第491話 第四章「一人ずつ止める」前編
三月二十日 午前九時二十二分
能力を失った後、水科イオは、他人の能力を数える癖をやめた。
正確には、数えないよう努力している。
人は、失くした物ほど他人の手元で目につく。
傘を忘れた日は、街中の傘が立派に見える。
右腕の強化を失った日は、誰もが簡単に重い扉を開けているように見えた。
今は、千二百四人の歩幅が目につく。
同じ歩幅にされているからではない。
同じにできない理由が、一人ずつ見えるからだ。
イオは中央回廊のC区画とD区画の境へ、木箱を五つ並べた。
高さが違う。
色も違う。
材質も違う。
統一感はない。
「救助設備としては、ひどい見栄えだね」
鐘巻十夜が言った。
胸元の上衣の下に、植込み型除細動器の輪郭がうっすら浮く。
以前より細くなった身体を、言葉の軽さで大きく見せる癖は変わらない。
「見栄えで助かるなら、あなたを入口へ立たせる」
イオ。
「俺の顔は非常口ほど明るい?」
「非常口は、黙っていても役に立つ」
「今日も愛情表現が硬い」
「心臓を鳴らすほど笑わないで」
「それを言われると笑えない」
「目的達成」
十夜は胸へ手を当てた。
「作動なし」
「自覚だけで決めない。あとで検査」
「医者みたい」
「医者ではないから、医者へ渡す」
木箱の一つには、厚い毛布。
一つには、水。
一つには、耳栓と遮光布。
一つには、手すりへ結ぶ短い索。
最後の一つは空だった。
空の箱の側面へ、イオは白墨で書く。
《何もされない場所》
「設備名としては、もっとひどい」
八城レムが言った。
右膝の装具を二本の帯で固定している。
歩く時、右足をわずかに外へ振る。
走らない。
走れないことを隠すために早口になる癖も、少し減った。
「何をする箱?」
「何もしない」
「物理的には」
「座る。触られない。運ばれない。質問は一つずつ」
「箱へ入る?」
「横へ座る。箱は目印」
「名前が長い」
「短くすると、用途が増える」
「君、能力を失ってから説明が長くなった?」
「能力があった時は、止めれば説明しなくてよかった」
「後悔?」
「便利だったとは思う。正しかったとは、まだ決めてない」
レムは空箱へ腰を下ろしかけ、装具を見てやめた。
「俺も、何もしない場所を使いたい」
「座面を付ける」
「今?」
「今」
イオは空箱へ板を渡した。
百舌忍が、白と黒の手袋を左右で違えて着けた手を上げる。
左手――白。
右手――黒。
白い指で、自分の胸。
黒い指で、回廊。
携帯板へ打つ。
《声を使わない案内を、全部同じ手信号にすると、また同期する》
「正解」
イオ。
忍は続ける。
《音、光、床、手信号を、区画ごとに変える》
十夜が腕を組む。
「みんなで違う合図を出す。統一感のない楽団だ」
《指揮者がいない》
「それは楽団じゃなく、近所迷惑だね」
《今日は、それで助かる》
「名言を文字で取られた」
イオは床へ地図を広げた。
AからH。
八区画。
現在の状況が、違う筆記具で書き込まれている。
A――駅構内と広場へ分断。前方流入停止。
B――階段。車椅子一台の前輪拘束。転倒二十一。
C――手すり挟圧解除。局所停止帯作成。
D――荷車による物理区切り。転倒波減衰。
E――初発事故。負傷者抽出中。
F――連絡橋床板浮上。片側通行不可。
G――音声停止。光誘導継続。
H――光停止。低音打撃継続。
「これを一つの命令で直せと言われたら」
イオが言う。
「病気の名前を全部『痛い』にするようなものだ」
十夜。
「詩的」
「病院で覚えた」
「患者は詩人にならなくていい」
「医療費が高いから、せめて比喩くらい持ち帰る」
レムは地図の端を押さえた。
「Gが危ない。音を切ったから、前の肩を見る人が増えてる」
「どこを見て分かる」
「肩の上下。全員が同じ人の揺れを参照してる」
「行ける?」
「歩ける。走らない」
「一人で?」
「忍と。合図を二種類にする」
忍が首を振る。
《三種類》
「理由」
《私の手信号を見られない人がいる。レムの身振りを役として真似する人もいる。触覚札を足す》
「誰が触れる」
《本人が選ぶ》
イオは頷く。
