第489話 第三章「転倒の波」前編

三月二十日 午前九時三分

 建物は、人より正直だ。

 重ければ沈む。

 押されれば歪む。

 限界を越えれば、音を出す。

 人間は限界を越えても「大丈夫です」と言う。

 その点だけは、鉄骨のほうが話が早い。

 伏見轟は、中央行政回廊の西側手すりへ右掌を当てた。

 振動。

 規則的な一拍。

 その上へ、別の細い震えが重なる。

「支柱の根元、浮いてる」

 犬飼豪が言った。

「三ミリ」

「見ただけで?」

「音」

「さっき、建物は正直って顔をしてたな」

「顔はしてない」

「お前の顔だ」

「今は鉄を見ろ」

 手すりの外側は、二メートル下の植栽帯。

 人が落ちれば、灌木と縁石が受ける。

 受ける、という言葉は優しい。

 実際には折るか、裂くか、止めるかだ。

 C区画の後方で、前から来た転倒波と、後ろから続く歩調がぶつかっている。

 三人が手すりへ挟まれていた。

 一人目は右肩。

 二人目は胸。

 三人目は腰。

 救助員は、手すりを切ろうとしている。

「切るな」

 轟が言う。

「胸部圧迫です!」

「切ったら支柱が外へ倒れる」

「では、どうする」

「人を離す」

「離れません!」

「手すりを近づける」

 救助員が轟を見る。

「日本語を壊しました?」

「手すりの根を、内側へ三センチ倒す。圧が一度抜ける」

「倒したら元に戻らない」

「戻す」

「どうやって」

「今から作る」

 轟は工具袋を開いた。

 左肩は、手術から一年以上が過ぎても、頭上で荷重を保持する動作を許さない。

 治った、という言葉は、元どおりという意味ではない。

 以前とは違う方法で使える、という意味だ。

 彼は右手で短い油圧押し器を取る。

 左手は、胸の高さより下で支えるだけ。

「豪。外した柵、一本」

「何にする」

「梃子」

「壁の次は梃子。柵も人生が忙しいな」

「お前は支点」

「俺、人間だぞ」

「今は一番重い物」

「褒め方が下手だな!」

 豪は笑いながら、柵の端へ腰を落とした。

 右膝の装具が鳴る。

「膝」

 轟。

「曲がる。深くは無理」

「三十度」

「四十」

「三十五」

「値切るのかよ」

「壊れる物は、先に値切る」

 轟は豪の踵位置へ白墨を引いた。

「ここより後ろへ行くな」

「前は」

「俺が言うまで行くな」

「結局、動くなじゃねえか」

「お前だけ」

「はいはい。犬飼豪だけ、ここで止まります」

 自分の名を言う。

 広場では、誰かの動作がすぐ他人へ移る。

 だから、一人だけの作業であることを先に示す。

 轟は支柱根元の化粧板を外した。

 ボルト二本。

 錆びていない。

 ただし、床振動板の反復で、アンカー周囲のモルタルが砕け始めている。

 設計上は毎分九十六歩まで耐える。

 人が整然と歩く場合には。

 転倒者が手すりへぶつかり、立位者が同じ方向へ押し続ける荷重は、設計表にない。

「表にない力は、力じゃないと思う人がいる」

 轟が言う。

「役人か?」

 豪。

「技師にもいる」

「お前は」

「表を直す」

「先に人を直せ」

「人は直さない。助ける」

「言葉が細かい」

「壊したのが人なら、直すと言うな」

 油圧押し器を床と支柱の間へ入れる。

 救護員へ告げる。

「三人へ、手すりが内へ動くと説明」

「意識が」

「一人ずつ」

 一人目。

 意識あり。右肩圧迫。動かすと痛む。

 二人目。

 呼吸浅い。返事は瞬き。

 三人目。

 腰部痛。自力で左足を引ける。

「三人目から」

 救護員が言う。

「いや、二人目」

「意識が薄い」

「だから呼吸を先に作る」

「一人目の肩は」

「手すりが動く方向と反対へ支える」

 轟は白墨で床へ三本の矢印を描く。

 矢印は同じ方向ではない。

 一人目は斜め左。

 二人目は真後ろへ二十センチ。

