第490話 第三章「転倒の波」後編
「潤滑」
《ない》
「石鹸水」
《足元に洗浄桶》
「濃度を薄く。床へこぼすな」
《どれくらい》
「指で伸びる程度。数値は今出せない」
《技師が、数値なし?》
「現物を見てない。嘘の数値よりまし」
《了解》
Bの車椅子が下へ着く頃、Fの床板が外れる。
二つの現場。
轟の身体は一つ。
一つだから、現場を自分の手へ集めない。
「お前、前ならFへ走ってたな」
豪が言う。
「前なら、左肩で床板を持った」
「今は」
「梅野が持つ。俺は聞く」
「悔しい?」
「少し」
「正直だな」
「建物は正直」
「お前は人間だ」
「だから、少しだけ」
轟は充填板を踏まず、横へ避ける。
豪は同じ方向へ避けない。
朝も、二人と違う歩幅で後ろへ続く。
D区画から、床を叩く音が三つ届いた。
短い。
長い。
短い。
救難符号ではない。
「何だ」
豪が右膝をかばいながら振り向く。
「床下の保守員」
轟は靴底を外向きに置き、振動を受ける。
もう一度。
短い。
長い。
短い。
「同じ」
「助けて、じゃないのか」
「救難なら二、二、長い」
「床下の人は、みんなお前と同じ辞書を持ってる?」
「持ってない」
「じゃあ、分からないじゃないか」
「だから訊く」
轟は工具の柄で床を一度だけ叩いた。
返事は、四回。
間がばらばらだ。
「会話になってる?」
「なってない」
「安心した。俺だけ分からないのかと思った」
D区画の荷車を止めていた鈴が、床へ耳を寄せようとした。
「やめろ」
轟。
「なぜ」
「上から荷重が来る」
「じゃあ、どう聞く」
馬瀬鈴は、荷車の木製の柄を床へ当て、反対側へ指を置いた。
「これなら」
「いい」
「建物は正直なんでしょ」
「人を挟むと、少し嘘をつく」
「失礼」
「だから、二人で聞く」
鈴の指先へ、細かな振動が伝わる。
「三回じゃない。途中に、擦る音」
「どの方向」
「北から南」
轟はD区画の床図を思い出す。
床下に、保守用の滑り板がある。
人が入る高さではない。
「人じゃない」
「じゃあ何」
「振動板の固定具。緩んで、周期ごとに擦ってる」
「今、直す?」
「止める」
「直すのと違う?」
「原因を確定する前に締めると、亀裂を隠す」
轟はDへ通信する。
「床下へ入るな。上から荷重を抜く。荷車を三十センチずつ、ばらばらに動かす」
《ばらばら?》
「同じ時刻に押すと、板へ同じ周期が入る」
《順番》
「決めない。前の荷車が止まったのを見て、次が自分で」
《遅い》
「速く壊すより」
最初の荷車が動く。
三十センチ。
次はすぐに動かない。
押し手が、足元の人を先へ通す。
三台目が先に動いた。
決めた順番ではない。
それでも、荷重は減る。
床の擦る音が弱くなる。
「止まった?」
豪。
「弱くなった。止まってない」
「失敗?」
「情報が増えた」
鈴が言う。
「技師は、失敗を言い換えるんだ」
「言い換えてない。止めるだけなら固定具。荷重で弱くなるなら、板の支持」
「つまり」
「原因候補が一つ減った」
「それを成功と呼ばないの」
「人がまだ歩いてる」
轟は、Dの中央にいる若い作業員へ訊く。
「床板を直した経験」
《ありません》
「荷車の重量を量った経験」
《市場で》
「今の台数と、中身」
《六台。水二、空一、毛布一、工具一、人一》
「人?」
《歩けない人が》
「先に言え」
《助けようとして》
「怒ってるんじゃない。荷重計算が変わる」
《降ろします》
「本人へ訊け。降ろす場所と、触れていい位置」
返事まで、少し時間がかかった。
《荷車のまま。工具車を先に外す》
「受領」
人を荷重の数字に入れながら、物のようには扱わない。
その矛盾を、計算から消さない。
工具車が外れる。
擦る音が止まった。
豪が笑う。
「今度は成功?」
「停止を確認。原因確定はまだ」
「お前、褒めにくいな」
「建物を褒めろ」
「床、よく耐えた」
鈴が柄を通して聞く。
「返事は?」
「建物は喋らない」
「さっき正直だって」
「嘘はつかない。愛想がない」
「轟と同じ」
豪が言った。
轟は否定しなかった。
BとFの応急処置が終わると、中央保守班から恒久修理の申請書が届いた。
《手すり支柱交換》
《振動溝充填》
《連絡橋床板固定》
すべて、今日中。
「恒久?」
轟が紙を見た。
「再発防止です」
保守班の男が言う。
「誰が、今後もここを同じ人流へ使うと決めた」
「中央回廊ですから」
「同期を続けるかは未定」
「設備は先に直さないと」
「元どおりへ直すのは、元の運用を決めることになる」