「行って。装具の痛みが四以上なら戻る」
「四の基準は」
「今の自分」
「昨日の四と違っても?」
「違っていい」
レムは笑う。
「前の俺なら、きれいな基準を作った」
「前のあなたなら、走って膝をまた切った」
「そこは、きれいに言わなくていい」
二人がGへ向かう。
十分後、イオはG区画へ行った。
歩く速度は、人へ合わせない。
左右で違う靴音を、わざと隠さない。
G区画では、頭上音声が切られている。
床の光だけが残る。
人々は光を見る代わりに、前の人の肩を見るようになっていた。
肩。
背中。
荷物の揺れ。
光を止めても、参照先が一つなら同期は続く。
レムは、右膝装具を見せたまま、列の横へ立っている。
「俺を真似しないで」
最初に言う。
「なぜ」
前列の女。
「右膝を切った。俺の歩き方は、あなたの身体に合わない」
「案内役なのに」
「案内は、同じ歩き方を見せる仕事じゃない」
「じゃあ、何を」
「あなたが今できる動作を、邪魔しない位置にいる」
「分かりにくい」
「俺も練習中」
レムは格好よく言い切らない。
忍は白い左手袋で、肩へ触れてよいか訊く。
相手が首を振る。
黒い右手で、触れないことを示す。
次の人は、肩ではなく肘。
その次は、触覚札だけ。
手信号は人ごとに変える。
ただし、完全に即興では混乱する。
忍は小さな板へ、三つだけ書いた。
《触る》
《見せる》
《待つ》
本人が一つ選ぶ。
同じ《待つ》でも、待ち方は違う。
立つ。
座る。
目を閉じる。
壁へ指一本。
「手信号をそろえないなら、覚えられない」
現場係の松任谷槙が言う。
忍は板へ打つ。
《救助者が覚える。被救助者へ、こちらの文法を強制しない》
「救助者が間違える」
《間違えたら訊き直す》
「時間が」
《間違えたまま運ぶ時間より短い》
松任谷は口を閉じる。
イオが言う。
「反論があるなら、続けて」
「現場係は交代します。次の人へ全部伝わらない」
「だから、本人側へ札を残す」
「個人情報が」
「動作条件だけ。名前、病歴、目的地は別」
「札を落としたら」
「本人へ再確認」
「意識がなければ」
「医療上の代行条件。歩行同意にはしない」
「全部、例外」
「人が例外なんじゃない。規則が狭い」
イオは、自分の右腕を上げる。
能力があった頃より細い。
通常の筋力しかない。
「私は、前なら『止まる時刻』を一つ決めた。今は、その時刻を使えない。使えないから、例外が見えるんじゃない。前からいた。私が見てなかった」
「能力を失った人の教訓?」
松任谷。
「私一人の失敗。全員へ配らない」
レムが笑う。
「教訓も同期するから?」
「美しい失敗談は、使いやすい命令になる」
「役者に厳しい」
「舞台でやるなら、観客の退出路を先に」
レムは肩をすくめる。
その動作を、前列の少年が真似した。
レムはすぐに腕を下ろさない。
「今、俺を真似した?」
「違う」
「自分で肩を動かした?」
「肩が痛い」
「どこ」
「左」
「医療へ?」
「行かない」
「理由」
「置いていかれる」
「ここで確認できる人を呼ぶ?」
「列は」
「あなたが戻るまで、場所を残す」
「本当に」
「松任谷さん」
レムが現場係へ向く。
「場所を残せる?」
「名簿上は、通過順が」
イオが割り込まない。
松任谷が自分で言い直すのを待つ。
「……通過順を保留にする。戻った時に、前後の本人へ説明して、位置を選び直す」
「俺が戻らなかったら」
少年。
「空欄にしない。本人が離脱した時刻と、再確認先を書く」
「名前は」
「言いたくなければ、G左肩」
「変」
「今だけ」
「受領」
少年は肩の確認を受ける。
レムの動作を真似たのではない。
肩が痛かった。
同じ動きに見えても、理由は違う。
理由を訊かずに同期と決めつければ、ばらばらにすることもまた一つの強制になる。
忍が、イオへ板を見せる。
《違う動きをさせることが目的になっていないか》
イオは読み、答える。
「なりかけてる」
《基準》
「同じにしたい人は、同じでもいい。本人が選んだなら」
近くの夫婦が、互いの腕を組んで同じ歩幅で進んでいる。
レムは止めない。
「二人とも、それを選んだ?」
「選んだ」