 三人目は右足だけ先に抜く。

「全員、一緒に引かない」

「合図は」

「それぞれ別」

「時間がかかります」

「同時に引いたら、全員の傷が増える」

 救護員は頷いた。

 頭上音声が言う。

《C区画は歩幅を小さくしてください》

 轟が顔を上げる。

「誰だ、全員へ言ったのは」

 区画の人々が、一斉に歩幅を狭めようとする。

 前の人の踵へ近づく。

 密度が上がる。

「音声止めろ!」

 豪が叫びかける。

「お前だけ喋れ」

 轟が先に言った。

 豪は息を呑み、声量を落とした。

「……俺の前の四人だけ。足を動かすな。肩へ触らない。聞こえたら、俺を見なくていい」

 四人のうち二人が止まる。

 一人は動き続ける。

 一人は聞こえていない。

 それでいい。

 全員を同じにしないことが、今の統制だった。

 御厨朝がC区画へ到着した。

 象牙色の上衣の裾に土。

 歩幅が左右で違う。

「今の放送は」

 轟が訊く。

「管制の定型文。取り消しました」

「取り消しが届く前に、人が動いた」

「記録します」

「直せ」

「直すために来ました」

「紙はあと」

「紙をあとにした結果が、今です」

 二人は一秒、互いを見る。

 豪が言った。

「喧嘩するなら、支柱を挟んでくれ。倒れなくなる」

 朝は手すりの根元へしゃがんだ。

「必要な命令は」

「命令じゃない。三人へ別々の合図」

「区画全体には」

「振動を二拍抜け。規則が崩れる」

「二拍だけ?」

「止めるんじゃない。予測できなくする」

「転倒が増える可能性」

「同じ拍を続ければ、圧が増えるのは確定」

「根拠」

「ここ」

 轟は砕けたモルタルを朝の掌へ置いた。

「建物の証言」

 朝は粉を見た。

 青い指先が、灰色になる。

「C振動板。次の十二秒間で、第四拍と第九拍を抜く」

 通信へ告げる。

《不規則化は誘導事故を》

「現場技師の判断です」

《責任者名》

「伏見轟」

 轟が言う。

「御厨朝が認証」

 朝が続ける。

「犬飼豪が支点」

 豪。

 通信の向こうで、誰かが息を吸った。

《最後は役職では》

「支点は役割だ」

 轟。

《了解》

 床の振動が続く。

 一。

 二。

 三。

 四が来ない。

 人々の足が、同時に迷う。

 だが、五で戻る。

 九が消える。

 前の人へ合わせようとした身体が、少しずつ別の時刻を選ぶ。

「今」

 轟は押し器を動かした。

 支柱が内側へ九ミリ。

 二人目の胸へ、指一本分の隙間。

「二人目、息を吐いて。吐いたら後ろへ」

 救護員が言う。

 瞬き。

 吐く。

 布が引かれる。

 二十センチ。

「止め」

 轟。

 一人目の右肩を支える。

「肩は上げない。身体を左へ三センチ」

「痛い」

「痛いまま止める?」

「動く」

「誰が」

「私が」

「今?」

「今」

 一人目が自分で身体をずらす。

 救護員は支えるだけ。

 三人目の右足が抜ける。

 豪が支点の位置を守る。

 右膝が震える。

「豪、交代」

「まだ持つ」

「持つかじゃない。白線を越えた」

 豪の踵が、白墨から二センチ後ろへずれていた。

「二センチだ」

「二センチで膝は言い訳しない」

「言い訳する膝なら、もっと話し相手になった」

「交代」

「誰と」

 轟は近くの作業員を見る。

「石上忠」

 五十代の石工が前へ出た。

「俺は豪ほど重くない」

「荷車の車軸を足す」

「人より道具を信じる顔だ」

「道具は自分を過大評価しない」

「豪に聞かせるな」

「聞いてるぞ!」

 豪は笑いながら支点を譲った。

 役割を渡すことは、敗北ではない。

 持ち続けるより難しい仕事もある。

 三人が手すりから離れた。

 轟は支柱を戻す。

 完全には戻さない。

 仮固定を入れ、赤札を付ける。

《荷重禁止》

《午後一時再点検》