「壊れたまま置く?」
「安全な仮固定。人が戻れる。外せる。今日の事故検証を邪魔しない」
「仮設は危険です」
「恒久も危険だった」
「仕様の問題ではなく、運用」
「だから、運用が決まる前に仕様を固定するな」
男は申請書を引かない。
「技師として、壊れた物を直す責任が」
「俺にもある」
「なら」
「直す、は元に戻すことじゃない」
轟は手すりの赤札を見せる。
仮受け。
荷重禁止。
再点検。
「人が触れない状態。支柱は保全。亀裂を隠さない。これで今日の安全は作る」
「明日は」
「今日の記録を見て決める」
「遅い」
「工場で、止めずに直して人を傷つけたことがある」
「あなたが?」
「俺だけじゃない。だから、俺だけの反省で決めない」
「では誰へ」
「ここを使う人。駅。救護。清掃。車椅子。保守。警備」
「全員を集める?」
「代表を勝手に決めない。仕事ごとに訊く」
「会議だけで日が終わる」
「会議中に壊れない仮設を、今作る」
男は、少しだけ申請書を下げる。
「名を」
朝が訊く。
「保守班、佐治博」
「佐治さん。恒久修理を急ぐ理由」
「明日の朝、また人が通る可能性」
「明朝の通行は、確定していない」
「確定してから修理では、間に合わない」
「では、二案を」
「仮設と恒久?」
「仮設で通行を制限する案。恒久修理して元の幅を戻す案。費用、時間、検証への影響、撤回可能性」
「三案目は」
「通行経路を廃止」
「それも?」
「誰かが選ぶなら」
佐治は考える。
「廃止すると、駅へ遠回り」
「距離」
「七百メートル」
「車椅子では」
「勾配あり」
「では、その負担も」
「全部書くのか」
「全部は無理。書けない項目を残す」
佐治は申請書の裏へ、三案を書き始める。
轟が言う。
「仮設材は、外した青柵を使う」
「また転職?」
豪。
「次は梁」
「柵のほうが俺より出世してる」
「お前は支点、壁、介助、荷物預かり」
「十分、働いてるな」
「右膝を休めろ」
「今は一」
「痛みが一でも、疲労は別」
「誰が確認」
「自分と、俺」
「お前も休め」
「左肩は使ってない」
「目が使いすぎ」
「目?」
「全部見ようとしてる」
轟は返事をしない。
建物は正直だ。
人間は「全部見える」と嘘をつく。
轟も人間だった。
「佐治」
「何です」
「Fの再点検、俺だけじゃなく、お前も」
「私が?」
「恒久案を出した。現物を見る」
「CとBは」
「別の技師」
「責任が散る」
「消えないよう、名前を残す」
佐治は頷く。
「受けます」
工具袋を閉じる前に、轟は仮設材へ三枚の札を結んだ。
赤――触れるな。
青――点検済み。
黄――次の確認が必要。
豪が札を見比べる。
「青と黄色が同じ場所にある」
「今は持つ。次の荷重は未確認」
「安全なのか危険なのか、どっちだ」
「今の条件では安全。条件が変われば不明」
「住民向けの説明じゃない」
「じゃあ、言い直す」
轟は近くにいた浅海スエへ訊く。
「この手すり、今は体重を掛けないなら横を通れる。明日の人流では、まだ使えると決めてない」
「明日は通れない?」
「分からない」
「分からない札は何色」
「黄色」
「青は」
「今の作業が終わった」
「赤は」
「触れない」
「なら、黄色を真ん中へ」
「理由」
「赤と青は答え。黄色は質問。質問を最後にすると、みんな答えだけ見る」
轟は札の順を変えた。
黄。
赤。
青。
「技師の並べ方と違う」
「洗濯札は、乾いてない物を一番上にする」
「ここは洗濯場じゃない」
「だから、住んでる人に読みにくい」
佐治博が三案を書き終え、近づいて来る。
「黄色を先頭に?」
「スエさんの案」
「規格外です」
「規格へ、質問を先にする欄は」
「ありません」
「じゃあ、追記」
佐治は迷った。
「規格を現場で増やすのは」
「恒久にしない。今日の説明順」
「期限」
「次の点検まで」
「時刻を」
「十八時」
朝が記録する。
「確認者」
「佐治と俺」
「利用者側」
スエが手を上げる。
「私。十八時に来られなかったら、中尾弦」
「本人へ確認」
「今する」
スエは通信器を借り、中尾へ訊いた。
返事は、受ける。
轟は、自分が一人で全部を見るより、面倒な線が一本増えたことに安堵した。
面倒は、責任がまだ誰か一人の英雄へ集まっていない証拠でもある。
轟は初めて、工具袋を閉じる。
閉じても、事故は終わらない。
ただ、自分一人の手から、次の仕事を離した。
三人の靴音は、合わなかった。
合わない音が増えるたび、回廊の床は少しずつ建物の音へ戻っていった。