「途中で外したくなったら」
「言う」
「相手が嫌がったら」
「それでも外す」
「受領」
二人は同じ歩幅のまま進む。
同期を壊すことは、同じ動作を禁じることではない。
同じでいる人が、途中で違える権利を残すことだった。
イオはCへ戻る前に、Gの暫定札へ書く。
《同じ歩幅の自発選択を禁止しない》
《変更時、相手の同意を条件にしない》
《外見上の同一動作だけで、同意・同期・強制を判定しない》
「規則が増えた」
松任谷。
「三月三十日で失効」
「その後」
「必要なら、本人たちが作り直す」
「あなたは」
「もういないかもしれない」
「どこへ」
「分からない」
能力を失った後の将来を、イオは立派な進路へまとめない。
今は、C区画へ戻る。
それだけ決めた。
歩調は合わない。
レムは右を外へ回す。
忍は左右の手袋を交互に前へ出し、人へ「同じではない二人」を見せる。
イオは十夜へ言う。
「Dへ」
「俺の役は」
「呼吸」
「役者に呼吸を頼むとは、贅沢だ」
「四拍吸って四拍吐く、は駄目」
「同期するから」
「一人ずつ違う長さ。話しながら。歌わない」
「歌唱休止中の人へ、歌うなと言う親切」
「親切は断れない時に命令になる」
「誰の台詞?」
「朝」
「盗んだ?」
「引用」
「本人へ払う?」
「調停官の名言料は公費?」
「それは揉めそうだ」
十夜はDへ向かった。
走らない。
胸を押さえない。
しかし、歩く速度は自分で決める。
イオは残った地図を見る。
C区画から、担架が一台出てくる。
担架上の男性は目を開けている。
「どこへ運ぶ」
イオが訊く。
「北救護所」
救護員。
「本人へ聞いた?」
「頭部打撲です」
「聞けない?」
「今、質問すると」
担架上の男性が言う。
「聞こえてる」
救護員が止まる。
「北救護所へ搬送します」
「そこしかない?」
「重傷は北です」
「俺、重傷?」
「頭部出血が」
「意識ある」
「意識があっても」
イオは割り込まない。
説明を急かすと、別の命令になる。
救護員が言い直す。
「出血が続いています。北救護所には縫合設備があります。ここへ残ると、再出血時の処置が遅れます。行かない選択もできます。ただし、私は勧めません」
「家族に場所を知らせない?」
「本人の同意なしには」
「なら北」
「受領」
救護員は、本人が選んだ時刻を札へ書いた。
担架が動く。
その後ろに、歩ける女性が続こうとした。
「私も北へ」
「負傷は」
「一緒にいた人が」
「家族?」
「違う」
「付き添い枠は」
「一名です」
「行きたい」
「本人へ確認を」
担架の男性が目を閉じた。
「今は、誰にも来てほしくない」
女性の足が止まる。
止まったのは、命令されたからではない。
しかし、拒否された痛みは残る。
「じゃあ、ここにいる」
「どこ」
イオが訊く。
「……ここ」
「ここは通路。何もされない場所へ行く?」
「何、それ」
「座れる。運ばれない。話したくなければ話さない」
「誰か来る?」
「来ないようにする。水は置く」
「何分」
「自分で決める」
「十五分」
「十五分後、誰が訊く」
「あなた」
「名前」
「水科イオ」
女性は空箱の横へ座った。
イオは時刻を書く。
同じ頃、C区画の前方で、再び足がそろい始めた。
管制の音声ではない。
人々が、前の人へ合わせている。
転倒が怖いから。
違う動きをするとぶつかるから。
安全のために、同じに戻ろうとする。
危険な規則は、機械を止めても人の身体に残る。
御厨朝がC区画へ入ってきた。
「現在、何人が自力停止できますか」
「質問が悪い」
イオ。
「理由」
「自力、が何を指す。立ったまま止まる? 座る? 支えを使う? 他人に触られない?」
「では、停止方法を」
「一人ずつ訊く」
「百五十一人」
「百五十一通り」
「時間がありません」
「時間がない時に一つへまとめて、今こうなった」
朝は唇を結んだ。
「分かっています」
「分かってる人は、何をする」
「選べる停止方法を増やす」
「今は三つ」
イオは木箱を示す。
「座る。壁へ寄る。介助を選ぶ。ほかに?」
朝は人の列を見る。
「その場で一歩だけ小さくする」
「全員へ言わない」
