第557話 第一章「開廷」前編
六月十八日 午前八時十二分
城は、壁が厚いから城なのではない。
中で決めたことを、外へ命令できるから城になる。
旧中央城の正門から王冠の紋章が外されて、十三年が経っていた。
外された跡だけは残っている。灰白色の石壁に、直径二メートルの円形だけが周囲より新しい。人は印を剥がしても、剥がしたという印までは剥がせない。
朽葉真琴は、黒い革鞄を右手に持ち、左手で半月眼鏡を押し上げた。
石段は三十六段。
中央の十二段だけ、昨日までに低い仮設段差へ作り替えられている。杖、装具、車椅子、担架のためだ。工事記録には《公正な審理のため》と書かれていたが、工事をしたのは、かつてこの城の命令で封鎖された地区の職人だった。
公正という言葉は、材料を運ばない。
人が運ぶ。
その人の賃金欄が空白なら、公正はだいたい未完成だ。
「右の仮段、三段目が鳴る」
先に上がっていた竜胆迅が言った。
色褪せた紺の上着。
右手首の赤い七結び。
彼は段差を踏まず、踵で縁を一度擦っていた。
「鳴るだけです」
真琴は答えた。
「鳴るやつは、あとで動く」
「人間の話ですか、板の話ですか」
「板。人間なら、鳴らないで動く」
「法廷に入る前から縁起が悪いですね」
「法廷は、縁起で作らないだろ」
「残念ながら、歴史上はかなり作られています」
迅が片眉を上げた。
真琴は革鞄を左へ持ち替え、右手で仮段の端に貼られた工事札へ追記した。
《三段目、荷重時に異音。開廷前再確認》
署名は右手でする。
日常の筆記は左手。
昔からそうだった。規則へ自分の名を置く時だけ右を使う習慣は、便利でもあり、嫌な鏡でもある。中央抑制拘置所の審理で、彼女は自分の右手が過去の拘禁拡大覚書へ署名したことを公開した。手は反省しない。だから、使うたびに人間が確認するしかない。
「直させるのか」
「確認させます。直すか、使用を止めるか、鳴る理由を記すかは担当者が決めます」
「面倒だな」
「責任は、面倒という形でしか見えないことがあります」
「名言みたいに言った」
「法務担当は、長い説明を聞いてもらえない時に短い言葉へ逃げます」
「自白が早い」
「反対尋問の練習です」
正門の内側では、かつて王の行列が通った長廊下が、四つの経路へ分けられていた。
左端は証人路。
中央左は原本搬送路。
中央右は傍聴者路。
右端は退出路。
退出路が入口より広い。
それを決めた会議だけは、迅が一度も口を挟まなかった。
城の中央大広間から玉座は撤去されている。
床に残った四つの固定穴を、木板で隠してはいない。穴の周囲へ黄色い縁を引き、かつて何があったかを説明する札が置かれていた。
玉座の位置には、証人席が一脚だけある。
背もたれの低い、曲がった椅子だった。
誰かが座ると、その人が大きく見えないように選ばれた。
その正面に三人の審理官席。
左右に申立人席と被申立側席。
背後の壁には、判決文を掲げるためだった巨大な白い面がある。今は、五つの争点だけが黒文字で並んでいた。
《中央設備の承認》
《反証転嫁》
《同調命令》
《収容分類》
《記録改変および決裁責任》
「五つで足りますか」
火群七瀬が、腰高の固定台を押しながら聞いた。
銅色の短い髪。
左の編み込みに黄色いフィルム片。
撮影機は肩へ載せず、三脚の車輪を床の溝へ合わせている。
「足りません」
真琴は即答した。
「なのに五つ?」
「審理できる単位へ分けただけです。足りないことを、全部という一語で隠すよりましでしょう」
「映像で言えば、広角にして端が歪んでる」
「法文で言えば、別紙が十八枚です」
「最初から出して」
「傍聴者が帰ります」
「帰れる法廷の方がいい」
七瀬は固定台の車輪止めを踏んだ。
