第488話 第二章「調停官」後編

 そこへ、中央管制の若い記録係が、透明袋に入れた三枚の紙を抱えて来た。

 年齢は朝と大きく違わない。

 灰色の制服の袖が長く、両手が半分隠れている。

「御厨調停官。配布版の控えです」

「あなたが複写した?」

「はい」

「何時」

「午前五時四十一分から五時五十五分」

「原本と照合した?」

「表紙と署名頁だけ」

「別紙は」

「同じ版だと聞きました」

「誰から」

 記録係は後ろを見る。

 上司を探す動きだった。

 朝は言う。

「後ろに答えはない。分からないなら、分からないと」

「分かりません」

「では、誰の指示で複写した」

「夜間引継ぎ表です。担当者名は勤務識別だけでした」

「あなたは、別紙の有無を確認しなかった」

「はい」

「私の署名を見て、安全確認済みだと思った?」

「……思いました」

「それを書ける?」

 記録係の指が、透明袋を締めつける。

「私が責任を取れば、事故は」

「戻らない」

「では、何のために」

「次に、誰かの署名を見ただけで、確認を終えないため」

「私一人を処分しても」

「一人で終わらせない。あなたを消して、仕組みを無罪にもしない」

 記録係はしばらく紙を見つめた。

 やがて袖から指を出し、自分の筆記具を握る。

《署名頁の一致を、添付別紙の一致と誤認した》

《照合範囲を記録しなかった》

《引継ぎ表の勤務識別から、指示者個人を確認しなかった》

 三行。

「名前は」

「今、公開されますか」

「事故記録へは実名。公衆表示の範囲は別に選べる」

「勤務識別で」

「受領」

 記録係は署名欄へ勤務識別を書いた。

 朝はその横へ、自分の確認範囲を書く。

《御厨朝――別紙付き原版への署名者。配布版照合なし》

 二人の責任は、同じ欄へ入れない。

 上司の責任も、制度の欠陥も、この二人だけで埋めない。

「御厨さん」

「何」

「あなたの署名がなかったら、私は複写しませんでした」

「そうでしょう」

「怒らないんですか」

「怒っています」

「見えません」

「怒りを見せれば、正確になる?」

「怖くて、もっと書くかもしれない」

「怖くて書いた量は、事実の量ではない」

 記録係は初めて、朝の顔を正面から見た。

「調停官は、優しいんですね」

「今の会話で、どうしてそうなる」

「処分を先に言わなかったから」

「処分は、事実を確定してから。順番を守っただけです」

「それを優しいと言う人も」

「親切は、断れない時に命令になる」

「では、優しいと言うのをやめます」

「それは、あなたが決めていい」

 記録係は透明袋を朝へ渡さず、自分で記録台へ運んだ。

 署名を見て仕事を預けた人間が、署名者へまた仕事を戻さないために。

 朝は立ち上がった。

 両ふくらはぎに、さっきより強い張り。

「行きます」

 迅が言う。

「走るな」

「命令?」

「助言。走ると後ろが走る」

「正しい」

「報告書に書け」

「もう書いてあります」

 朝はC区画へ向かった。

 歩幅を、わざと迅とずらした。

 右。

 少し待つ。

 左。

 短く。

 隣の人間と違う歩き方は、思っていたより難しかった。

 同じに歩くことには、考えなくていいという親切がある。

 親切は、断れない時に命令になる。