《解除責任――伏見轟》

 朝が札を見る。

「午後一時に終わっていなければ」

「延長理由を書く」

「誰が」

「俺」

「不在なら」

「石上」

「石上さんが拒否したら」

 石上忠が言う。

「拒否する。俺は午後から墓石の仕事だ」

 朝は一拍置く。

「では代替を決めるまで、解除不可」

「それならいい」

 轟が赤札へ追記した。

 手すりから助け出した三人のうち、二人は救護帯へ。

 一人はその場へ座った。

「歩けます」

 本人が言う。

 救護員が手を差し出す。

「介助します」

「いらない」

「転倒歴が」

「今は座る」

「搬送が」

「座る」

 轟は近くの床板を一枚外し、植栽帯の縁へ置いた。

「ここ」

「何です」

「座る場所」

「そんな設備は」

「今できた」

 本人は床板へ座った。

 朝が時刻を書く。

《09:11:42 C区画。本人選択による停止。介助拒否。再確認時刻未定》

「未定でいいのか」

 轟。

「本人が今は決めていない」

「役所らしくない」

「役所は、未定を空欄にすると決定済みにします」

「それは建物より嘘がうまい」

「人ですから」

 C区画の圧が少し下がる。

 しかし、回廊全体はまだ動いている。

 F区画から、激しい金属音。

 連絡橋の床板が、一枚浮いた。

 同じ時刻、B区画の階段で、車椅子の前輪が振動溝へ落ちる。

 事故は、一か所で起きたから一つとは限らない。

「次、どっちだ」

 豪が訊く。

 轟は耳を澄ませる。

 Fの床板は、あと数分持つ。

 Bの前輪は、後ろの圧が増えれば転落する。

「B」

「Fは」

「俺が行かない」

「誰が」

「構造図を送る。現場の技師がやる」

「お前なら早い」

「俺が二人いない」

「前に、お前は門を一人でやってただろ」

「だから肩を切った」

 轟は左肩へ触れない。

「一人でできることを、一人でやるな。後で一人しか残らない」

 豪は笑わなかった。

「了解」

 朝が通信器を差し出す。

「Fの技師へ」

 轟は受け取らない。

「俺の声を全員へ流すな」

「個別回線です」

「名前」

《F区画保守、梅野紺》

 通信から女性の声。

「梅野。床板の音、三拍目だけ高いか」

《二拍目と三拍目の間》

「固定爪じゃない。下の横桁。人を右へ寄せるな」

《左は配管》

「配管を守るな。人を配管から二十センチ離して、床板の上へ荷物を置け」

《荷物を?》

「軽い荷物を散らす。踏んではいけない印にする」

《全員へ命令?》

「一人ずつ。近い者から」

《了解》

「分からなければ止めろ。分かったふりが一番重い」

《それ、記録語ですか》

「今なった」

 通信が切れる。

 轟はB区画へ向かう。

 豪が隣へ並ぼうとする。

「ずらせ」

「歩幅?」

「そう」

「お前のほうが長い」

「だから同じにするな」

 豪は一歩目を短くした。

 轟は二歩目を長くした。

 朝は、その後ろを歩いた。

 B区画の車椅子は、階段の七段目で斜めになっていた。

 右の前輪が振動溝。

 左は段鼻。

 乗っている野々村葉の身体は、胸ベルトで止まっている。

 止まっているのは落下だけで、痛みではない。

「腰は触るな」

 轟が近づく前に、葉が言った。

「聞いた」

「誰から」

「本人」

「今が最初だろ」

「今聞いた」

「そういう言い方、嫌いじゃない」

「評価は後」

 轟は階段へ膝をつかない。

 右足を一段下。

 左は横。

 左肩を胸より上へ上げず、前輪を見る。

「溝幅、三十一ミリ。車輪、二十八」

「数字が合ってない」

 豪。

「落ちる数字だ」

「何キロ持つ」

「人を持たない」

「車椅子を」

「葉さん。車体を傾ける。身体は胸ベルトと牧田さん。いい?」

「前へ倒れない?」

「右輪を一センチ上げ、左を後。前へは上げない」

「誰が」