「本人へ確認」
「三秒以内に?」
朝は一瞬、顔を上げた。
イオはその変化を見た。
「能力?」
「まだ使いません」
「使う条件は」
「範囲内の過半数が、自発的に、三秒以内で一つの動作を選ぶ」
「選べない人は」
「数えない」
「倒れてる人は」
「数えない」
「沈黙は」
「賛成にしない」
「強制された賛成は」
朝の青い指が、少し曲がった。
「私へ返る」
「どこへ」
「両脚」
「便利な正義ね」
「便利ではありません」
「反証が自分へ来れば、他人を傷つけないと思える」
「思っていません」
「本当に?」
朝は答えない。
イオは、能力を失う前の自分を思い出す。
反証を受ければ、責任を果たした気になる瞬間があった。
痛みは代償ではある。
だが、痛んだ人が正しいとは限らない。
「使うなら、一動作だけ」
イオ。
「その後は」
「普通に訊く」
「分かっています」
「二度目」
「まだ考えていません」
「考えて。能力は、一回使うと二回目の理由を作る」
朝はイオを見る。
「あなたは、能力を失ってから、能力者へ厳しい」
「持っていた時の自分に厳しい」
「同じでは」
「違う。今のあなたを昔の私にしないために言ってる」
C区画の手すり近くで、叫び声。
三人の指が、倒れた荷車と手すりの間へ挟まれている。
後ろから来る圧で、荷車が少しずつ動く。
荷車を引けば、倒れている二人の胸へ当たる。
押せば、指が潰れる。
必要なのは、荷車の横へ、一斉に半歩だけ移ること。
ただし、全員ではない。
荷車を囲む百二十四人のうち、動ける者だけ。
朝が前へ出る。
「今から、一つの動作だけを提案します」
声は大きい。
しかし、命令の調子ではない。
「右へ半歩。できる人だけ。できない人は動かない。聞こえない、分からない、決めない人は、賛成に数えません」
前列の人々が、朝を見る。
「右へ行くと壁だ!」
「半歩だけ。壁へ着く前で止まる」
「転んだ人は」
「動かしません」
「拒否したら」
「拒否を残します」
「何秒」
「三秒以内に選ぶ必要があります。選べないなら、選ばないでください」
短い時間を要求すること自体が、圧力になる。
朝は続ける。
「私の提案を断っても、救助順を下げません」
イオが人々の手を見る。
朝も見る。
腕を上げることができない者がいる。
「手を上げない」
イオが言う。
「足元の札を踏む。白が右半歩。黒が動かない。どちらも踏まない、も選択」
忍が、いつの間にか戻っていた。
白黒の布を床へ置く。
レムはその位置をずらす。
「装具の人は踏めない。視線で選ぶ場所も」
白い板。
黒い板。
何もない床。
選び方を三つにする。
朝は範囲を定めた。
荷車周辺、百二十四人。
自発的な右半歩を選んだ者、七十一。
動かない選択、三十七。
未選択、十六。
過半数。
朝は息を吸う。
「一度だけ、そろえます」
その言葉の直後、空気の密度が変わった。
誓痕――過半歩〈マジョリティ・ステップ〉。
朝の足元から、青い細線が円を描く。
選んだ七十一人の右足が、同じ瞬間に半歩だけ動いた。
動かなかった三十七人は、動かない。
選ばなかった十六人も、動かない。
七十一人だけが作った隙間へ、救護員が身体を入れる。
荷車の車輪止めを外す。
指が抜ける。
一人。
二人。
三人。
「終わり」
朝が言う。
同期は、一動作で切れた。
朝の両ふくらはぎへ、細い痙攣が走る。
彼女は立っている。
イオは支えない。
「痛み」
「二」
「左右」
「両方」
「強制は」
「なかった、と私は判断します」
「私は?」
「全員へ、救助順を下げないと説明した」
「説明されたから賛成した人もいる」
「はい」
「自発的の境は」
「まだ分かりません」
「記録」
朝は手帳へ書く。
《第一回使用。右半歩一動作。選択七十一、停止三十七、未選択十六。強制性――未判定》
最後に、自分の名を署名した。
「成功?」
十夜がD区画から戻り、訊く。
指を救われた三人は、救護員へ渡されている。
新しい転倒はない。
「一動作は」
朝。
「事件は」
「続いています」
「じゃあ、拍手は保留だ」
「拍手すると、また揃う」
イオ。
「今日は芸人に厳しい日だ」