薄墨影治が、その後ろから紙板を差し出した。
《左後輪、溝から二ミリ外》
彼は声を出さない。
左鼓膜の穿孔と両耳の耳鳴りが残り、文字と読唇と振動を使う。薄い灰色の外套。耳元へ当てた骨伝導板。七瀬の母・火群灯里と仕事をし、記録を編集し、隠し、売り、壊した男だ。
「見れば分かる」
七瀬が言う。
薄墨は別の紙へ書いた。
《分かっていて直していないなら、理由が要る》
「床の溝が曲がってる。台を合わせると画角が右へ二度ずれる」
《では、曲がった溝を記録》
「あなたに指図されると、正しい時ほど腹が立つ」
《便利だ。間違いの時だけ怒る人間より早く気づく》
「母にもそう言った?」
薄墨の鉛筆が止まった。
返事は書かない。
真琴は二人の間へ入らなかった。仲裁は、争いを小さくする技術ではない。誰の争いか分からなくする技術にもなる。
「開廷まで四十八分です」
彼女は言った。
「喧嘩の終了時刻は?」
迅が聞く。
「設定していません」
「珍しい」
「この喧嘩は、終わったふりをすると証拠が減ります」
七瀬は薄墨から紙板を受け取った。
画角の右端に、曲がった溝を示す小さな札を置く。
「撮影開始、八時十七分二秒。撮影台左後輪、床溝と二ミリ不一致。原因、溝の施工誤差。補正せず、画角札を併置」
薄墨は、母音だけで笑ったような顔をした。
大広間の西側には、御厨朝がいた。
黒い杖。
右脚の短下肢装具。
椅子へ座り、膝を伸ばしたまま七十二枚の命令票を分類している。歩幅同期事故で両ふくらはぎを断裂し、腓骨神経障害が残った。杖は証言の飾りではない。立って話せる人より、座って話す人の方が正しいわけでもない。
「朝」
真琴が呼ぶと、彼女は顔を上げた。
「争点五つ。提出候補百四十七点。公開九十二。限定閲覧三十一。所有者拒否による不提出十七。真正性不足七。合計は」
「百四十七」
「一応、聞いただけです」
「一応という言葉は、確認責任を半分にします」
「あなたに言われると腹が立ちますね」
「正しい時ほど?」
朝の口元が、ごく小さく動いた。
七瀬たちの会話を聞いていたらしい。
「痛みは」
「右ふくらはぎ三。左二。長く座ると腰が四」
「証言中に上がったら」
「休止を申請します。痛みが増えたから真実味が増した、と記録しないでください」
「しません」
「傍聴席はするかもしれません」
「傍聴席の感想は、証拠欄へ入りません」
「その壁を、審理の最後まで保てればいい」
朝は黒い杖を自分の椅子の右へ立てかけた。
杖の先が、かつて玉座の前へ引かれていた赤い線に触れる。
午前八時四十四分。
冬城征士郎が入廷した。
黒い傘は差していない。
空は晴れている。
それでも彼は黒い傘と呼ばれる。
濃紺の長衣。
右手の銀具は、能力回収炉停止時に亀裂が入ったまま、細い固定環で補強されている。顔色は紙のように白い。目の下に薄い浮腫。医療担当が二人、三歩後ろにつく。
冬城は、証人席ではなく被申立側席へ座った。
椅子の位置を、補佐官が三センチ前へ出す。
冬城は戻させなかった。
「旧中央城へ、お戻りになったご感想は」
傍聴席から誰かが叫んだ。
審理官が静粛を求める前に、冬城は答えた。
「施設は、感想で維持されません」
深く、乾いた声だった。
「維持費、耐震値、避難容量、使用責任。必要なのは、その四つです」
迅が小声で言った。
「人間が五つ目だな」
凱が隣で返した。
「冬城は、人間を使用責任へ入れている」
「入れる箱が違う」
「だから、今日開ける」
獅堂凱は白い外套を着ていない。
短く切った灰白の上着。左膝の黒い装具。胸に鐘も王冠もない。彼は警備責任者の名札を付け、証人路の幅を測っている。
「おまえ、城に似合うな」
「褒めていないな」
