているかを確かめる。

 上流では、停止予定四工程のうち三工程が停止。一工程は制御盤故障によって七分遅れ、再起動試験に必要な水量は翌日の確認へ回された。

 下流では、漏水修理十二箇所のうち五箇所が仮止水を開始。二箇所は部品不足。三箇所は住民が工事時間を拒否し、日程を変更。二箇所は、水を止めると共同厨房が使えないため保留された。

 商船は隔日運航の切替を始めたが、小型船三隻の代理荷が大型船の翌日目録へ載らなかった。

 病院は必要量を受け取り始めた一方、洗浄係が二度洗い手順を守るため、当初計算より使用予定量が増えた。

「違反は」

 朝が尋ねる。

「数え方次第」

 イオが答える。

「数え方を決める監査」

 紬は、違反欄を一つにしなかった。

 実施遅延。

 説明不足。

 本人拒否による変更。

 設備故障。

 予測誤差。

 未払い。

 それぞれ別の欄へ置く。

 短期作業員二十三人のうち、仮払申請の受領確認ができた者は十九人だった。

 四人は受領未確認。

 一人は工場が雇用記録を提出していない。

 一人は名前の表記が二種類ある。

 一人は現金受領を拒否し、家族の水券への充当を希望している。

 一人は、支払いを受けると協定へ同意したことにされるのを恐れている。

「金を受け取ることと、協定へ賛成することを分ける」

 巴が用紙へ書く。

「書けば分かれる?」

 未払いの工員が聞く。

「書くだけでは」

「なら」

「受領札へ、《賃金の受領。協定への賛否とは別》を入れる。声でも、穴札でも選べる」

「受け取ったあと反対していい?」

「いい」

「返せと言われたら」

「その要求を別に記録する」

 価は、工場を経由せず本人へ支払う経路を作る。ただし、過去の未払い賃金まで共同調整費で肩代わりしない。今回の停止によって生じた分と、以前からの賃金債務を分ける。

「分けると、昔の未払いが残る」

「混ぜると、今回払ったことで昔も払った顔ができる」

 最初の十九人へ用意された仮払額も、成功の合計にはしない。

 四人の受領未確認と、支払予定日を同じ大きさで掲示する。

 水門で使った仮受け材と予備索も返却された。

 予備索は、商船員の船へ戻る前に、損耗長を測る。元の長さには戻らない。切れかけた箇所を除き、新しい端末金具を付ける費用を、早開き指示側、老朽設備側、商船側の過積載責任へ分ける。

「一本の索に、三枚請求書」

 迅が言う。

「一本を三人で引いたからではない」

 轟が答える。

「切れた理由が三つある」

「面倒」

「丈夫にする方がもっと面倒だ」

 轟は左肩を上げず、机上で端末金具の向きを説明する。修理は別の作業員へ任せる。

 紬は、返却済みの印を一つずつ付けた。

 仮受け材。

 鏡。

 測定棒。

 病院の空容器。

 商船の予備索。

 交渉に使った物を、中央船の記念品にしない。

 それぞれの仕事へ戻す。

 返らないものもある。

 死んだ魚二匹。

 失われた勤務時間。

 止めた工程で廃棄された材料。

 眠れなかった夜。

 返せないものは、《返却不能》へまとめず、別々の名で残した。

 午後十一時四十五分、由良は下流修理班の地図を返却箱へ入れた。

 朝は自分の審理日程票を受け取り、行政船への移動を翌朝へ予約する。

 巴は平文用紙の未回答欄を、翌朝訪ねる家船ごとに分ける。

 小麦は厨房の水使用を、夜食分まで測り直す。

 誰も中央船の常設員にはならない。

 紬も送別の演説をしなかった。

「また来る?」

 迅が聞く。

「水位による」

「友情は」

「水位より測りにくい」

「ある?」

「次の測定欄にない」

「ないのか」

「書いてない」

 紬は笑わず、中央船を離すための結び目を一つほどいた。

 別れを終わりにしないためではない。

 船を少しだけ岸から離すためだった。

 午後十一時五十二分、干上がった境界杭の一本が、作業台へ運ばれた。

 所有権争いの印が、両側から刻まれている。

 上流の印。

 下流の印。

 商船の荷重線。

 病院船の最低喫水。

 古い傷を削らない。

 その空いている面へ、次の測定時刻だけを書く。

《六月三十日 午前六時》

 その下へ、再協議開始。

《午前九時》

 現協定失効。

《午後八時四十分》

 紬は、日付の横へ結び目を一つ描く。

 ほどける結び方。

「潮が戻れば」

 上流代表が言う。

「条件は変わる」

「戻らなければ」

「条件は変わる」

「どちらでも」

「今と同じではない」

「それだけ?」

「それだけ」

 境界杭は、水へ戻されない。

 まだ運河底が浅すぎる。

 干上がった場所へ立て直される。

 水位線より上に、次の測定時刻が見える。

 水が増えれば、杭の文字は沈む。

 水が減れば、もっと下の古い傷が現れる。

 どちらも予言しない。

 朝は黒い杖を地面へ置き、杭の前へ座った。

 紬は隣へ立たない。

 上流側でも下流側でもない、少し斜めの船板へ腰を下ろす。

 巴は二人の間へ用紙を置く。

 完成版とは書かれていない。

 迅と凱は、遠くの共同洗浄所で皿を拭いている。

 七瀬は、杭を中央から撮らない。

 上流側の傷。

 下流側の傷。

 新しい時刻。

 三枚を別々に撮る。

 小麦の厨房から、薄い粥の匂いが来る。

 商船の半分は動き、半分は灯を消している。

 病院船のポンプは、必要な分だけ低く鳴る。

 修理班の金槌が、上流の工具と下流の工具の間に作った変換具を叩く。

 潮は戻っていない。

 水位も、正式発効時よりわずかに低い。

 境界杭には、最初の再測定時刻だけが、まだ乾いたまま残っていた。