「右、俺。左、駅員。牧田さんは肩。豪は後ろの圧を止める」

「豪が一番楽そう」

「後ろは三十人いる」

「俺が一番大変だな」

「声は小さく」

「分かってる」

 豪は階段下へ向き直る。

「犬飼豪だけ、ここで壁になる。前へ来たい人は、俺へ押し返される。嫌なら、自分で止まれ」

「脅しです」

 朝が言う。

「じゃあ、どう言う」

「私は、ここから先へ入る人を受け止める。触れられたくない人は、手前で止まるか、壁側へ。押し返す可能性があります」

「長い」

「言って」

 豪は一度、息を吸う。

「……犬飼豪だけ、ここで人を受ける。触られたくない奴は、手前か壁。来たら押し返すことがある」

「受ける、は抱く?」

 前列の女。

「抱かない。肩か前腕。嫌なら、どこへ触っていいか言え」

「触るな」

「じゃあ、そこ」

 女は壁へ寄る。

 別の男が言う。

「胸は駄目。腕」

「右?」

「左」

 豪は一人ずつ受け方を変える。

 轟は車輪へ薄い金属板を差し込む。

「葉さん。胸ベルト、締める」

「今」

「締める人」

「私」

 葉は自分で帯を引く。

「牧田さん。肩」

「触る」

「いい」

「右輪」

 轟。

「今」

 葉が合図する。

 前輪が一センチ上がる。

 左輪を、駅員が半センチ戻す。

 溝から抜ける。

 同じ時に上げない。

 車椅子は水平へ戻る。

 葉の呼吸が深くなる。

「上へ?」

 朝が訊く。

「今は下」

「変更」

「足が床へ戻ったら、上へ行く理由が消えた」

「受領」

 牧田と葉は階段を下りる。

 車椅子を後ろ向きにしない。

 本人の視界を奪わないため、簡易板を段へ渡し、前向きで一段ずつ。

「時間が」

 駅員が言う。

「あなたの名前」

 朝。

「古橋巡」

「古橋さん。急ぐ理由」

「列車の出発」

「誰の列車」

「AからHの移動者」

「本人たちへ、遅らせるか確認した?」

「全員には」

「できない」

「では、どうする」

「まず、安全上必要な延期を、あなたの名前で出す。その後、搭乗を続ける人へ確認」

「私が決める?」

「駅側責任者として」

「王や調停官ではなく?」

「はい」

 古橋は顔をしかめる。

「嫌な役ですね」

「役ではなく、仕事」

「同じでは」

「役は拍手で終われる。仕事は翌日も残る」

 鐘巻十夜がいれば喜びそうな台詞だ、と朝は思う。

 口には出さない。

 古橋は列車延期の仮票を作る。

 氏名。

 時刻。

 理由。

 再確認。

「十五分」

「十五分で足りなければ」

「延長」

「自動?」

「しない。十分快で再確認」

「受領」

 轟は階段の振動溝へ、仮の充填板を入れる。

「何時間」

 朝。

「今日中。恒久ではない」

「撤去」

「列車運行終了後」

「事故が続けば」

「延長理由」

「誰」

「俺」

「あなたが別現場なら」

「古橋」

 古橋が驚く。

「私?」

「駅の床だ」

「技術資格が」

「撤去判断は俺へ連絡。札の保全と、人を乗せない責任は駅」

「受けます」

 轟は充填板へ赤札を付ける。

 その時、F区画から梅野紺の通信。

《横桁、亀裂拡大。右側床板を外す必要》

「人は」

 轟。

《床板上、現在ゼロ。周囲に十二》

「十二へ、外すと説明」

《全員へ?》

「一人ずつ。床板の近い順。反対があれば理由」

《床は公共物》

「公共物だから、誰の反対も無効にはしない。だが危険なら外す。反対は記録」

《分かった》

「分かった範囲」

《十二人へ説明。床板を外す。仮橋は荷物板二枚。右側は閉鎖。床板は保守棚へ。午後二時に再点検》

「実行者」

《梅野紺、佐治博、オト》

「オトは」

《本人が呼ばれたい名》

「受領」

 遠隔で指示する轟は、手を出せない。

 現場の音を聞く。

 質問へ答える。

 分からない時は、分からないと言う。

《ボルトが回らない》