「似合うものが、本人に合ってるとは限らない」
「おまえは廊下に似合う」
「それは悪口か」
「出口が多い」
「なら褒め言葉だ」
午前九時。
三人の審理官が入廷し、全員が立った。
朝は立たない。
百舌忍も、右膝ではなく右手の感覚低下を示すため、両手を見える位置へ置いたまま座っている。
八城レムは右膝装具を固定し、立ち上がる代わりに上体だけを正す。
藍は限定閲覧室にいるため、公開席には姿がない。
シキの席には黒い覆いが置かれ、顔を映さない角度の衝立が立っている。
全員起立という言葉は使われなかった。
首席審理官が木槌を使わず、机上の時刻印を押した。
乾いた音が、旧城の天井へ上がった。
「六月十八日、午前九時零分。中央設備等公開事実審理を開始します」
真琴は立ち、五つの争点を読み上げた。
「本審理は、有罪または無罪の最終判決を行いません。刑罰を決定しません。国家制度の存廃を決定しません」
傍聴席がざわめく。
結論を求めて来た人間に、結論を出さないと最初に告げる。
それは人気のない仕事だった。
「では、何を決める」
別の声が飛ぶ。
真琴は声の方を見ない。
「誰が、いつ、何を承認したか。誰が監督し、何を知り、何を知り得たか。反証がどこからどこへ移されたか。同調命令と収容分類が、どの文によって運用されたか。記録が、いつ、誰により、どの範囲で変更されたか。事実を認定します」
「それで死者が戻るのか」
「戻りません」
真琴は言い切った。
「だから、戻るふりをする判決を本審理は出しません」
静かになった。
静けさは同意ではない。
忍が左手の二本指を横へ動かす。
《聞いている。賛成ではない》という、彼女が選んだ合図だった。
冬城が発言を求めた。
「異議はありません」
傍聴席の一部がさらにざわめく。
「中央設備の停止、同調事故、収容施設の分類逸脱、記録運用の不備。局地の誤りがあったことは、既に認めています」
真琴が尋ねる。
「局地とは、どこまでですか」
「承認された目的から外れた実施者の範囲です」
「中央承認が実施条件を作った場合は」
「目的と運用を分けます」
「反証転嫁を、承認された目的に含めますか」
「証拠提出後に答えます」
「同調命令は」
「同様です」
「収容分類は」
「同様です」
冬城は、問いを拒んでいない。
順番を指定している。
権力者は、答えない時より、答える順番を支配する時の方が強い。
冬城は続けた。
「中央設備は、病院の補助、上水、暖房、災害指揮、犯罪抑止、若年能力者の反証管理を行いました。停止後の地域手動運用が維持できたのも、中央が作った配管、台帳、教育を使用したためです」
「維持実績を、反証転嫁の適法性へ使いますか」
「使いません。事実として削らないよう求めます」
「承知しました」
真琴は冬城の言葉をそのまま記録係へ渡した。
申立人席の後ろで、七瀬がクランクを回す。
彼女は冬城の顔だけへ寄らない。医療担当。亀裂の入った銀具。空の証人席。時刻表示。全部を別々に撮る。
開廷前に決めた規則が、そこで最初に試された。
外周広場の中継責任者から、赤い確認札が上がった。
広場には法廷へ入れない千二百人ほどが集まっている。冬城を支持する銀傘の列、反証受領者の家族、中央設備を止めたことで仕事を失った工員、病院の利用者、ただ城を見に来た子どもまでいた。
中継画面は一枚。
音声は二系統。
正式文と平文は、左右へ同じ大きさで出す。
拍手、罵声、退出人数は、審理への賛否へ換算しない。
規則にはそう書いてある。
書いてあっても、機械が勝手に数えることがある。
「広場側の滞在人数表示を消してください」
真琴が言った。
中継担当が答える。
「避難容量の確認に必要です」
「内部記録へ残す。公開画面へ常時出さない」
「減った時、関心低下を隠したと批判されます」
七瀬が撮影台の横から言う。
「表示したら、人数が支持率になる」
「隠したら、都合の悪い離脱を消したと言われる」
「じゃあ、十分ごとに《安全管理人数》として出す。賛否へ使わないって同じ画面に」
「文字が増えます」
「人が増えるよりまし」
冬城側補佐官が立った。
「広場の人数は、公開審理の社会的信頼を示します。非表示は、関心の低さを隠す操作になり得る」
真琴は尋ねる。
「増えた場合、あなたは中央方針への支持として使いますか」
「必ずしも」
「減った場合、申立側への不信として使いますか」
「可能性はあります」
「なら、人数の用途が対称ではありません」
「申立側も使えばよい」
「二者が同じ誤用をすれば公平になる、という規則はありません」
冬城が補佐官を止めた。
「安全管理表示へ限定してください」
「異議は」
「あります。しかし、人数を政策支持へ用いると宣言していない以上、いま争う必要はない」
真琴は、冬城の譲歩を寛容として記録しない。
《広場人数表示――安全管理目的。十分ごと。賛否・信用性評価へ不使用》
次に、退出路の確認が行われた。
開廷中、傍聴者は理由を言わず退出できる。
再入場は空席がある場合だけ。
退出を抗議とも同意とも数えない。
迅が、右端の広い扉を開けた。
扉の外には、警備員ではなく二人の案内係がいる。
一人は中央城の元職員。
もう一人は零番街の洗濯場で避難案内をしてきた女性。
「なぜ警備員を置かない」
冬城側の警備責任者が尋ねた。
「出口で理由を聞かないためです」
真琴が答える。
「危険人物が退出する場合は」
「武器所持、具体的暴力、証拠持ち出しを確認した場合だけ、城外監査台へ連絡。政策的発言や罵声は、退出阻止の理由にしない」
「襲撃者を逃がす」
「出ようとする全員を襲撃者として止めれば、証人も傍聴者も人質になります」
迅が、扉の蝶番を一度動かした。
「重い」
「開けられますか」
「俺は」
「あなた以外は」
迅は答えず、広場から来ていた十二歳くらいの少年へ声をかけた。
「押してみる?」
少年の母親が先に警戒する。
「審理の試験に子どもを使うの?」
「断っていい」
少年は扉へ手を当てた。
押す。
動かない。
「重い」
「だな」
迅は、扉の下にある補助輪を出した。
もう一度。
今度は、少年一人でも扉が動く。
「補助輪が上がったままだった」
迅が言う。
元職員が顔をしかめる。
「開廷時の儀礼で、扉を重く見せるためです」
「儀礼は、避難より重い?」
「昔の規定です」
「今日、使ったのは誰」
元職員は、自分の名札を見た。
「私です。過去の開廷手順を、そのまま実施しました」
「直す?」
「補助輪を常時下ろします」
「誰が確認」
洗濯場の案内係が手を挙げる。
「一時間ごとに私。交代後は次の担当。札へ書く」
少年の母親が言う。
「子どもに押させたことも書いて」
迅は頷く。
「本人が試すと選んだ。母親が異議を出した。補助輪不使用を発見」
「名前は出さないで」
「出さない」
真琴は、退出路の手順へ追記した。
城の大きな争点が始まる前に、古い扉の小さな儀礼が一つ止まった。
冬城は、その様子を見ていた。
「一つずつでは、遅い」
彼が言う。
「はい」
真琴は答えた。
「しかし、遅いことを理由に、誰が補助輪を上げたか消さないための審理です」
「扉一枚と都市全体を同じにする?」
「同じにはしません。小さい扉で確認できなかった手順を、大きい都市なら自動的に正しくできるとも考えません」
冬城は反論しなかった。
正面の五争点へ、六つ目を足すこともしなかった。
退出扉の補助輪は、床へ下りたままになった。